星月夜に一人飲む酒は

鱗青

星月夜に一人飲む酒は

 タクラマカンの西端。俗に三国志と呼ばれる時代。楼蘭を代表として大小のオアシス都市が綺羅星きらぼしの如く存在していた。

 その一つの小都市の関門で、儒者崩れらしき物乞いの老人が困惑していた。

「だぁかぁらぁ!面倒に巻き込まれるのをこちとら助けてやったっつぅワケよな?あぁ⁉︎」

 口角泡飛ばすのは巻衣トーガを身にまとった雲つく大男である。密集した頭髪は一本一本が針鼠ハリネズミのそれの如く太く鋭い金色こんじきの剛毛。人喰ひとくい虎の暴力性を宿したみどりの瞳。厚い唇を横に引き伸ばせば、伸びた犬歯が牙のよう。

「なあ爺様、干からびた脳でよーく考えてみ?今俺に用心棒代を払うか、それとも後ろに転がってる破落戸ゴロツキどもの仲間になりてぇかをよ」

 角力レスラーの見本体型の男は岩砂漠の地面に片膝をついて老人と目線を合わせ、羅馬ローマ訛りのある言葉で脅す。その言葉通り、後背には先程格闘で叩きのめされた街の不良が累々と重なっていた。

「絡まれていたのを助けてくれたのは有難いが、金貨三枚というのはちと強欲ではないかの」

「安いもんだぜ?なんせ俺様はローマの闘技場コロッセオじゃ負け知らずのタイタスって呼ばゴボゲ」

 己の百分の一程に細い皺だらけの老人に息巻いていた男は唐突に頭を押さえて地面に転がり、舌を出しのたうち苦しむ。その頭に巻かれた金環アニュラスが輪を縮め、ミリミリと肉に食い込んで彼の凶悪な面構えを苦痛に歪ませていた。

いってぇ痛ぇ痛ぇ‼︎めろ糞ボケカス!いやエロス様‼︎」

しばらくそうしていなさい…従者つれの無礼、申し開きもございません」

 簡素な上衣シャツ脚絆ズボンの少年が静かに進み出て老人に膝を折る。

「この者が恩を着せ恐喝したとがを、どうかこれにて寛恕かんじょを」

 大理石から出来たようなふっくりした掌に、金の塊が十個は乗っている。老人は驚愕に瞠目どうもくし、まじまじと相手を見た。

 繊細な蛇のように肩まで流れる亜麻色の髪。銀砂の散った金の瞳と乳色の肌。面差しは菩薩の慈愛を宿し、僅かの微笑アルカイックスマイルたたえている。東洋人の老人の片方濁った眼には、少年の姿は嫦娥アルテミスに映った。

「私共は街を出る所なのですが、次の宿場まで如何程いかほどかかりましょうか」

 小首を傾げると少女のようで、片耳に下げられた真珠色の石がチラリと光った。

「これは痛み入ります旅のお方。このまま川沿いに東へ三日もかれれば村落がありますぞ」

 互いに合掌して礼をし、腰を上げた少年に立ち直ったらしい男が口をへの字に曲げて毒づく。

「こンの糞餓鬼クソガキ無駄遣むだづかいも大概にしやがれ」

「お黙りなさい。また金環を締めつけられたいですか?それに金などこの金剛霊石オリハルコンでいくらでも錬成できます。いやしく小金をせびる暇があるなら先を急ぎましょう」

 イヤリングを示す少年の言葉に老人の黄色く萎びた耳朶じだがピクリと動いた。

「もし旅のお方。野営されるのであれば途中に見晴らしの良い丘がございますが──昨今隊商キャラバンが何者かに襲われ全滅する事件が多発していると聞き及びます。努努ゆめゆめ御用心なされよ」

 少年は一層の笑顔で深々と頭を下げ、男は威勢よく唾を吐き捨てて立ち去った。

 二人が街を出て数里進むと、老人の言ったように小高い丘が現れた。遠くから街を望めば山脈から注ぎ出る雪解け水が中腹でダムに貯留し、勢いと量に手心を加えられて穏やかな小川となり街の発展に寄与しているらしい事が見て取れる。

「ご覧なさいタイタス。あれは貴方の同胞が遺した治水の跡ですよ」

「ご高説どーも。ついでに寝床の準備を手伝って頂けませんかねえ」

「私は主人あるじ其方そなたは従者。無駄口を叩かず働きなさい。膂力りょりょくが常人以上である点だけが無駄に育った図体ずうたいの利点でしょう」

「いつも一言多いんだよ…しかし」

 男は既に手慣れた様子で潅木をり集め焚火を起こしながら周囲を見渡した。

「ゾッとしねえな。そこらじゅう死人の匂いがプンプンしやがるぜ」

 丘の周辺には車輪や台車の破片、砂土に埋もれかけのラクダの骨に、綺麗に肉の削げ落ちた人骨といった隊商の成れの果てがそこここに散見できる。暮れかけた陽の残照を受けた光景は、冥界と現世の境界というに相応ふさわしいもの。

「現在の人間というものは欲深いのですね。どれ、彼等の冥福の為に祈りを捧げましょうか」

「そんなもんで腹が膨れるわけもねえ。俺はもう寝るぜ…酒でもありゃマシなんだが」

「サケ?どんな食べ物です?」

「馬ッ鹿エロスお前、そんな事も知らねえのか?いいか、酒ってのはな…」

 男は口をつぐむ。怪訝そうな少年に対し顔の前に指を立ててもくするように示した。

 風がんだ。一切の音が死に絶え、鼓膜がきいんと震える静寂。

「…どうやら爺様の忠告は正しかったみてえだな」

 地響き。それも大集団の足音というよりは、地面の底から揺れを伴って大きくなる山鳴りのような震動。

 手近にあった人骨がコロリとひっくり返り、丘を転がり落ちていく。その下から土砂を沸き立たせて現れたのは…

「──蟻?」

 少年の呟きを合図にしたように、あちこちの地面から蟻が現れた。それも普通なみの大きさではない。牛馬程もある昆虫が、ツヤのある硬い外殻を鎧兜の如く鳴らしながら湧いて出てくる。

「この分じゃ隊商を全滅させたのは盗賊なんかじゃねえぞ」

 あぎとを鳴らし迫り来る怪物達は十重二十重に二人を取り囲んでいく。絶望的な彼我の戦力差にあって男の額は金環の下に汗を浮かべる。少年はおびえているのか足元に蹲り、ブツブツと何事かを唱え始めた。

「そこらに転がってる死体共がやけに綺麗な骨になってる理由が分かったぜ。この蟻共のになったんだな」

「その通り」

 不意に近くでした声に、男は少年を後ろにして姿勢を整えた。

「大人しくそちらの子供の耳飾りを寄越すなら、苦痛なくこやつらに噛み殺させてやろう」

 予告もなく包囲の只中に姿を現したのは、街の関門に居た老人だった。打って変わって残忍な面構えで両手の指に呪文と絵図を墨書した霊札れいふを挟んでいる。

「あっ!爺様てめぇ!」

「ホッホ。商人達は街で鱈腹たらふく金を稼ぎ、その肉をこやつらがくらい、残った金銀をワシが頂戴する。よう出来ておろうが」

「そう簡単にられてたまるかよっ」

 男は耳に片手を添えた。耳孔からストンと零れ落ちる爪楊枝。と、それは男の手に握られるとたちまち巨大な金属の棍棒に変化した。

「なんと、金剛霊石オリハルコンの武具とな!──それも頂こう」

「強欲なのは良くねえってこの餓鬼も言ってたろうがよ」

 男は空気を殴りつけながら棍棒を自在にぶん回す。

 二人を包囲する蟻の大群は、老人が霊札を宙に投げるや一斉に襲いかかってきた。

「人間のように考える頭が無い分、忠実で強力な使い魔よ。恐れおののきながら死ぬがよい」

 男の咆哮と蟻共の大群が激突した。

 男が両腕に力を込める。二の腕が切り株のように膨れ、横様よこざまに振り払った棍棒の一撃で数十もの蟻が外殻を砕かれ、白い体液を散らしながら粉砕される。第二波も同様に、男が連続で打ち込む突きにより胴体を貫かれ倒れていく。

 縦横無尽に棍棒が踊り、老人の操る蟲達は千切れ、破れ、潰されていく。しかし──キリがない。

 男の息が上がり始め、老人が勝利を確信してほくそ笑む。更なる軍団を召喚しようと懐から新たな霊札を取り出したとき、我関せずに見えた少年がすっくと立ち上がった。

「やっとかエロス!遅ぇんだよ‼︎」

「由緒ある術の発動には手間がるのです」

 すっかり陽が落ちて星霜せいそうまたたく夜の空を仰ぎ、少年の全身は燐光を放っている。

「ご老人。たかが財貨の為に数多あまたあやめし罪を懺悔しますか」

 相手は鼻先で嗤う。

「では──奈落タルタロスに沈みなさい」

 少年の口から天を引き裂くような音波が発せられた。続く大地の衝撃。蟻達も老人も、味方の男すら足元から崩れて大地に倒れる。

 山脈の方角で爆発煙が上がる。堰を切られた中腹から、轟音を従えて大水の塊が丘まで押し寄せた。そのかんわずか数秒。蟻達は胡麻粒のように押し流され、老人は恐怖と動転を顔に貼り付けたまま一瞬で泡と泥の底に消えた。男は──泳ぎが得意らしく、流れに逆らい必死の形相でもがいている。

 少年だけは燦然さんぜんと燐光を放ちながら中空に浮かび上がり、地獄を見守る天使さながら冷えた眼差しでそれを眺めていた。

 

「起きなさい愚図」

 したたかに脳天を叩かれて、男は目を開く。

 丘の上だった。周囲はまだ水が残って海原のようになっているが静まり返り、彼は少年に膝枕されていた。

「夢を見てたぜ…」

「らしいですね。譫言うわごとでずっとオレリアと呼んでいましたよ」

 男はゆっくりと頭をもたげた。敵と一緒くたに流されたと思ったが、少年は彼を助けたらしい。亡くした妻の夢のお陰か戦闘の疲弊も苦痛も今は癒え、平穏な気分である…巻衣は泥まみれだが。

「私がそっくりだという其方の妻ですか」

「ああ…」

 まざまざとまぶたよみがえりし日の妻の面影。それは初めて少年と出会った時、野党に襲われかけていた彼を助ける理由になったもの──顔立ちも柔和で優しい微笑も、妻と瓜二つだった。

「性格はお前より億万倍良かったけどな」

「其方も一言多い」

「ケッ。お互い様だ…?おいちょっと待て‼︎」

 男は何かを目に留め、少年を突き飛ばして跳ね起きた。流れに飛び込んで水を掻き分け、通り過ぎようとしていた木箱を掴んで足場に引き揚げる。中身は酒が詰まったかめである。羊皮の封を切ると馥郁ふくいくたる葡萄酒ワインの香りが立ち昇った。

「やったぜ!何よりのご褒美だ‼︎」

 歓声を上げて直に甕に口をつける男を少年は懐疑的な表情で観察する。

「美味しいんですか?それ」

「当たり前だ!…お前もるか?」

 少年はおずおずと差し出した掌で鮮やかな紅の液を受け、ひと舐め…

 そして昏倒。

 男は腹を抱えて侮蔑の大笑をぶち上げた。どっかと尻を据えて胡座をかくと、頬を染めて幸せそうに眠る小さな体を冷えぬよう抱き寄せる。

 少年と旅を続けていけば、これからも何度も命を落とす危険が待ち構えているだろう。

 だが、今夜くらいは星月夜を肴に美味い酒を楽しんでも罰は当たるまい。

「早く成長して俺を一人酒から解放してくれよ」

 ゆるりと甕を片手に持ち上げる。乾杯を向けた夜空は優しく二人を見下ろしていた。

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