第5話 深淵からの道のり

 白い息を吐く彼女は、しばらくここで待っていたのだろう、鼻の頭が赤くなっていた。


「なにしてんすか、こんな所で」

 先輩の姿を見た僕はもう、心配なのか憤っているのか、はたまた嬉しいのか、自分でもよく分からない感情で胸の内が熱くなった。


「コータローを待ってたんだよ」

 さも当たり前のことを諭すかのような口調だった。

 この人には気まずいとかいう類の感情は無いのだろうか。


「どうして……」

 しかし、喉まで出掛かった言葉はその後何も続かなかった。

 しばらくの沈黙の後、先輩は静かに言った。


「ねぇコータロー、もう一回、深海コンビニに行こうよ」


 立ち上がった先輩はミトンをつけた手を差し出した。その時の表情、哀しいほどに優しい笑みだった。

 僕の中のいろんな疑問を、怒りを、不安を、この人は察していたのだ。僕と先輩を真に繋げられるものは僕達の世界だけだから。


 差し出されたミトンを掴むと、先輩はぎゅっと僕の手を握って下宿の外へと引っ張りだした。

 前とは違う街灯の無いあぜ道を先輩は黙々と進んでいった。


 風のない夜だった。

 しばらく行かないうちに辺りは暗くなり、頼りない月明かりだけが僕達のシルエットお浮かび上がらせていた。


 そのまま突っ立っていると、海溝のような闇に吸い込まれていくみたいだった。

 静寂の中「どこに行くんですか?」僕は尋ねる。


「ほら来たよコータロー、深海エレベーターだ」

 先輩が天から降りて来るエレベーターを目で追う。

 ミトン越しに僕の手を握る力が増すのがわかった。


「行こう、深淵の地へ」


 先輩の声と手の感覚だけが自分がここにいるのだという唯一の手がかりだった。

 僕達が空想のエレベーターに乗り込むと、沈み込むように降りて行く。


「静かすぎて不気味だね」

「この先は海溝の奥のさらなる奥。誰も行ったことも見たこともない場所」


「何も見えないよ」

「そうさ、太陽の光なんてわずかだって届かない」


「息苦しいよ」

「酸素だってあんまりないもの」


「ここには誰もいないの?」

「いないよ、生き物は、なにも」

その声に感情は一切無かった。


「ほら、着いたよコータロー」

 先輩の手が離れる。

僕だけが闇に取り残されて行く。命綱を断たれて宇宙空間に放り出された気分だった。

「ここには私たちがいる。それだけだよ」


「僕はこんなところ嫌だよ。暗いし、怖いし」

「ここは私達以外誰も見たことの無い未開の地、明日になっても、いや十年後も百年後もきっと誰も来ない。だから安心。だっては好きだったでしょう? 一人でいることが」


「それは……」

 僕は立ち止まる。

 そのまま歩いていく先輩との間にだんだんと距離が開く。


 自分の動悸が聞こえてきて、僕を包む不安が大きくなっていくのが分かった。

「私は行くよ。でも君はこの先には来ちゃだめだよ」

「どうして」


「だってここは、君の場所だもの」

「ここが?」

「そうだよ」


 先輩の声に躊躇いは無かった。徐々に離れていくそのシルエットが闇にまぎれて消えていく。

 僕は立ちすくんだまま動けなかった。

 ついに辺りに何も見えなくなる。


 静寂が僕を飲み込み、深海の水圧に捕らわれたまま、孤独な時間だけが過ぎて行く。

 そのままどれくらいそこに立っていただろうか。

 時間の感覚がよくわからない中で、僕の両手の先が冷たくかじかんで、麻痺したように感触がなくなっていた。


 一体先輩は僕をどうしようというんだ。

 こんなの、何の意味があるっていうんだ。

 僕の中のどうしようもない悲しい気持ちがいっぱいになって、溢れていく。


「どうして! どうしていつもそうやって何も言わないで一人で行ってしまうんだ! 分からないじゃないか!」

 何も考えずに叫んだ声は、目の前の空間に吸い込まれて消えていった。


「いつもごまかして、何も言ってくれない! 困ってるのも、辛さも分からない! そんなの心配になるだけじゃないか!」


 年末のあの日、先輩が来て僕はびっくりしたけれど、嬉しかったんだ。


「どうしてあなたは僕の元へ来たんだ!」


 しかし返事は、何もない。


 冷えきった手を、ぎゅっと握る。

 あんまりじゃないか、あなたは僕を頼ってきてくれたんじゃないのか。

 ……僕だって、いつも誰かに助けて欲しかった。誰かに引っ張り出して欲しかったんだ。究極的な他力本願だけど、僕はだれかに僕の今の苦しみに気づいて欲しかったんだ。


 でも一体いつからだろう、誰にも助けを求められなくなってしまったのは。

 僕はずっと、先輩を待っていたんだ、待っていたのに。


「一人で行ってしまったら寂しいじゃないか! 助けてよ!」

 僕は力の限り叫んでいた。

 その時だ。

 遠くで光が見えた。


 目が暗闇に慣れていたせいで、その光は闇の中でひときわ煌いて見えた。

 僕は無意識にその光に向かって歩き出す。


「コータロー! 光に向かって走って!」

 遠くから先輩の声が聞こえた。

 言われたとおりに僕は光に向かって走った。

 徐々に先輩のシルエットが闇に浮かび、それは両手を拡げる。


「さぁ、このままこの深海クラゲの群れに乗って行くよ!」

 僕らはあっという間に虹色に光る深海クラゲの群れに囲まれる。

 そして先輩は前に向かって走り出した。


「行くってどこに?」

「決まってるでしょ! 深海コンビニだよ! この深海クラゲ達が行きつく先が、深海コンビニなんだよ! さあ早く!」


 先輩がクラゲ達と一緒に動き始める。


「ほら、コータロー走って! 闇に飲まれない速さで、振り切って!」


 僕達は走った。とにかく走った。何かに急かされるように、何かに追われるように、何かにすがるように、ただひたすらに走り続けた。


 しばらくすると深海コンビニの明かりが見えてきた。


 先輩と僕の荒い息遣いだけが闇に反響している。

「はぁっはぁ、はぁっ……」

 僕は深海コンビニの駐車場に仰向けに倒れた。


 着ていたダウンジャケットの中で、僕の身体はカイロみたいに熱くなっていた。少し吐き気もした。

 後ろから先輩も走ってきて、ふらふらした足取りで隣に座り込んだ。


 僕らは深海コンビニを見ながら、五分も十分も何もできずに駐車場で座り込んだ。

 たまに目の前の道を車が走って、僕らの横顔をライトで照らしていった。

 先輩は「はぁ~」と大きく息を吐いてから言った。


「ねぇコータロー。君は気づいていないかもしれないけれど、たぶん深海クラゲはずっと、君の周りにいたんだよ。でも、君が彼らに発信しないから、彼らは動けなかっただけなんだ。君が助けを呼んだから、深海クラゲは反応したんだよ。きっとね」

「それってどういう……」


しかし先輩はさっき家の前で座り込んでいた時と全く違う笑顔を僕に向けただけだった。

 でも、それでよかった。

 ことばで確認しなくても、何かが確かにわかったような気がした。

 僕の心は全力で走りきった身体に温められたように、ほのかに熱を帯びてきていた。



 その後、僕らは深海コンビニで夜食を買って家に帰った。

 家につくとすぐさま僕はノートパソコンを開け、脚本の続きに取り掛かった。


どうしてか、今の僕にはいつもなら考えもつかないようなすごいアイデアが浮かんできそうな予感がしていた。走り終わった後のアドレナリンが残っていたせいかもしれない。


 そしてそれはおもしろい経験だった。僕の頭の中で勝手に舞台が行われ、僕はただそれを観客のように眺めてキーボードを叩いていればよかった。そうしているうちに周囲の音が意識から消え、パソコンの画面以外の物も消え、しまいには自分自身というものがふわふわと存在感を失い、自分の中から湧き出た演劇の世界に引きずり込まれていった。


 トイレにも行かずにとにかく夢中で脚本を書いていて、気付いた時には周囲は明るくなっているどころかすでに日は高くなり、午前の講義が終わろうとしている時間だった。


 昨夜からの半日間、僕は現実世界にはいなかったに違いない。出来上がった脚本を上書き保存してノートパソコンを閉じた時、やっと現実に戻ってきたような、そんな気がした。


 いつのまにか先輩は部屋からいなくなっていた。


 僕は早速、コンビニのコピー機で脚本を印刷して、自転車を飛ばして部室に持って行った。

 ドアを開けると、ちょうどお昼休みのミーティングの途中だった。

 部室に入ってきた僕に皆の視線が集まる。


 僕は静かなミーティングの空気の中を歩き、部長の二人にまだ印刷したての暖かい脚本を渡した。

「できたよ、脚本」


 僕の渡した脚本の内容は、大まかにいえば深海人が海底火山で住処を失って地上の人類と喧嘩をするけどその後仲直りするという話だ。こういうSFちっくな話はスバルでは珍しい。きっと衣装や小道具なんかは一から作成になるだろうから演出は大変になるだろう。


 しばらくパラパラと脚本をめくって読んだ後、部長たちは口を開いた。

「また大変そうなものを仕上げてきたな。これ本番までに間に合うか?」

「んー、かなり気合入れてやっても難しいかもね」

 めずらしく部長二人の意見が一致しそうだった。


 だから僕は脚本を作っている時から考えていた提案をした。

「実はさ、今回は照明と小道具に、可能な限り参加させてもらいたいんだ。キャスティングも僕にある程度意見させてほしい。できる限りのことはさせてほしいんだ」


 いつもは脚本係はその後の演出にはあまり口を出さないようにして、作業を分担していたのだけれど、思い切って言った。徹夜明けのテンションがそうさせたのか、僕はあまり抑制がきかなくなっていた。


「どうして?」

「今回は、これが僕のやりたい事だっていうことが明確にあるんだ。だから、僕の『スバル』での最後のお願いをどうか聞いてほしい。迷惑なのはわかってるんだ、でも、皆に僕のわがままの実行を手助けして欲しい。きっと皆で力を合わせれば、間に合う。いいものができると確信してるんだ。だから、どうかお願いします」


皆の視線を感じながら、僕は皆に深く頭を下げた。

しんと静まり返った部室の中で、僕は自分の心臓が脈打つ音を聞いた。


「ま、コータローがここまで言うんだから、やるしかないよな」

そう口を開いたのは相川だった。こいつ、いつもはミーティングサボるくせに、なんでこんなときだけいやがるんだ。いやまぁ助かったけど。


「やろうぜ」

「おう、やろう」

いつも僕の部屋でゲームをしている奴らも相川に賛同した。

部長の高山はしばらく思案した後、頷いて言った。


「わかった。俺はコータローの脚本でいきたいんだが橋本、どうする?」

橋本さんも観念した様子で「仕方ないわね」と言った。

 僕としてはこんなにあっさりと事が運ぶとは思っていなかったので肩透かしを食らってしまう。


「ほんとに……皆、いいの?」

「いいも何も、お前が言い出したんだろ?」

相川は含み笑いをしながら言った。


「だって、コータロがここまで言うことなんて誰も思ってないもの」

橋本さんの意見に高山や後輩たちも頷く。


「まぁとにかくだ、次の公演まで時間がない。これからの予定を立てよう」

それから僕達は大きな机を囲んで当日のキャスティングや会場、演出の話をした。僕の考えたまとまりのないアイデアを、必死に話した。皆はそれをふんふんと頷きながら聞き、そして意見してくれた。


 それは久しぶりに楽しい話し合いの時間だった。

 みんなで一緒に次の目標に向かっている、そんな気がした。


 昼休みのミーティングが終わった後、僕は部室のパイプ椅子に座り込んだ。気が抜けたからか、急激に眠気がやってくる。

 僕は午後の講義をさぼって一旦下宿まで帰ることにした。


 いつもの帰り道、今日は久しぶりに雲が晴れていた。冬場の差し込むような太陽の光が雪のかすかに残る畑道を照らしている。

 睡眠不足でふわふわする頭で家に帰りながら僕は先輩のことを考えた。


 相川たちは何も言っていなかったけれど、今回の一連の出来事を、きっと先輩は全て知っていたのだろうと思う。つまり、スバルがうまくいっていないことや、僕が脚本に行き詰っていたということを、だ

 でなければあんなタイミングで先輩は僕の家を訪れなかっただろう。それに今日ミーティングにめずらしく相川たちが来ていたのも、おそらく先輩が密かに僕の味方をするように連絡を入れていたのではないかと思う。多分。


 僕は先輩自身が悩みを抱えて僕のところへきていると思い込んでいたけれど、知らない間に僕は先輩や相川たちに助けられていたのだ。

下宿に着いた僕は倒れこむようにしてベッドに横になった。

すると枕の下からグシャッと音がした。


 引っ張り出すと、それは手紙だった。

 僕はベッドに寝ころんだままそれを広げる。


『コータローへ

 きっと君のことだから脚本はうまくやっただろうな。

 そしてきっと君のことだから、私がおせっかいで君の家にやって来たとでも思ってるんだろ。

 残念だけどそれは間違いだよ。確かにスバルやコータローのことは相川くん達から連絡をもらってたけどね、私だってそんなに世話焼きじゃないし、今そんな余裕は無いもの。

 私はね、純粋にコータローに会いたかったよ。

 私たちは演劇の中ぐらいでしか本当の気持ちを言えない者同士だからね。演技の中のコータローにしか分からないコータローがいて、逆に私にしか分からない私がいると思ってる。だから、たまに君に会いたくなるの、本当の自分を確かめるために。


 最近ね、会社でもキヨタカの前でも、いつもずっとどこか役割を演じているような気がしてた。そうするうちに、どこまでが本当の自分で、どこからが演技なのか自分でもよくわからなくなってきちゃってた。

 コータローは深海コンビニに初めて行った時のこと、覚えてる? 私、あのインプロをしながら自分だけのいろんな発想が浮かぶことが嬉しくて、楽しくて、私に敵うものなんてこの世に何一つないんだって気持ちになったの。

 たぶんきっと、それが本当の私。

 それが知れただけで私がどれだけ救われたか、君は知らないだろうな。

 私はもう、きっと迷わない。だからきっと、うまくいく、心配するな。

 

 君はいいやつだ。

 これからも、君の周りには知らない間に君を助けてくれる人たちが集まってくるだろう。

 それは素晴らしいことなんだよ、コータロー。君は自分に自信を持っていいんだ。


 それじゃあ私はもう行くね。

 またいつか、深海コンビニに行こう』


コピー用紙に書かれた先輩の手紙を折りたたんでコタツの上に静かに置いた。

僕は心の底から先輩に感謝した。

 窓から差し込む温かな日差しのような気持ちが、僕の胸の中を満たしていた。


 僕はこれからも待っていようと思う、いつでも。

 またいつか、先輩がここにやって来てもいいように。


 闇夜で煌々と光るあの、深海コンビニのように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

深海コンビニ 園長 @entyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ