ソロパートはソロじゃない

井ノ下功

四分休符


 美晴の心臓がどきんと跳ねた。部員たちの目が自分に集まっているのが分かった。


「できるな? 花野」


 顧問の問いかけは「はい」以外を許していないような響きで。

 美晴はおずおずと頷いた。けれど心の中は疑問符でいっぱいで、許されるなら「無理です」と言いたいくらいだった。


(どうして……なんで、私にソロパートを?)


 千夏の様子を横目でそっと窺う。千夏はいつも通りぴしりと背筋を伸ばして、真っ直ぐに指揮台の方を見ていた。美晴は気付かれないうちに視線を落とした。



 美晴がアルトサックスに触れたのは、中学に入ってからだった。憧れの吹奏楽部は、夢に描いていたのと寸分たがわず、キラキラと輝いていて、体験したその日に入部を決めてしまった。

 千夏も同じ。けれど千夏は、小さい頃からずっとピアノを習っていたから、どんな楽譜もあっという間に覚えてしまう。それにリズム感も耳もよくて、ちょっとのズレもすぐに気付く。なによりストイックで努力家だ。美晴がアルトサックスの重さにようやく慣れた頃には、すでに先輩と同じ曲を同じくらい上手に吹いていた。一年生でコンクールメンバーに選ばれたのは、千夏ともう一人、パーカッションの高崎だけ。

 それから一年と半年。県大会を銀賞で終わった夏を最後に、先輩たちが引退して、ついに美晴たちの世代になった。当然、サックスパートのリーダーは千夏。実力はもちろん、度胸もカリスマもあるのだから、満場一致でそうなった。

 だからソロパートだってもちろん、千夏がやる。全員がそう思っていたのに。



 敬老会に向けたミーティングが終わって、パート別の練習をする教室に移動する。みんな奇妙に沈黙していた。いつもならあれこれしゃべりながら、ゆっくり家庭科室へ行くのに、黙って足を動かすものだから、いつもよりずっと早く着いてしまった。


「楽譜、分けるね」


 千夏が手早く楽譜を配る。バリトン。テナー1、テナー2、そして。


「はい、美晴」


 美晴に渡されたのは、アルト1。冒頭に「Solo」と書かれているのを目の当たりにして、美晴はぐらりと揺れるような感じを覚えた。


「良かったね」


 そう言ったのは千夏だ。美晴は一瞬救われたような気持ちになって、パッと顔を上げた。

 千夏はガタガタの線で描かれた自画像みたいに引き攣った笑みを浮かべていた。


「初ソロの舞台が、コンクールじゃなくって。敬老会なんて、どーせ真面目に聞いてるやつなんかいないんだし、小さいし、簡単でしょ。美晴にぴったり」

「え……」


 美晴ははたと硬直した。あんまり冷たい、しかも思い切り馬鹿にするような言い方だったからだ。千夏がそんなふうに敵意を剥き出しにすることなんて無かったし、ましてそれが美晴に向くなんて。

 千夏はふいとそっぽを向いて、サックスを持つと、さっさと椅子に座ってしまった。


「練習始めるよ。早く準備して」


 美晴はできるだけ息を殺してサックスを持った。慣れたはずの重みが、いつもよりもずっときつく首に食い込んだ。



 その日から、サックスパートの練習はひどいものになった。ずっとカリカリしている千夏は「音程が合ってない」と何度も演奏を止めたし、「全然ダメ」とだけ言って一年生に何度もロングトーンをやらせた。

 パートメンバーの不満が日に日に募っていく。美晴はそれを肌で感じながら、いつ誰が爆発するだろうかとひやひやしていた。

 千夏が厳しいのは今に始まったことじゃないから、美晴がフォローに回るのはよくあることだった。千夏をいさめたり、メンバーを励ましたり、時にはわざと失敗して場を緩ませたりすることもあった。けれど、今回の騒動の原因は美晴自身にある。分不相応な大役が回ってきてしまったから。その罪の意識に似た感じが美晴を委縮させて、何の手出しも出来なくさせていた。


「もう嫌です!」


 ついに美晴の恐れていた日が来てしまった。音程のわずかな狂いをねちねちと注意されて、爆発したのは二年生の舞だ。マイクを繋いだまま勢いよく立ち上がったせいで、チューナーが譜面台から落ちる。蓋が外れて電池が飛び出て、机の下に転がっていった。


「いい加減にしてください、千夏先輩! 美晴先輩にソロ取られて悔しいのは分かりますけど、うちらに当たるのはやめてくださいよ!」

「はぁ?」


 千夏が顔を歪めた。音が出そうなほど鋭い視線で舞を睨みつける。


「言いがかりはやめてくれる? あんたらの実力がないから注意してるだけじゃん。それを何? 誰が誰に当たってるって? 自分らの実力不足を棚に上げてそういうこと言うなんて、どうかしてるよ」

「っ、だって、でも!」

「ちょっと頭冷やしてきたら? なんなら帰ってもいいよ。あんたみたいにやる気のないやつがいたって邪魔なだけだし」

「千夏……っ」


 さすがに言い過ぎだ。美晴はとがめるように千夏を見たが、千夏はつんと澄まし顔だ。

 顔を真っ赤にしてぶるぶると震えていた舞が、「分かりました、もういいです!」と怒鳴りつけて、譜面台を片手に出ていってしまった。舞と仲良しの二年生たちが、千夏を一睨みしてからその後を追う。残された一年生が、どうしたらいいのか分からない様子で、おろおろと目を泳がせていた。

 置き去りにされたチューナーの蓋がぽつんと床に転がっている。


「あんたたちも行っていいよ。今日は練習おしまい」


 千夏は誰にともなくそう言った。

 沈黙。

 誰も答えないでいると、


「行きなさいってば!」


 千夏が吠えた。千夏らしくない、幼い悲鳴だった。

 それでわたわたと一年生が立ち上がる。

 教室には二人が残された。美晴は千夏の横顔をじっと見つめた。千夏は頑なにどこか一点を見つめたまま、ぴくりともしないでいる。


「何やってんの。練習終わりって言ったでしょ」

「うん……」

「あんたも早くどっか行きなさいよ」


 黙っていると、千夏がばっとこちらを振り向いた。鬼のお面みたいな怒りの形相。


「行け、って! 独りにして!」


 美晴はひるんで、のろのろと立ち上がった。何か言わなきゃ、このままじゃ駄目だ――そう思ったけれど、肝心の言葉の方が見つからない。どうしてこんな時に限って。美晴は目頭がじわりとするのを感じたけれど、楽器を持ったまま走るのはご法度だから、ギリギリまで我慢しながらゆっくりと教室を後にした。



 どうしてこんなことになってしまったのだろう。やっぱり今からでも遅くない、先生に頼んでソロを変えてもらうべきじゃないだろうか。でもそんなことをして、千夏が元に戻るだろうか。また千夏のプライドを傷付けてしまうだけではないだろうか――

 そんなことをぐるぐると考えながら、ぐるぐると校舎内を彷徨う。と、リズミカルなスネアの音が聞こえてきた。その中からかすかに、英語の歌。


(高崎くん、やっぱ歌も上手いな……)


 ガラス越しに中を覗き込む。広い教室の中央で、パーカッションの高崎が、陽気に肩を揺らしながら気持ちよさそうに歌っていた。彼は吹奏楽部では希少な男子だ。小さい頃からずっと打楽器を習っていて、音大に行ってプロになるのだと公言している。そして実際、打楽器の腕は群を抜いて上手い。

 すごく楽しそうに歌っている彼を見ていたら、美晴の目元はまた熱くなってきた。

 瞬きをしながら耳を傾けていると、ふいに目が合った。しまった、と思った美晴だったが、彼は美晴に逃げる間を与えないほど早く、飛ぶように駆けてきて、教室の扉をガラリ。


「なになに、渡辺が荒れてるって?」

「えっ、どうして――」


 知ってるの、と聞く前に、高崎はにっかりと笑って種を明かした。


「サックスの一年に男子がいるだろ。俺ら男子組、希少だから仲良くしてんの」

「あ、そっか。そうだよね」

「んで、どーよ。やっぱあれ? ソロ取られたのがくやしー! きぃー! って感じ?」


 馬鹿みたいにあっけらかんと聞かれてしまうと、生真面目に否定する気にもなれなくて、美晴は「ちょっと違うけれど、だいたいそんなような感じ、かな」と頷いた。

 高崎はふんふんと犬のように頷きながら、扉に寄りかかった。


「俺さ、パーカス大好きなんだ。小さい頃からね」


 唐突に語り出しておきながら、高崎ははにかんだように笑って「まぁここまで続けてんだから、当然なんだけど」と頭を掻いた。


「本気でプロになりたいし。だから吹奏楽部なんか入らないでさ、レッスンをしっかり受けてた方がいいんじゃないかって言われたし、俺自身そうしようかなって考えたこともある。でもさ」


 いつもドラムロールのようにしゃべる高崎の口が、一瞬だけ止まる。

 そして、ポン、と。


「ソロでやるもんじゃないじゃん? 音楽って」


 空白に打ち込まれた、優しい四分音符。


「ソロパートだって、本物のソロじゃないんだよ。花野がソロを任されたのはさ、たぶん、ソロじゃないからなんだ」

「ソロじゃないから……?」


 意味が分かるような、分からないような。美晴は首を傾げながら、高崎が見ている方に目を向けた。教室の半分ほどを占拠する打楽器たちは、小さなものから大きなものまで、肩を寄せ合うようにしてたたずんでいる。美晴には使い方どころか名前すら知らない楽器もあったけれど、高崎はそれらすべてをいつくしむような目で眺めていた。

 ソロじゃない。美晴はようやく腑に落ちた。


「ま、単純に上手いのは渡辺の方だけど」


 これまたアッサリ、バッサリ。けれど美晴は「うん、分かってるよ」と微笑んだ。

 千夏の方が上手い。それは事実だ。


(でも、だからこそ、支えてもらわなくちゃ困るんだ)


「逃げんなよ。負けるな」

「ありがとう、高崎くん。私、戻るね!」


 走り出したいのを堪えて、美晴は廊下をゆっくりと戻った。言葉がポンポン浮かんでくる。千夏に伝えたいこと。分かってもらわなくちゃいけないこと。逃げていてはいけないのだ。まずは机の下の電池を捜すところから始めよう――

 窓から射し込んだ夕日を反射して、サックスがきらりと輝いた。


   おしまい

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ソロパートはソロじゃない 井ノ下功 @inosita-kou

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