しにたいぼくらは、それでもすこしだけ生きてみる

雪車町地蔵@カクヨムコン9特別賞受賞

物語の力は無意味なのか?

 気の迷いである。


 心の隙間に暗黒が宿るということは誰しにもあって、それをぼくらは魔が差したとか道を踏み外すとか言うのだけれど。

 そういう意味で、もっとも踏み外してはならない場所に、ぼくはやってきてしまっていた。


 高層ビルの屋上。

 一歩踏み出し、踏み外すだけで人生にゴールテープを飾ることが出来るそこは、まさにこの世とあの世の死線デッドラインとでも表現すべき場所だろう。


 問題は、ここに先客がいて。

 そしてその先客は、いまにもフェンスの向こう側へと飛び立とうとしていることだった。


「待て待て、状況が急すぎて飲み込めない。そんな飛躍は求めていない」

「……うざ。最後ぐらい静かにしてほしいんだけど」


 嫌悪感をむき出しにしたのは少女だった。

 年頃は十六ぐらいで、うん、美人と言えば美人の類いだろう。


「おにーさんさぁ、ここはあたしに譲ってくれないかなぁ。端的にいうと、死にたいならよそを当たってほしいというか」

「おいおいおい。まさかきみ。きみはこのぼくが、ここから身を投げるためにやってきたとでも考えているんじゃあないだろうね?」

「……違うの?」


 冗談ではない!

 ぼくはあくまで魔が差しただけだ。

 ちょっと危険な遊びにきょうじたくなっただけだ。


 そりゃあ新作の原稿げんこうがうまいこと進まず、にっちもさっちもいかなくなって、疲弊ひへい困憊こんぱいを重ねているのは事実だけど。

 だからといって、死を望んでいるわけじゃあない。


「だったらただの邪魔じゃん……マジ最悪」


 少女はうめくようにそう言って。

 よどんだ瞳をぼくへと向けた。


「消えてくれない? おにーさん」

「……それは、できないなぁ」

「なんで」

「ぼくが大人だからだ」

「はぁ?」


 心底理解できないといった具合に、少女は顔をゆがめてみせた。

 単純に嫌気が差しただけかもしれない。


 ぼくだってそうだ。

 彼女の立場に立ってみれば、現状というのは最悪だろう。

 ようやく現世のしがらみから開放され、なにもない世界へ旅立とうとしているのに、いきなり闖入者ちんにゅうしゃが現れたかと思えば、どうやら自殺を止めようとしている。


 すごい、まとめるだけで気が滅入めいる。

 ぼくなら無視して飛び降りているだろう。

 だが、少女はそうしない。

 なぜか。


「考えられる仮説としては、ぼくにトラウマのようなものを植え付けまいと、死の瞬間をみせまいとおもんぱかってくれているというのがあるかもしれない」

「ねーよ」

「だよねー」


 死ぬほど思い詰めた人間に、そんな余裕があってたまるか。

 なにが理由かはわからないが、彼女はギリギリ、飛ばないことを選択し続けているに過ぎない。

 そうして、その選択肢は常に、反対側に傾斜けいしゃする可能性をはらんでいる。


「なんか、ぼくに話したいこととかある?」

「おにーさん見ず知らずの人じゃない」

「親身じゃない方が話しやすいこともあるでしょ、旅の恥はてとも言うし」


 だからといって死出しでの旅の前に晩節ばんせつけがすのは格好の悪いことだが、こちらとしても譲歩じょうほのラインがある。

 飲み込んでもらいたいところだ。


「…………」


 少女はしばらく迷っていたが。

 半眼でうめくと、フェンスに頭を叩きつけた。

 それから、ぼくを見て。


「ぜったいつまんない話になると思うけど」


 そう言って、少女は語りはじめた。



§§



 なにがきっかけというわけでもない。

 すべてはほんの些細ささいなこと――そう、他人からしてみれば、些細で無価値なことから始まった。


「委員長を、押しつけられたわけ」


 くじ引きだったか、推薦だったか、投票だったかは覚えていないと、少なくとも少女は言ったが、ありありとその顔に浮かぶ嫌悪は、外に依存いぞんするものだと言うことを示していた。


「はじめは、頑張らなきゃと思った。けど……すぐに苦しくなった」


 期待に応えなくてはならない。

 仕事をきちんとこなさなければならない。

 ミスをしてはいけない。

 誰かを頼ってはならない。


 自縄自縛じじょうじばくのように、少女はそんな責任感に押しつぶされていった。

 それでも器用に、仕事だけはこなしていたという。

 けれど、そんなもの長く続くわけがない。


「失敗した。ほんのちょっぴりの失敗だった。でも」


 それで、嫌になった。

 ただの重しでしかなかったものが、急に石抱きのような刑罰に変わった。

 誰も彼女を責めなかった。

 表だって罵声を浴びせるものなどいなかった。


「でも、ぜったいダメなやつだって思われた」


 うとまれている気がした。

 嘲笑ちょうしょうされている気がした。

 そうじゃないのだとしても、自分が自分で嫌いになっていた。


「そうしたら、なにもかもが、辛くなった」


 学校に行くことも。

 友達と話をすることも。

 お弁当を食べることも。

 授業を皆で受けることも。

 着替えをすることも。

 トイレに入ることも。

 化粧をすることも。

 誰かと顔を合わせることが、見られることさえも、辛くなった。


「胸がしくしくと痛んで、頭がぐじゃぐじゃして、薄い膜みたいなのが思考にかかって」


 そうして、世界が色を失った。


「だから、死のうと思った。いま、死のうとしている」


 それが少女の希死念慮きしねんりょ

 いまこの刹那に、現世からゴールを決めたいその理由。


 ぼくは、黙って聞いていた。

 黙って聞いていることしか出来なかった。


 そりゃあ、最初は打算ださんがあった。

 人の不幸自慢など聞いているだけで虫唾むしずが走るし、大人だからと言って他人のストレスを全て管理する必要は無い。

 だが、聞き飽きたと言って投げ出すことはいつでも出来たし。

 なによりこれは、丁度いい取材の機会だと思った。


 死に漸近ぜんきんする生のリアルだ。


 それで創作意欲がかき立てられないわけがない。

 ……そういう、打算があった。

 けれど途中から、そんなことはどうでもよくなっていた。


 少女は、昔のぼくだった。

 ぼくと、何も変わらない弱い人間だった。


 本当のことを言おう。

 ぼくはやっぱり、ここへ死にに来たのだと思う。


 進捗がうまくいかなくて、責任に耐えられなくなって、なにもかもが悪い方向に向かうことへ絶望して。

 魔が差したのではなく――嫌気が差して、ここへ来たのだ。


 ……きっと、こんな話を誰かに打ち明けたところで、なんだそんなことかと言われるのが関の山だろう。


 それがどうした、みんな耐えているんだ、おまえだけ泣き言を言うな、贅沢だ、他人に頼るな、病院へ行け、気合いが足りないからだ、気持ちが悪い。


 それが、ごく一般的な、極めて普通の人間が持ち得る常識的な対応というやつだ。

 ぼくは知っている。

 ぼくは大人だから、いろんなものを見てきたから知っている。

 けれど、目の前の少女は、そんな経験とは皆無なのだ。


 いもあまいも、汚いものも邪悪なのも。

 彼女とはきっと無縁の代物なのだ。


 単純な経験だ。

 いつのまにか腹はたるんでくるし、鼻毛に白髪が交じるようになるし、お酒も量を飲めなくなって、人付き合いが打算に満ちていることを理解する。

 好きだ嫌いだと言いながら、腹の底では真逆のことを考えていて、一円単位をおごってみせては恩を売ってくるようなやつらで満ちあふれているのが世の中だ。


 人間は、そうして世界の醜悪さを学び、絶望を知って大人になる。


 けれど、彼女はまだじゃないか。

 彼女にはまだ、そんな絶望を重ねる時間すら無いじゃないか。


「なんて、きみはずるいんだ」

「はぁ?」


 少女が意味がわからないと顔をしかめた。

 ぼくは、ゆっくりと一歩、彼女へと歩み寄る。

 少女の全身に緊張が走る。

 連れ戻されるとでも思ったのだろう。

 けれど、そんなことはしない。


 ぼくは物書きだ。

 ぼくに出来ることは、物語をつむぐことだけだ。

 だから。


「神様の話をしよう。世界の中心に腰掛けた、パスタの神様が暇を潰す話だ」


 ぼくは語った。

 いくつもの物語を。

 鼻で笑い飛ばされそうな、与太話よたばなしの数々を。


 それは例えば、全人類がウマになる話、探偵が怪盗に心奪われる話、赤い部屋で暮らすパチモン巫女と守銭奴しゅせんど女の話、人間がスマホになる話。

 あるいは最後の人類の少女が相棒を見つけ旅立つ話。

 もしくは骨たちが愛を言祝ことほぎ、幸せなキスを交わす話。

 地球皇帝が宇宙怪獣を倒す話。

 夢落ちのように釈然しゃくぜんとしない独身男の話。


 そして。


「一生懸命に、人を助けるという役目を果たすため、走り続けた少女の話」


 ぼくは語った。

 馬鹿馬鹿しいと一笑に付されるような物語を。

 フィクションを。

 ちっとも現実的じゃなくて、読んでも聞いても一銭の得にもならないような話を。


 娯楽にしかならないような、無駄な話を。


 ぼくは、いつの間にか涙を流しながら、語っていた。

 その場に土下座するようにして、許しをうようにして、口にしていた。


「――――」


 少女は、ただ黙って。

 一言も口を挟むことなく、いつまでも続くぼくの話に耳を傾けてくれていた。

 そうして。


「やーめた」


 酷くあっさりと、何事もなかったかのように、フェンスを越えて、戻ってきた。

 薄氷のようなデッドラインを、またいで超えた。


 彼女はうずくまるぼくをジッと見下ろして。


「あんた、気持ち悪い」


 と、ずいぶん率直そっちょくな意見を投げつけてきた。


「大の大人が、小娘の前で泣きじゃくって、見てられないったらありゃしない。でも」


 でも、と。

 彼女は言葉を、続けて。


「でも――あんたの物語を、面白かった」


 それは。


「ちょとだけ。続きを聞くまでは、死ぬのを待ってもいいかなって……思えるぐらいには」

「――――」


 はたして。

 このとき救われたのはどちらだっただろう?

 結末には関係無いが、いまでもあのときのことを思い返しもする。


 ぼくはそのあと、鳴かず飛ばずなりに文壇に食い下がって今日まで生きてくることが出来た。

 物書きとして、死なずにすんだ。

 安易なゴールを選ばなかった。

 でも、それは――


「続き。早く書いてよ」


 ――こんなにも、新作を心待ちにしてくれる読者が出来たからだ。


 物語は娯楽に過ぎない。

 そこには何の力も権威も無い。

 けれど……そんなものでも、あるいは誰かを救うことが出来る。


 だから今日も、ぼくは筆をる。

 それがどんなに無意味でも。



 ――生きて続きが読みたいと思ってもらうために。

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