今そこにある危機

葉月りり

第1話

 僕の山行の記録は高校生の時読んだ、父の本棚にあった漫画から始まる。コーヒー好きの主人公が超人的な力と技と真心で遭難者を救助し続ける。僕は影響されやすい。僕もぜひ山に登ってみたいと思った。しかし、何から始めていいかわからない。一歩踏み出す勇気もない。


 親は、初めはハイキングでもいいじゃないか。鉋山にでも登ってみればと言った。鉋山だってロープウェイを使わなければ、結構歩くらしい。


 市内最高峰、鉋山。ここへ来るのは小学校の遠足以来だ。下から見ると、鉋の頭のような岩がオーバーハングしている崖があることから名付けられた山。ロッククライマーには聖地だが、崖の反対側の稜線にはロープウェイが通り、遊歩道には土産物屋が並ぶ。これは山と言えるのか。


 しかし、電車賃をかけて来たのだから取り敢えず頂上に行ってみることにした。少し登ったところに脇道があった。「登山道」と言う矢印。


「これだ、親が言っていたのはこっちの道だ」


 舗装された遊歩道とは違って砂利道だ。しばらくは下草も刈られた歩きやすい道だったが、だんだん森が深くなって来た。道の砂利も無くなって、草の丈も高くなって来て、獣道のようになって来た。低木と蔓状の木で藪が深くて進めなくなったので、諦めて引き返すことにした。しばらく歩くと今度は倒木で前に進めなくなった。さっきはこんな倒木無かったと思った瞬間、ドキリとした。


 また少し後戻りする。分かれ道を見つけ、ここで間違えたのかとそちらへ行く。また藪に阻まれる。ドキドキが早くなる。道に迷ったんだ。戻れないまま日が暮れたら遭難だ。


 標高500mのレジャー施設で遭難。恥ずかしい。なんとしても帰らねばと足を動かす。心臓のドキドキはおさまらない。僕は命の危険を感じた。


人の声だ。人の声がする。助かった。


前から作業服のおじさんが2人歩いてくる。走って行って助けを求める。


「何やってんだ。ここは送電塔の点検のための道だぞ。関係ないやつは入ったらダメだ」


と、怒られた。


 僕は帰ってきてすぐにコンパスを購入し、山へ行くときは必ずその山の地図を買おうと決心した。


 2つ目の山はやはりレジャーランドのイメージの有名どころ。だが、山頂から奥に進むと初級者でも稜線歩きが楽しめるらしい。


 ロープウェイを使わず、登山道を進む。今度は地図もあるし、道は山頂の寺の参道でもあるので、寺までは迷う心配はない。でも、なかなかの勾配のところもあるし、周りの森も手付かずな感じで登山気分は高まる。よく見ると見たことのない花も多い。写真を撮りながらマイペースで歩く。


 賑やかな山頂の寺を通り越して奥に進む。小さな茶屋のある広場で休憩。茶屋で豚汁を買って、持ってきたおにぎりを食べる。楽しい。


 野良猫をかまいながらのんびりしていたら、周りの人達がポツポツ、ロープウェイ駅の方へ引き上げていく。僕はそちらではなくこの先へ進む。何度かアップダウンを繰り返した頃、空が赤くなり始めた。ふと気づく。日が落ちたらこの道はどうなるのか。


 真っ暗になったら、道なんか見えない。そうなったら遭難だ。そこからはもうマラソン、太陽と競走だ。心臓が悲鳴をあげる。僕は命の危険を感じた。


 僕は帰ってすぐヘッドランプを購入した。


 受験というピークを乗り越え、僕は大学生になった。バイトも始めて手持ちのお金も増えた。


 夏休みに行った3つ目の山は有名観光地。まともに稜線を歩けば中級以上の実力がいるが、途中までロープウェイを使ってピークだけを目指すなら、初級で大丈夫。ペンションに1泊2日。ピストンで2つのゴールを目指す。


 1日目はロープウェイ駅から1番近いピークに登る。天気に恵まれ、北西に登山者憧れの峰々が見える。いつかあそこへと思う。


 2日目の目的地はピークを2つ越えた苔の森の奥にある湖。なんなくたどり着く。週末なら賑やかなんだろうけど、誰もいない。深い緑を映す神秘の鏡を僕が独り占めしている。


 ほとりの山荘でおいしい蕎麦をいただいて大満足の帰り道、ロープウェイ駅を目指していたら、ポツポツと降ってきた。ザックからカッパを取り出して着た途端、バケツをひっくり返したような勢い。


 周りは熊笹、雨を避ける場所はない。大急ぎで歩く。経験したことのない激しい雨に前が見えない。辛うじて道が木道だったので、迷う心配はしなかったけれど、適当に用意したカッパが役に立たない。


 すでに足元は滴るほど。どこから入るのか、カッパを着ている意味がないほど、全身びしょ濡れだ。風も吹いてきた。冷たい風だ。濡れた体がどんどん冷える。一生懸命動いているのに寒くて寒くてこわばってくる。歯の根が合わない。「低体温症」と言う言葉が頭をよぎる。僕は命の危険を感じた。


 目の前にいきなり山小屋が現れた。迷わず飛び込む。山小屋のご主人がすぐにストーブに火を入れて僕を温めてくれた。


 帰ってすぐに僕は貯金をはたいて、ちょっと高めのレインスーツと防水機能の高い登山靴を購入した。あと、母にお願いして山小屋に心ばかりのお礼をした。


 その後も長距離でヘロヘロになった後、疲労を軽くするトレッキングポールを買ったり、残雪の登山道で滑りそうになってヒヤッとした後、軽アイゼンを買ったりした。僕の登山道具はなかなかのものになってきた。


 この頃から僕はSNSを始めた。ユーザーネームは「カンナ」。初心を忘れないために鉋山からつけた。

山をやる人は

「今日は〇〇山に行きます」

とあげたら必ず

「〇〇山より下山しました」

と、報告するのがルールのようだ。下山報告を忘れるとみんなに心配をかけることになる。僕の登山の失敗と道具の揃え方が受けたのか数人のフォロワーさんがついた。


 失敗ばかりの僕に独学じゃなく、どこかで教えを請えばと言う人もいたが、僕はコミュニケーション能力に全く自信がなく、山岳会とかは、とても標高が高かった。僕は1人でいることがまったく苦にならなくて、むしろ1人の方が楽だった。


 本を買い、ネットで調べ、僕は少しづつ山のレベルを上げて行った。コースタイムを多めに見積もり、しっかり計画を立てる。ゆっくりマイペースで景色や花の写真を撮りながら歩く。


 人の気配の全くしない世界は僕を最高に気分良くさせてくれる。全く灯のないところでの星空はこのまま空に吸い込まれてしまいたいと思うほど美しい。暗いうちから待つ御来光はシャッターを押すのを忘れて、手を合わせてしまうほど神々しい。


 僕が独り占めした世界を写真にして、お裾分けする。そんな気持ちでSNSに画像を上げる。それを喜んでくれる人が何人かでも居る。それをまた僕が嬉しく思う。このくらいのコミュニケーションが僕にはちょうど良い。


 2年生になると装備も知識もそれなりに揃ってきて、中級の稜線歩きをするようになっていた。避難小屋(天候変化などの時に避難できる小屋とトイレだけの施設。水場はあったり無かったりする)を利用して宿泊しながらピークをひとつひとつクリアしていく。学生の特権、平日登山で人のいない世界を満喫する。


 ある時、避難小屋で2つのパーティーとかち合った。平日登山の特権は学生だけではなく高齢者も持っていた。定員10人くらいのところに16人のすし詰め状態。譲り合ってなんとかみんな横になることが出来たが、この密着度はヤバイ。


 おじさんに耳元で大いびきをかかれたら寝ることなんか出来ない。では、耳元からいびきの元を遠ざけようと頭の位置を逆に移動してみたら、背を向けたおじさんに盛大に放屁された。僕は久しぶりに命の危険を感じた。


 帰ってきて僕は迷わずテントと寝袋を購入した。


 テントを持ったら、テント泊の山行だけでなく、ゆったりソロキャンプを楽しみたくなる。景色のいいキャンプ場を探して行ってみる。キャンプ場によっては薪を使えるところもある。バーナーとは違う趣がまた病みつきになりそうだ。


 ある日、テントを張ってゆっくりコーヒーを飲んでいたら、テントの影から女の子が顔を出した。高校生くらいか、にっこり笑って話しかけてきた。


「あの、カンナさんですよね」


「あ、はい、そうです……もしかして、フォロワーさんですか?」


「私、コケモモです」


「ああ!」


 知ってる。いつも写真に「イイね」をくれて、感想をくれて、質問までしてくれるフォロワーさんだ。こんな若い女性だったとは。


「私、大学の軽キャンプサークルに入ってて、今日はカンナさんも同じ所に来てるんだなって思って、探してみたら、見覚えのあるテントがあって。会えて良かったです。いつも写真、楽しみにしてます」


「あ、はい、ありがとうございます」


 コケモモさんはそれだけ言って去って行った。


 久しぶりに女性と話をした。普通に話せたような気がする。僕の写真を楽しみにされているようだ。社交辞令でも嬉しい。


 それから何回か、メジャーなキャンプ場に行くと、コケモモさんがテントを目当てに僕を探し当てて来てくれた。そして、山の写真について一言二言、言葉を交わして去って行く。


 ある日、またキャンプ場でコケモモさんに会った。いつも写真の話を少しするだけなのに、この日は意外なことを聞かれた。


「あの、カンナさんって、本当の名前はなんていうんですか?」


 急に僕の前に大きな峰が聳え立った。これは…僕には標高が高すぎるんじゃないか?


「彼女さんとかいらっしゃるのかなあなんて」


 ムリだ。峰はますます高く険しくなって来た。僕の技術じゃ対応出来ない。空気が薄いのか心臓がドキドキする。高山病か、くらくらする。僕は命の危険を感じた。


 この危機を回避するために、僕はどんな装備を用意すればいいのだろう。


おわり

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