One Hundred Yard

宮﨑

One Hundred Yard

大英帝国はこの100ヤードを進むために、どれだけの戦死者を積み上げてきたのだろうか。

喘鳴を漏らしながら、泥の中に横たわる男を前に、僕はふと考えた。


戦場はあらゆる場所から遠い。後背の郷里とも、両翼の友軍とも、前面の敵軍ともだ。その距離は物理的でもあり、多分に精神的でもある。また、その長短は所要時間でも、必要資源の多寡でも決定する。

その距離は僕を苦しめた。その距離を感じる度に僕は身悶え、手についた血と泥が付くのも構わないで頭を掻きむしった。その距離を認識する度に僕は怯え、震えが止まらなくなった。その距離こそ、僕を日常から遠ざけ、僕から人間性を剥奪している元凶だと信じた。

最初は家族と手紙を交わすことで、その距離を縮めようとした。前線の塹壕にいて、数少ない故郷との繋がりを感じられる行為だったからだ。僕は前線での不満や恐怖、悲痛を書き綴って両親の元に送った。僕の両親は優しく、返信を欠くことはなかったが、僕が期待したような効果は現れなかった。ヨークシャーの片田舎に住む彼らには、砲弾が直撃しないようにただ祈って塹壕で耐える昼も、ガスマスクをお守りがわりに泥の中で眠る夜も、決して理解できなかったのだ。父の拙い文章から伺える素朴で幸福な故郷の憧憬は、僕の心をかき乱し、僕と故郷との距離をさらに広げるだけだった。


次に僕はフランス女と遊ぶことで、その距離を縮めようとした。軍指定の宿で出会った彼女は、英語を全く解することができなかったが、それが寧ろ僕の心を癒していった。その意味を理解できない言語は、単なる音となって、僕を包み込むように響く。フランス語は詩だ。くぐもった低い響きを音楽に、安宿のベッドの上で眠ることが僕の唯一の安息だった。

しかし、それも長くは続かなかった。彼女はある日内地へと移動し、新しく来た女は英語を片言ながら話すことができた。彼女は彼女の興味から僕に戦場の体験を聞き、彼女の善意から同情してくれたが、彼女と話すたび、僕は塹壕の中へと引き戻される感覚を覚えた。彼女の英語は確かな意味を持って僕の耳を刺激した。英語は僕にとって届かぬ故郷の言葉であり、戦友が塹壕間の100ヤードで、死に際に放つ言葉だった。

それから、僕は宿にすっかり行かなくなってしまった。


そして、その距離を縮める最後の機会が訪れた。

今日は久々の総攻撃の日だった。入念な準備砲撃のあと、僕らの中隊は第一隊として塹壕を飛び出し、100ヤード先のドイツ軍の塹壕へと突撃を開始した。敵の機関銃が唸り、手投げ弾が飛び交い、鉄条網は服と皮膚を裂いた。イギリス兵は次々と斃れ、空所を補うように兵士が突撃し、また斃れた。僕らの小隊が50ヤードほど進んだところで、銃砲火はいよいよ激しくなり、前進も後退もできなくなってしまった。至近で砲弾が炸裂し、左隣にいた兵士の左半身が吹き飛ぶ。機関銃弾が飛来して、僕の右隣の男の両手を吹き飛ばす。最初に聴覚が麻痺した。無音の世界の中でも粉塵と鉄片は容赦無く降り注ぎ、僕の視界を奪っていく。たまらず僕は砲弾が抉った穴に飛び込んで、難を逃れようとした。すると、そこに先客がいた。僕が泥に伏せた瞬間、横から男が襲ってきたのだ。男と僕は取っ組み合い、殴り合った。30秒ほど格闘して最後には僕が勝った。僕の銃剣が彼の胸に突き刺さり、男は倒れた。

男は若いドイツ兵だった。偵察任務だろうか、塹壕に帰る前にイギリス軍の攻撃が始まって、この穴に隠れていたのだ。僕は彼を凝視した。彼にはまだ息があった。不規則な呼吸音が響く。銃弾が大気を切り裂く音も、砲弾の炸裂音も、兵士たちの怒号も全て僕の意識外へと消え去り、後には彼の喘鳴だけが残った。僕の意識は彼に囚われたが、彼に何かすることはなかった。とどめを刺すのでも、手当をするのでもない。僕がこの2年間見続けてきた、兵士たちのありふれた死に様の再現を、目と耳を極限まで集中させて感受していた。

何時間経っただろうか。太陽も沈みかけた夕刻、銃砲声が止んでいることに僕は気づいた。攻撃が終わったのだ。イギリス軍の攻撃部隊は全滅し、残存部隊は元の塹壕に引き上げたのだろう。僕は死にかけの男は取り残され、どちらつかずの距離にいた。両軍の塹壕から50ヤード。後方は遠く、前方はさらに遠い。

彼は相変わらず喘鳴を続けていたが、その音はずっと小さくなっていた。男を見続けて、僕は不思議な気分に囚われるようになった。近い。彼と僕が近いという感覚だ。彼も僕も戦場という、あらゆる場所から遠いところにいる。そして今、100ヤードの中間にいて、敵の兵士と同じ砲弾穴にいる。彼は死にかけで、僕も似たようなものだ。彼と僕との間にある1ヤードの距離は、最初ずっと遠く感じられ、今はずっと近くなっていた。僕は彼の元に這って行き、彼の顔を覗き込む。淀んだ瞳が微かに動き、僕の顔を見つめる。乾いた唇からは、音にならない声が流れる。僕は無言のまま持っていた水筒の最後の水を、少しずつ男の唇に流してやった。彼は何かを必死に訴えたが、僕はドイツ語が分からず、彼も英語がわからないようだった。僕が首を振ると彼は悟ったようで、震える手で彼の胸ポケットを指さした。僕がポケットを探ると、軍隊手帳と、一枚の写真が出てきた。写真には彼と、少年少女と、中年夫婦が笑顔で写っている。僕は精一杯のぎこちない微笑みを浮かべて、彼の手を握った。彼は涙を浮かべ、末期の力を振り絞って言葉を紡いだ。それさえも、どういう意味なのか僕にはわからなかった。

僕は彼の手を握ったまま、無意識のうちに故郷の童謡を口ずさんだ。涙が止まらなかった。僕は僕を殺そうとしたドイツ人に、確かな愛情を抱いていて、それを自認するたびに心が震えた。

夜になって彼は死んだ。彼の手帳と彼の家族の写真を僕に託し、今地上で最も僕と近い男は死んでしまった。既に日は落ちている。僕は恐ろしい虚無感に襲われた。何もかも僕から離れていく。故郷も、女も、戦友も全て手の届かない、言葉の届かない彼方へと逃げてゆく。

圧倒的な距離が、僕の目の前にあった。

ふと、僕は気づいた。

何もかも遠ざかっているのではない。僕が何もかもから遠ざかっていたのだ。変化こそが距離だ。僕はここにきて決定的に変わってしまったらしい。だから、何もかもが遠く感じられる。

ならば、やらなければいけないことは単純だ。進むしかない。変化して遠くなるなら、今までの何もかもとも違う、新たな何かに近づけば良い。新しい人間性を、新しい日常を手に入れれば良い。今日は50ヤード進んだ。ならばもっと進もう。あの穴倉に逃げ帰り、50ヤード後退するのではなく、50ヤード進めばよいのだ。

ライフルを握りしめ、手投げ弾を確認する。ベルトを引き締め、息を整えた。

男の遺品である写真は、穴の泥に捨てた。


さあ、突撃だ。この100ヤードこそ、僕が進むべき距離だ。







今の僕らが歩いて2分でたどりつく距離に、大英帝国は1ヶ月かける。

あとに残されるのは血まみれのボロ切れのような百万の戦死者。


F・スコット・フィッツジェラルド『夜はやさし』




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