ひとつのおと

楸 茉夕

 

「なんだ、利恵りえ、できんじゃん」

 予期せぬ声が聞こえて、利恵は硬直した。思わず振り返れば、クラリネットと楽譜を手にした同級生が二人、立っている。

「なんで全体のとき吹かないの?」

「ちょっと、有樹ゆうき

「何よ、志保しほ

 腕を引いた志保を、有樹はうるさそうに見た。気が強い有樹と違い、志保は誰ともぶつからないよう、角が立たないよう振る舞う。正反対の二人が何故いつも一緒にいるのか、利恵にはわからない。

「……クラは第二音楽室だって先輩が言ってたよ」

 言外に、早く去ってくれと込めて利恵は言う。すると有樹は、知っているとでも言いたげに鼻を鳴らした。

「今行くところ。せっかくのソロなんだから吹けばいいのに」

 言い残して有樹はぷいと教室を出て行った。志保は申し訳なさそうに笑ってその後を追う。

 空き教室に一人残された利恵は、オーボエに視線を落とした。唇を噛む。

 去年の課題曲はマーチだったので、今年は違う。巡り合わせを呪いたくなる。マーチだったら、オーボエのソロなど絶対になかった。

 楽譜に記されている、小さな、けれど無慈悲な「Ob.solo」の文字。たったワンフレーズ、たった四小節、たった十一音、たった六秒。それを吹く勇気が、利恵にはない。括弧かっこで囲まれているのだから、絶対に必要なものではないのだ、吹かなくてもいいのだと目をらしている。―――逃げている。

 昨日から夏休みに入った。コンクールは一週間後に迫っている。コンクールが終わるまで、部活漬けの毎日だ。地区予選を突破し、県大会に出られれば、八月半ばまで部活漬けは続くだろう。今の利恵には、その時間が永遠に思えた。

 公立中学の弱小部ゆえ、人数は少ない。構成人数の少ないBクラスが関の山だ。入ったばかりの一年生も入れればギリギリAクラスで出られるだろうが、楽器を始めたのは中学で吹奏楽部に入ってからという新入生が大半なので、三ヶ月程度ではまともに音階を出せるかすら怪しいレベルだ。ゆえに、新入生のデビューは九月の文化祭と決まっており、入部して最初の大会は雑用しかさせてもらえない。だから利恵も、コンクールに出るのはこの大会が初めてだ。

 なのに、なぜ、と思う。

 ピアノは昔からやっていた。音楽は好きなので、なんとなく吹奏楽部を選んだ。オーボエに決まったのはたまたまだ。たまたま、仮入部で好きな楽器に触らせて貰ったときに、物珍しさで選んだオーボエのリードで、一人だけまともな音を出せたから。初めて触るダブルリードで音を出せるなんて逸材だ、と顧問と先輩が盛り上がってしまい、断れなかった。

 そして、弱小部であるがゆえに、今、オーボエは利恵しかいない。

 二十人程度しかいない新入生は、人数が必要なパーカッションやトランペット、クラリネットなどに優先的に割り振られてしまい、オーボエやピッコロ、コントラバスなどは、楽器も足りないので、二年に一人しか新入生を入れない決まりになっている。

 だから、本当に運が悪いとしか言いようがない。自分しかオーボエがいない年に、課題曲に吹いても吹かなくても言いソロパートがあるなんて。

 いっそ、吹けと命令してくれたらいいのにと、利恵は顧問のことすら恨みに思う。生徒の自主性を重んじてくれる顧問は、おそらくはいい先生なのだろう。だから、無理強いはしない。命令もしない。利恵が吹きたいというのをただ待っている。―――それが、利恵には辛い。

(ソロなんて……わたしには無理)

 元来、派手な性格ではない。成績はそこそこ。注目されるのも、目立つのも嫌い。いじめは常に傍観者で、けれど被害者にならないことには細心の注意を払う、それが利恵の処世術だ。そんな小狡くて小賢しい自分のことが、利恵は好きではない。

 さっき、ソロの部分を吹いてみたのは、ただの気紛れだ。今日はピッコロの歩美あゆみが休みなので、午前のパート練習が一人きりになってしまい、基礎練習にも飽きたので、ちょっと吹いてみようと思った。それだけだ。人に、よりによって有樹に聞かれるなんて、運が悪かった。有樹は言いふらすに違いない。利恵は、本当はソロを吹けるのに、吹かないでいると。こちらを盗み見ながら、ひそひそと交わされる囁きが聞こえるようだ。午後の全体練習が、今から思いやられる。

(オーボエにも三年生がいればよかったのに)

 三年生がいれば、その人がソロパートを吹いただろう。利恵が決断を迫られることなどなかった。

 そして、誰にも相談できないことが、利恵をより一層、かたくなにさせていた。

 ほかのパートの友達には言ってもわからないだろうし、顧問は利恵に任せると言っている。歩美も同じく一人しかいないピッコロだが、彼女にはソロパートがない。やはり、理解とはほど遠い。

 誰もわかってくれない、と利恵は息をついた。

 教室には誰もいない。窓の外は夏空が広がって、時折、運動部のかけ声が聞こえてくる。

 首を左右に振って意識して頭を切り替え、利恵はオーボエを構えた。いい加減、練習しなければならない。全体練習でリードミスでもしようものなら、オーボエの先輩はいないが、ほかのパートの先輩に何を言われるかわからない。


 

      *     *     *



 昼休みが終わり、体育館での全体練習のために椅子を並べながら、利恵は内心、安堵していた。

 有樹はまだ言いふらしていないらしい。先輩たちからも、同級生からも、利恵を非難したり軽蔑したりするような様子は窺えない。ほっとしながら、不思議に思う。なぜ、有樹は言いふらさなかったのだろう。

 固まっているクラリネットパートに目をやると、有樹と視線がぶつかった。反射的に目を逸らしてしまい、しまったと思う。今のは露骨すぎた。そして、有樹に思い出させてしまっただろう、彼女が、利恵の弱みを握っていることを。

(……早く合奏を始めて)

 いつもは合奏など開始がが遅れるほどいいと思っているのに、このときばかりは祈らずにいられない。合奏が始まれば私語は厳禁だ。有樹も黙らざるを得まい。

 祈りながら自分の席で楽器を組み立て、チューナーを準備していると、目の前に誰かが立った。見上げれば、件の有樹である。

「……何?」

「あんた、あたしが言いふらすと思ってるでしょ」

 図星だったので、利恵は一瞬言葉に詰まった。誤魔化すために語気が荒くなる。

「そんなこと思ってない」

「あっそ。何をってのはかないんだ」

 あざけるような有樹の言い方に、どうしようもなく苛ついて、利恵は有樹を睨んだ。

「何が言いたいわけ」

「別に。あたしなら失敗しても吹くけど。あんた、意外とナルシストなんだね」

 首を竦めて有樹は自分の席に戻っていった。利恵はそちらを見ないようにチューナーを手に取った。チューニングをしておかなければならない。

(……なんであんなこと言われなきゃいけないの)

 利恵の心情のように、チューナーの針は定まらない。

 ナルシストなんだね、ではなく、意外とナルシスト、というのが突き刺さった。意外と。

 ソロを吹かないことで、なぜナルシスト呼ばわりされなければならないのか、利恵にはわからない。言いふらさなかったと言うことだけで、勝ち誇っている様子の有樹に腹が立つし、言い返せなかった己にも腹が立った。自分はナルシストなどではない。

(だって、失敗したら目立つじゃない。そんなの絶対いや)

 考えてしまって、利恵は顔をしかめた。―――つまり、そういうことなのだ。

 大勢の前で失敗したくない。恥をかきたくない。傷つきたくない。自分は下手なのだと思い知りたくない。

 だから、ソロは吹かない。

 失敗を恐れずチャレンジしろなんて、綺麗事だ。コンクールで失敗したら取り返しがつかない。そうならないように練習するのだろうけれど、どんなに練習を重ねても、一〇〇パーセント成功するとは限らない。なのに、失敗すれば、おまえのせいだという目で見られる。言葉にはしないかもしれない。だが皆、そう思うだろう。胸中で、利恵のいないところで、利恵を責めるのだ。おまえのせいだ。コンクールでいい成績を残せなかったのは、おまえのせいだ。

(……絶対いや)

 有樹には言わせておけばいい。クラリネットにはソロはないし、先輩も後輩もいる。そんな恵まれた立場の人間に、わかるはずがない。数十人の中に立った一人で、少しの失敗も隠しきれない利恵の気持ちなど。

 部長が出てきて譜面台の前に立ち、タクトを手にした。合奏の前の音出しが始まる。

(わたしは吹かない。絶対に吹かない)

 悲壮なまでの決意を胸に、利恵はオーボエに吹き込むための息を吸い込んだ。



 了

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