先生

くにすらのに

第1話

「問題集なんて解いても無駄だよ……」

 

 窓から差し込む春の光は暖かいを通り越してもはや暑いくらいだった。

 桜の花は綺麗に咲き誇り、それをスマホで撮影しながら談笑する人々。

 俺はそんな光景を病室から見下ろすことしかできない。


 手術が成功して退院したらまた学校に通うんだからと両親から与えられた問題集はほぼ手つかずだ。


 大人になってからこの問題集を解いた経験が活かされるとは思えないし、そもそも俺はたぶんもうすぐ死ぬ。


 手術前だからネガティブになっているわけではく、自分の体は自分がよくわかっている。そういう状況になって初めてこの言葉は本当なんだと知った。


「もう、せっかくの春なんだから辛気臭い顔しないでよ」


「だったらわざわざカーテンを開けて俺の顔を見ないでくださいよ」


「ダメよ。なぜならわたしはキミの病室教師になるって決めたんだから」


 この場所は家庭ではなく病室だから家庭教師ならぬ病室教師。

 長くて綺麗な黒髪と吸い込まれそうな大きな瞳は男子高校生なら誰もが憧れるお姉さんという印象だ。

 出会ったのが病室でなければだけど。


「勝手に決めないでくださいよ星川さん」


「星川さんじゃなくて星川先生。もしくは凛お姉ちゃんでもいいわよ」


 親指をグッと立ててウインクをする星川さん。

 たぶん大学生くらいの年齢の彼女はどこか言動が子供っぽいところがある。


「それにわたしの実力はキミによーく伝わってるはずだよ。ほらほら、今日は2ページ頑張ろう!」


 この病室には俺と星川さんの2人しか居ないのを良いことにハイテンションでパイプ椅子を広げてベッドサイドに腰掛ける。


 こんなに元気な人は一体どんな理由で入院しているのかは気になるけど、さすがに出会って間もない、それも入院生活が終わればもう縁のない人にそんなことを聞くわけにはいかない。


 そうなれば必然的にこの自称病室教師の勢いに押されてしまうわけだ。


「さすがわたしの生徒。順調じゃないの」


「あの、ちょっといいですか?」


「なあに? どこか分からないとこでもある?」


「暇潰しなのは分かってるんですけど、もっと他になかったんですか? もうすぐ死ぬ俺に勉強なんか教えても……」


「無駄じゃないよ」


 自分では死ぬ覚悟を決めているつもりでも、いざそれを他人に対して口にすると言葉が詰まってしまう。

 その一瞬の間を突いて星川さんは無駄じゃないと言い切った。


「治る見込みがある人なら無駄じゃないですよ。でも、俺にはわかるんです。手術してもそれは一時しのぎだって。人生のゴールはもう見えてるんです」


「本当にそう思ってるのなら、どうして問題集を解いてるの?」


「それは……」


 星川さんが強引に解かせてくるから。

 そんな風に嫌味の一つでも返してやろうと思ったのに口が動かない。

 

「はいはい。暗い空気はここまで。まったくもう、勉強したくないからって話題を変えちゃダメだぞ?」


「わかりました……星川先生」


「んふふー。もう1回! もう1回言って!」


「せんせー。うるさくて勉強に集中できません。つまみだしてください」


「はーい。って、その先生がわたしなんですけど!?」


 初めて俺が星川さんのことを先生と呼ぶと、星川さんは目をキラキラと輝かせてえらく喜んだ。

 よほど先生という職業に対して憧れを抱いているらしい。もしかして教育学部に通っていたりするのだろうか。


 もし星川さんが先生だったら生徒にバカにされつつも慕われそうだ。こういう人は退院して社会復帰してほしい。


***


「手術成功、そして退院おめでとう!」


「ありがとうございます」


 成功率は低いと聞いていた手術はまさかの大成功。医者を信用していなかったわけではないけど、ここまでうまくいくと思っていなかった。


「その……病室教師ありがとうございました。心のどこかで死ぬから無駄だって思ってたんですけど、全然無駄にならなくて」


「いいってことよ。手術前はどうしても気分が落ち込むからね。むしろわたしの教えがなくなって成績を落とさないように」


「それは心配ないです。星川先生よりもちゃんとした先生が学校にはたくさんいますから」


「うぅ……先生って呼んでくれてるのに辛辣」


「それよりも、星川先生も先生になってくださいよ? 目指してるんですよね?」


「ふえ?」


「え?」


 日頃からちょっとマヌケよりの星川先生がいつも以上に気の抜けた返事をした。

 ずっと教師を目指しているとばかり思っていたのに。


「わたしが先生なんて無理無理。あっ! 窓の外!」


 急に真剣な顔つきになって星川先生は窓の外を指差した。

 半分冗談とわかっていても、この一瞬がもしかしたら決定的瞬間かもしれない。

 そう思うと反射的に視線は指先の方を向く。


「やっぱり何もないじゃ……星川先生?」


 ドアが開いた形跡はない。隠れると言ってもベッドの下くらいでスペースはほとんどない。

 俺が先生から視線を逸らしたほんの一瞬でどこかに逃げたり隠れたりするのはほぼ不可能だ。

 まるで最初からここに誰も居なかったように星川先生は姿を消してしまった。


 ガラガラッ


 看護師さんが病室に入ってきた。

 このドアはどんなに静かに開けようとしても絶対に音が出る。


「どうされました? 手術は成功したと言っても病み上がりなんですから安静にしてくださいね」


「あの、この病室の星川……星川凛さんはどこに」


「星川? この病室はずっと一人ですよ」


「そんな……」


 たしかに俺は星川先生に勉強を教えてもらっていた。

 自分のベッドの周りで。


 だけど反対に、俺が彼女のベッド周辺に立ち入ったことはない。

 カーテンで囲われたこのエリアはある種部屋みたいなものだ。年上の女性の部屋に立ち入るなんて俺には……。


 そこでようやく気が付いた。

 年頃の男女が同じ病室に入ることなんてあり得るのかと。


「まあでも、この部屋に入院される方でたまに同じようなことを言う患者さんはいますね。入る時は暗い顔をしてるのに、退院される時はみなさん表情が明るくなって。やっぱり病気が治ると嬉しいものですよね」


「そう……ですか。ですよね。うん。病気が治ってホッとしています」


「だから油断は禁物なんです。術後は体力も落ちてますから今は退院に備えてしっかり休んでください。お勉強は……した方がいいかもですけど」


「……そうします」


 看護師に促されてベッドに戻ると参考書をパラパラとめくった。

 星川先生が隣に居る時はどんどん頭に情報が刻まれたのに、今はただの文字列にしか思えない。


 なんとなく勉強している風を装うために今日やるはずだったページを開いた。

 まだ何の書き込みもしていないはずのそのページの右端に、誰かの文字でこう記されている。


 ゴールはまだ先


 俺は星川先生が書いた文字を見たことがない。

 だけど、この少し丸みを帯びた文字を俺は知っている。


 昔近所に住んでいた名前も知らないお姉さん。

 公園で声を掛けられた時に防犯ブザーを鳴らし掛けたのが出会いだった。


 仕事が忙しい両親に代わって補助輪なしの自転車の乗り方や、宿題を教えてくれた先生のような存在。

 1つ課題をクリアする度に「ゴールはまだ先」と言って次の課題を出す鬼のような先生だと当時は思っていたけど、たしかに人生のゴールはずっとずっと先だ。


 ある日を境にぱったり会わなくなってしまって、時が経つに連れて記憶の奥にしまわれてしまった先生との思い出。


 きっと、俺はもうすぐ先生を追い越してしまう。

 だけどそこはゴールではない。


 少し幼さの残る文字をそっとなぞって、遥か彼方にあるゴールを目指して再び走り出した。

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