日沖探偵事務所事件ファイル「神はサイコロを振らない」

交刀 夕

第1話 こちら日沖探偵事務所でございます その1

日沖(ひおき)探偵事務所に所属する上井裕一郎(かみい ゆういちろう)と冨田丈洋(とみた たけひろ)は、ターゲットの下脇僚介(しもわき りょうすけ)が愛人とともに東京の道玄坂にあるホテルから出てくるのを待っていた。


「上井さん。広告会社の営業が不倫でラブホを使うなんて、世の中変わりましたね」


助手席に座っている冨田が、ビデオカメラの液晶モニターを見ながら口を開いた。


「そうだな。芸能人がアパホテル、車の中、個室トイレと、着々とグレードダウンしているから、金ないんだろう」


「やっぱ今、不景気ですよね?」


「マスコミ関連は間違いなくそうだろうな。ところで、お前。暑くないのか? 中にそんなもの着込んで」


上井はTシャツの胸元から見える冨田の防刀チョッキを見ながら言った。


「備あれば、憂いなしです。上井さんがいつも緩すぎるんですよ」


「いやいや、お前。ほどよい目標でほどよく生きることが一番幸せだよ? そんなに気合入れて生きていたら、もたないよ。俺はね、今までいろんな……」


その時、突然、車の後部座席のドアが開いた。


振り返ると、そこには白いブラウスを着た若い女性が座っていた。


「はい。お疲れさん」


同僚の真石早希(まいし さき)だ。彼女は手に喫茶店の紙袋を持っていた。


「ありがとう、早希」


上井は早速紙袋に手を突っ込み、コーヒーを取り出した。


「いただきます」


冨田はサンドイッチを手に取り、口に入れた。


「そろそろでしょう? 出てくるの」


早希が聞いて来た。


「ああ。入って2時間半たったからな」


上井はコーヒーを一口飲み込み、それから答えた。


「どんな顔して出てくるかな」


早希はとても待ち遠しそうに、手を擦りながら言った。


「あっ、出て来ました」


冨田が声を上げた。


上井はすぐに予備のビデオカメラに二人の姿がきちんと撮影されているかどうか確認した。


液晶モニターには、ターゲットの下脇とその愛人、奥住友里絵(おくずみ ゆりえ)の姿がしっかり写し出されていた。


「二人とも、楽しそうな顔してるわね」


後部座席から聞こえた早希の声も楽しそうだった。


「冨田、ちゃんと写っているか?」


「はい、大丈夫です」


「そうか。よし。じゃあ、これで……。おい。嘘だろう」


上井は下脇僚介の後方に、彼の妻であり依頼人でもある下脇真理子(しもわき まりこ)の姿を発見した。


彼女はバックの中に手を入れ、何かを取り出そうとしていた。


「どうしたんですか?」


冨田が聞いて来た。


「奥さんがここに来ている。冨田、俺は奥さんを説得しに行くから、お前は万一に備えて旦那をガードしろ。早希はここで待機」


「はい」

「りょうかーい」


冨田からは緊張感のある声が、早希からは緩い声が返ってきた。


上井は車を降りて、すぐさま真理子のもとに走って行った。


心配した通り、彼女は手提げバックから包丁を取り出し、ゆっくりと下脇僚介がいる方へ歩いて行った。


上井は真理子の行く手を遮り、口を開いた。


「下脇さん。落ち着いてください。今の映像はしっかり録画できましたので、実力行使に移らなくても大丈夫です」

 

上井の言葉を聞いた真理子は、包丁を手にしたまま足を止めてくれた。


そして、少し顔に笑みを滲ませながら優しい口調で話し始めた。


「探偵さん。あの人はね、浮気していることを聞かれたら『自分に能力があって、その能力を発揮できる場があって、お前は黙って通り過ぎるかい?』って答えているの。だから、私もあの人を刺す能力があることを証明しようと思って」


「ああ、それ『ノルウェイの森』に出てくる永沢さんのセリフです。旦那さんを浮気の道に駆り立てたのは、村上春樹です。あいつに文句言ってやりましょう」


「そういうこと言ってるんじゃないの」


真理子が突如激昂して、包丁を振り回した。


上井は包丁を避けようとして、体勢を崩し、尻もちをついてしまった。


その隙に、真理子は前方にいる下脇僚介に向かって走り出した。


「落ち着いてください、下脇さん」


冨田が真理子を正面から受け止めた。


「逃げるな」


真理子が前方にいる夫に向かって叫んだ。


先程の声で妻の存在に気づいた下脇僚介は、愛人の手を取り走り出していた。


真理子に追いついた上井は、後ろから彼女の両手を押え、口を開いた。


「大丈夫です、下脇さん。きちんと有利な条件で離婚できますから」


「それだけじゃ、私の気持ちが収まらないの」


そう叫びながら、上井の手を振り解こうとする真理子の力は、かなりのものだった。


「お前たち、何をやっている」


騒ぎを聞きつけ、前方から警察官が複数名こちらに向かって走って来るのが見えた。


「もう、いい加減、離して」


その時、暴れる真理子の手から包丁がすっぽ抜け、警官たちの方に飛んでいった。


彼らは慌てて身をかわし、包丁を避けた。


ああ。これで公務執行妨害確定だ。


「お前たち、全員逮捕する」


上井たち3人は逮捕され、渋谷警察署に連行された。

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