第6話 子

 無事高山を救出した私は、神田に事務所まで送ってもらうことになった。

 

 夜も更け、既に東側の空は白んでいた。行きではそれほど時間を感じなかったが、1時間の帰り道も、まるで日本を横断しているかの様な気分だった。それほどまでにあの施設で目の当たりにした出来事は、私に深くトラウマを植え付けたのだ。


 そんな私に神田はこう言った。


「お前は1回でアレが終わったから運がいい」


 彼の言葉は少しだけだが慰めになった。その時から私は彼の事を神田と名前で呼んでいた。


「なあ、神田。夢を見て発狂した人達ってどうなったと思う? 気が狂ってるから自殺もできないんだろ?」


 麻陽はたまたま屋上から落下したから死ねたが、そうでない者たちは一体どうしているのだろう。そんな考えが私のなかでふと浮かんだのだ。


「彼らはずっと夢の中で囚われている。ずっと、あの広大な夢の中で1人な」


 恐らくこの時の彼が言った事は正しくない。なぜなら私達“狂わなかった者”

は、“狂った者”の事など分からないからだ。仮に理解できたとしても、その時は既に自分も狂っているという事実。

 そして、今の自分が正常かどうかすらも分からない。


「だが一番恐ろしいのは、夢の中では正気を保っていられるということだ」


 私はこの事を考えるのが怖い。もし仮にこの夢がずっと無限に続くのであれば、私はいつか狂ってしまうかもしれない。そうなったとき、私は私を私と実感する事が出来なくなり、この夢に囚われ続けることになるのだろう。


「日高。今夜は眠るのか?」


 車から降りる際、神田は私にそう言った。何を言っているのか意味は理解できた。


「ああ。俺は発狂しないんだろ?」


「俺の知る限りではな」


 その言葉に補償など何もない。彼は彼自身の未来しか見れないのだから。

 私は確かに3回目の夢を見ても正気でいられたが、これから発狂しない保証なんてどこにもない。――――そもそも今が夢か現実かを確かめる術もないのだ。


「ほーら高山。家に着いたぞ」


 私は彼女を彼女の家まで運び、そのままベッドに寝かせた。流石に彼女の実家に連絡を入れたが、その電話はただ虚しく呼び出し音を響かせるだけで、誰とも通じることは無かった。


 街ではいつも通りの生活が広がっていた。

 通勤するサラリーマン。学生。電車。バス。車。飛行機。全てが怖いくらいにいつも通りだった。狂った様に叫ぶ人間の数は増えたが、皆いつも通り、気にも留めず自分の1日を過ごしていた。


 そして瑠の施設から帰った8月18日の朝、私は彼女の部屋の床で入眠した。




 ――――落ちる。


「なんだっ?」


 真っ暗だ。だが落ちているのは確かであり。地面は見えていない。それどころか1つの星すらも見当たらない。ただ一つ分かるのは、落ちてはいけないということ。


「くそ! 何なんだッ!」


 目が慣れると遠くに雲が見えた。大きい雲だ。夏によく見る積乱雲よりももっと巨大だ。しかしあれは雲ではない。


 そしてここで下を見ると、目の前に広がっているのは。

 ――――――――海だ。




「――――ッ!」


 私は飛び起きた。3度目の夢を見たのだ。かなり長い時間眠っていたのだろう。外を見ると空は茜色に染まっている。


 スマホの画面を見る。時刻は18時を回っていた。


「ヤバイ。寝すぎたかな……」


 その時、彼女事が頭に浮かんだので、不安になりベッドを見たが、彼女はまだ死んだように眠っていた。私はもう彼女には会えないのだろうか。


 お腹には私たちの子共がいる。それを想うと不思議と胸が高鳴った。彼女はこの事実を知っているのだろうか。

 ――――それでも脳裏を過るのは麻陽が言った言葉だ。あの時の彼女は狂っていた。それゆえの妄言だろう。何も心配することは無い。


 その日も彼女の実家に電話するが、やはり誰も出ない。


 私は1度、自分の荷物を取りに事務所に帰り、その日はそのまま事務所で夜を過ごした。


 翌日の朝。8月19日。神田が言っていた20日まで残り1日を切った。


 私は荷物をまとめ、高山の家まで行く。鍵は彼女から勝手に拝借した。そして彼女の部屋の前に立ち、私はこう考えた。“彼女は既に起きていて、ドアを開けると私の事を笑顔で出迎えてくれる”そんな妄想が頭の中に広がったが、それは氷柱のように脆い願望だった。


 朝食を済ませた私は、彼女を背負い病院へ診せに行った。しかし近場の診療所は、看護師どころか医者すらも姿を消していた。まるで存在していなかったかのように。そして、ぬけの殻になった建物だけが残り、気味の悪い雰囲気を放っていた。


 仕方がないので、私はタクシーを使い大学病院まで彼女を運んだ。流石に国立の病院とだけあって、医療従事者の姿は見えたが、それ以上に患者が溢れかえっており、中は既にてんやわんやだった。


 1人の女看護師に事情を聞いたら、


 「徐々に無断欠勤する者が増え、今は非常に数が少く対応が間に合っていません。どこの病院でも同じことが起きています」


 と言われた。よほど忙しかったのだろうか、彼女には私が見えていない様だった。


 僅かな期待を抱き、一応受付に名前を書いたが、待てど暮らせど一向に名前は呼ばれず、そのまま病院のロビーで1日が終わってしまった。


 家に帰った私は、彼女に市販の流動食を食べさせた。

 ――――それから彼女の体を拭き、服を着替えさせ、洗濯などの家事も行った。もし彼女が目覚めたら怒るだろうか? 


 今思えば、怒った彼女を私は見たことが無い。どんな顔で怒るのだろう。そんな事を考えると自然と口角が上がってしまう。


 その夜は買い出しに行き、食材や日用品。果ては大人用の紙おむつまで買った。店員さんの目が気になったが、向こうは微塵の興味も無いかの様に、虚ろな表情でレジ打ちに夢中になっていた。


 その帰りに事務所へと立ち寄り、ノートパソコンを抱え彼女の元へ帰る。“目覚めていないだろうか”。玄関の前に立つ度、そんな虚しい妄想を抱きしめていた。

 …………やはり現実は厳しい。


 その夜は眠くなるまで宗教団体「瑠」の事や、現在世界で起きている事実についての記事を書いた。果たして、どれだけの人があの記事を読んで、そして信じてくれたのか今となっては分からない。


 結局私は記事を書きながら朝を迎えてしまい、ついに8月20日が来た。


 「海に行くな」と神田には言われたが、高山を連れて行けば何か起きるかもしれないと考え、私は彼女を連れてタクシーで海へ行った。


 行ったのは江戸川区にある海水浴場。その前の年の夏に、“助手3年目記念”として2人でバーベキューをした思い出の場所だ。初めて口にした栄螺に、彼女の顔から、みるみる血の気が引いていったのは今でも覚えている。


 ――――彼女に日焼け止めを塗り、背負いながらも日傘をさして、私は浜辺を歩いた。目覚めたときに日焼けしていたのでは、彼女も目覚めが悪いだろう。


 水分補給には嚥下障害の人が飲むゼリーを飲ませるなどをして、彼女の体温調節には常に気を配っていた。しかし結局、1時間もしない内に私は彼女を連れ帰った。


 テレビのニュースやネットニュース。匿名の掲示板などを見るも、その日は特に変わったことは起きなかった。


 内心ほっとしたが、反面、何も変わらない現状に私は絶望した。この気持ちを素直に表すとしたら「侘しい」だと思う。


 再び彼女の実家に電話を掛けるも、やはり誰も出ない。心の奥底で絶望が扉をこじ開けている、そんな気分だった。


 結局その年の8月20日は終わり、世界にクリスマスがやってきた。

 医療機関や行政機関は少ない人数ながらも何とか持ちこたえていたが、外を出歩く人は目に見えて減った。代わりに、中身の死んだ人間だけが奇声をあげながら街をうろついている。


 彼女は少し痩せたが、お腹の子は順調に育っていた。彼女のお腹が大きくなるにつれ、彼女の栄養管理も大変になった。


 時期別に体にいい物や悪い物を把握し、血液やビタミンが不足しないように食事を作った。彼女は寝たきりだが、幸いにも食べ物を飲み込んでくれたので点滴は不要だった。


「メリークリスマス」


 私は彼女にそう囁いた。しかし返ってくるのは静かな寝息だけ。


 一体私は、あとどれだけの日数を一人で過ごさなければならないのか。そう考えると、一人取り残されたマラソン選手を見ているような気分になってしまう。


 その日の夜はスマホに入っていた写真を眺めた。しかし彼女の写真はかなり少ない。高山は写真が好きだったが、私自身が、そこまで興味がなかったのも1つの原因だ。


 もう1つの原因は美穂と奏だ。2人がまだ生きていた時は自然とシャッターを切っていた。だからデータも比例して増えていき、スマホの写真は2人の写真だけで埋め尽くされていたものだ。


 しかし2人を失った時、その大量の写真は決して戻ることの無い、膨大な量の“思い出"となって私の上に雪崩込んできた。


 見るのも辛い。かといって削除するのも辛く、次第にスマホに触れる時間が短くなっていった。しかしある日、スマホが壊れたので機種変更を頼んだら「写真のデータは引継ぎますか?」と聞かれが、私はそこで断ってしまう。


 そしてそのまま、私は写真への興味が失せたまま今日まで過ごしてきたのだ。


 今では後悔している。なぜあの時データの引継ぎを断ったのか。なぜもっと彼女との写真を撮らなかったのか。

 ――――殺風景な景色や、動物の画像だけが並んだアルバムを見て、私はただただ嗚咽を繰り返してきた。


 …………ようやく大晦日が過ぎ、お正月を迎えた。


 楽しいはずのテレビは過去の放送の垂れ流し。ネットニュースを見ても半年前くらいから更新は止まっている。

 誰かの成功体験や最新のテクノロジー。若者に人気の芸能人やユーチューバー。彼らは今どこで何をしているのだろうか。いや、多分死んでるか狂ってるだろうな。


 物流も悪くなり、スーパーに並ぶ品物も段々と少なくなっていった。それでも出歩いている人自体が少なかったので、食べ物や日用品は難なく手に入った。値段はかなり高かったが、貯金を切り崩して何とか生活してきた。


 2月は逃げ、3月は去る。彼女の顔色は良好。お腹もかなり大きくなってきた。

 そして少しいい兆候もあった。なんと、彼女の脈拍を測るためにその手を握ったら、彼女が握り返してきたのだ。


 あと少ししたら突然、彼女が目を開けるかもしれない。いざその時が来ると考えると、自然と気分も高まる。あまり恥ずかしい恰好は出来ない。少し身なりを整えていた方が良さそうだ――――。


 4月に入ると東京はTシャツ1枚で過ごせるようになった。


 5月、桜が散ってしまった。彼女はまだ寝たきり。お腹の子は順調。


 6月、雨も降らず快晴が続いた。彼女はまだ寝たきり。お腹の子は順調。


 7月、海から骨の化け物がやって来て人間を攫ったという書き込みを見た。それはまるで腐った魚の様な見た目をしていたという。

 今日も彼女は寝たきり。お腹の子は順調。


 8月、化け物共が再び現れた。その姿はまるで半魚人。人間を喰らい、犯している。私も直接この目で見た。人間はあとどれくらい残っているのだろうか。

 ――――彼女はまだ寝たきり。お腹の子はもうすぐ産まれる。


 日付が変わり8月20日になった。時刻は午前1時。彼女のお腹の中で命が動いている。多分今日生まれるのだろう。それまで眠ることは出来ないな。私も多分、もうすぐ死ぬ。数週間前から何も食べていない。食べ物を求め外に出ようものなら、あの化け物たちに食い殺されてしまうからだ。


 ――――今だから書くが、実は彼女は4月に息を引き取った。それなのに腐ることなく、まるでまだ生きてるかのように眠っている。脈拍も呼吸も一切無いのにだ。


 それでも、彼女のお腹が歪む姿を見るに、まだ赤ん坊は育ち続けている。だから私も彼女に栄養を与え続けた。もしかしたら生き返るかもしれない。そんな希望を捨て去ることが出来なかったのだ。だが違った。


 恐らくだが、“この子”が彼女の身体を生かしているのかもしれない。自らが絶えぬよう、母体を健康な状態に保ち続けているのだ。それに気づいたとき私は、“この子"に例えようの無い、黒ずんだ薄気味の悪さを感じてしまった。


 この子が生まれたら【私】は【私】では無くなるのだろう。そして狂った夢の中に囚われる。もしかしたら、その中で一回くらいは彼女に会えるかもしれない。


 もう記事を書くことさえ億劫になってきた。こんな世界で、こんなものを書いていても仕方ない。


 いつか俺は、終末でも来れば。などと口にしていたが、実際終末ってものが目の前に現れると、それが終末などとは一切考えない。


 現に今も、私はまだ心のどこかで、この世界は元通りになり、再び平和な日常が戻ってくると信じている。


 人は何時まで経っても絶滅を信じずに生きている。仮に核戦争が起きたとしても、生き残った人間は諦めずに、いつの日かあの頃に戻れると信じる事だろう。


 終末なんてものはない。ただ言葉があるだけで、それを感じ取れる人間はいない。もしそれを理解する日が来るとしたら、それはきっと死んだときだ。


 こんな事を書き綴っている私も、まさに終末を信じていなかった一人だ。だが、今私の目の前では“死”が生まれようとしている。この子が生まれた時、私は狂ってしまうのだろう。


 だから私は、この記事をここで終わらせて、最後の時間を高山と過ごそうと思う。

 そして、この記事を誰かが目にする日が来ることを願う。 


 日高 




――――この子が生まれたら俺はどうなるのだろうか。いや、考えるのは良そう。その時が来るまでに、俺は今日までの事をここに記す。

 出だしはそうだな。何か名言っぽい言葉を入れるのもアリだな。かといって、だらだら前置きを書くのも面倒だ。


 …………ここは少し脚色するか? いや、ありのままを書こう。

 しかし、高山の事を書くときは楽しい。今思えば、いい思い出だよな。あの喫茶店もパンケーキ屋も。


 俺はやっぱり楽しんでいたのかもしれない。だってこんなにも楽しく書ける記事があるなんて思わなかったもんな。まあ、俺と高山の事しか書いてないから当然か。


 ――――意外と鮮明に覚えてるもんだな。

 時間は朝の8時。これまでの記事を書き終え、ノートパソコンを閉じた俺は、大きく背伸びと欠伸をする。そしてスマホで音楽を再生する。リストの1番上にあるお気に入りの音楽を。


 …………お前と居られるのもこれで最後かもしれないな。結局最後までクビに出来なかった。


 脳内に浮かぶは、星の様に輝く大小さまざまな記憶。

 俺は彼女の傍に寄り、その綺麗な髪を撫でる。

 ――――心臓が全身に血液を送り出すかのように、奥底から溢れる哀の感情。


「高山。今までごめんな」


 彼女の手を握る。冷たくて細い指が彼女の死を俺に実感させる。

 そういえば、お前はずっと冷え性に悩んでたっけ。


「あの時お前を助手にして正解だったよ」


 彼女の唇をなぞる。

 生意気な口ばかり利いていたけど、そこもお前のいいとこだったな。


「なあ高山。お前は俺といて楽しかったか?」


 彼女の閉じた瞼に手を被せる。

 お前は目で物言うタイプだったから、本当に分かり易い奴だった。


「――――俺は楽しかったよ」


 彼女の頬を両手で包む。

 嗚呼、神様。願わくばもう一度だけ。あと一回だけでいい。最期に一度だけ、彼女の笑顔を見せてください。


「美歩。ずっと俺の傍に居てくれて。俺に生を与えてくれて。光をくれて…………」


 彼女の唇に自分の唇を重ねる。これが高山との最初で最後のキス。


「本当に、ありがとう」


 涙が彼女の目元に落ちる。

 2度として見たくなかった筈の光景。もう彼女は生きていない。さらさらと靡く髪も。よく笑ってくれたその顔も。耳の奥に染みるような声も。もう二度と、俺に何かしてくれることは無い。


「俺も行くよ」




 ――――冷たくなった死体が動き出す。お腹の子が暴れてるんだ。


 その身体を抱きしめる。どうせこれで終わるのなら、ひと時も離れたくない。


 真っ白なシーツが血で染まってゆく。産まれるんだ。もうすぐ何かが産まれる。

外にいるような化け物じゃない。この子は、このお腹にいる子は…………。


 ――――鳴き声が部屋中で反響する。人間のソレに似ているが全くの別物だ。直感で分かる。恐ろしくて見れない。

 それでも赤子は泣き続ける。うるさい。


 思い出をかき消すように、脳みそを埋め尽くすように耳障りな鳴き声。笑いかけたら止んでくれるような普通のものじゃない。


 ――――うるさい。


 悲鳴の様な鳴き声はどんどん大きくなる。決して俺を呼ぶものじゃない。母親を求めているのか、それとも父親か。 


 ああ。うるさい! うるさい! うるさいッ!

 うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!


 ――――外した。


 サイドテーブルに叩きつけた手の横で、目覚まし時計は鳴り続ける。


 時刻は6時60分。壊れたか?

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夢現 麻賀陽和 @houjou

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