第3話 現

「タピオカってなんであんな人気でたんですかね」


 すぐそこの売店で買った、それ入りのほうじ茶ラテを太いストローで吸い上げながら言う。本当に甘い飲み物が好きだな。こいつは。


「流行ったからだろ」


 人間ってのは単純な生き物だ。ないものねだり。見たもの乞食。隣の芝は青く見える。そこの心理を上手く突いたものが流行だ。


「知ってました? タピオカブームって、あれで3回目だったんですよ。確か――――」


 知ってる。初めて日本で流行ったのが1992年だ。


「最初に流行ったのは……。確か、二千……」


 高山が口にストローを突っ込んだまま考える。

 私たちは駅を出てから、先日行った喫茶店までスマホのナビを頼りに向かった。その道中にたくさんの警察車両を見たが、その時は特に気にも留めなかった。


「あれ、違うな90年代だっけか」


 いつまでその話するつもりだよ。

 俺はナビアプリの地図を眺めながら、目的地を探すのに忙しいフリをした。雑談っていうのはマラソンの様にエネルギーを使う。特に初対面の人なら尚更。


「なんで方向音痴の対義語ってないんだろうな」


「え? まさか迷ったんですか?」


 まあ。捉え方は人それぞれだ。


「ばか。あそこ右に入れば目的地だ」


「なんだ」


 しかし目的地であるはずの場所にはたくさんの人が集まっていた。それとパトカーが数台。救急車が1台だ。何かが起きているのは明白だ。


「事件ですかね? それとも事故?」


「みたいだな」


 俺は小さくため息を吐く。今日の取材も中止か? 

 そんな考えが頭をよぎった瞬間、ストレッチャーを押した救急隊員が人込みの中を走っているのが見えた。こんな暑い日に大変だな。


「…………日高さん。あれって」


 高山がそう言った瞬間、言葉を失った。救急隊員に運ばれていたのは誰でもない。俺たちが今日会うはずだった佐藤だった。


「え? ヤバくないですか?」


 高山の顔から血の気が引いていく。色白というより、青白いといった感じの、不健康そうな表情。


「ちょっと待ってろ」


 野次馬集団の一番後ろ。一番人のよさそうな人間を選び俺は言葉をかける。


「何があったんですか?」


 選んだ中年女性は、俺の方へ振り向くと、蝋燭を消すような動きを右手でしながら口を開く。


「……刺されたんですって。もおう。怖いわあ」


 他人事だから仕方ないが、その言葉に腹が立った。ほんとに怖いならここから遠ざかるべきだろ。なんて言ったら怒るかな。


「誰に刺されたんですか?」


「それがね。なんでも不気味な仮面をつけた人だそうよ。目撃者もいるんだから」


 なんだそれ。


「その目撃者ってのは、今どこにいるんですか?」


「あの店の店員さんよ。今警察と話してるんだけどね、もう泣くわ喚くわで大変なのよ」


 人だかりのせいで良く見えないが、あのとき俺達の接客をしてくれた女性店員だ。そりゃ目の前で人が刺されたんだから、泣くし、喚くのは自然だろ。本当に気の毒だ。まだあんなに若いのに。


「そうですか。ありがとうございます」


 まさか一人目でここまでの情報を得られるとは思わなかった。自分だけが知ってる情報を教えるってのは気持ちがいいもんな。


「高山。犯人はまだ近くにいる。探すぞ」


「ええ!? 本気ですか?」


 本気だった。


「やめましょうよ。この事件記事にするだけでいいじゃないですか」


 彼女の言うとおりだ。なぜ私はこの時、犯人を捜すなんて探偵じみたことをしてしまったのか。今でも後悔している。でも仕方ない。それが私だからだ。


「すまん。お前は帰っていい。バイト代は今日付けで振り込んどいたから、今日はもう帰れ」


 俺は悪い人間だ。そんな事を言われたら意地でも帰らないのが高山なのに。


「はあ。何言ってるんですか。さっきタピオカ奢ったのあたしですよ?」


「はあ?」


 それは今はいいだろ。ちゃんと後で返すから。それに「奢りましょうか?」って言ったのはお前の方だぞ。


「あたしの事よく知ってますよね。ほんと」


 本当に可愛くない助手だ。こいつは。


「で? なにか手掛かりはあるんですか?」


 手掛かりらしい手掛かりは無い。雑木林でオオクワガタ採るようなもんだ。それでも今は、何かしないと落ち着かない。


「犯人は犯行時、お面をつけてたみたいだ。多分今は外してる」


「それで?」


「恐らくだが、そいつは今もこの近くで佐藤の様子を伺ってる」


「なるほど。そういうパターンですか」


 だが気になる事もある。なんで佐藤なんだ? いや、それは奴が金持ちだからだろう。理由はそれで十分だ。問題は、なぜ白昼堂々の犯行なのか。

 ――――待て待て。今は犯人の手掛かりを探すんだろ? 計画を探ったところで何も変わらない。早くしないと、ここら一帯は警察によって封鎖される。くそ。


「もし犯人はすでに現場を離れていたら?」


「もちろんその可能性もある。だから先ず、おまえはここら辺で聞き込みをしろ」


「日高さんは?」


「俺は犯人の逃走経路を探ってみる」


 何もしないよりはマシだ。今はとにかく、行動することがベストの選択。


「了解です。何かわかったら連絡しますね」


「頼んだ」


 話はここで終わるかと思った。


「……もし。もし犯人も未来が見えていたら?」


 急に何言いだすんだコイツ。


「映画の観すぎだ。頼んだぞ」


 そして私と彼女は別行動をとった。彼女には人通りの多いところで聞き込みをさせ、私は喫茶店から神田がどう逃げたのかを探った。


 ――――まず、俺が犯人だったらどう逃げる? ここで佐藤を刺し、人目の少ない所を優先して通る。となると、あの路地か。

 そうして一番怪しいと思った路地に入る。汚い場所だ。狭く、空調の室外機があちこちに設置してある。だが、走ってでも通り抜けられる通路だ。


 私はその路地を歩きながら、舐めるように手掛かりを探した。室外機の後ろ。排水溝の中。ゴミ箱やタヌキの置物の下まで。しかしいくら探せどその路地には何もなかった。彼に繋がるような物は何も。


 くそ。何もない。勘が外れた。何もないなら次だ。ここを抜けた大通り。そこなら犯人も多少は焦って何か残すはず。


 ――――その時だった。私の背後から足音が聞こえてきたのだ。しかし私は振り返らず歩き続ける。


 警察か? それとも休憩中のバイトか。警察だったらちょっと不味いかな。あくまでも通行人を演じるか……。


 でももし犯人だったら? いやいや。犯人が悠長にこんなところ歩いてないだろ。でも大丈夫。ちょっとだけなら振り返っても。


 ゆっくりと首を回す。歩くスピードは落とさず、首だけを。そして首の可動範囲が限界に来たので、そのまま上半身を捻った。


 誰だ?


「……日高」


 誰だッ? なんで俺の名前を知ってる?


 私はうす暗い路地で目を凝らした。逆光が照りつけ、その姿をはっきりとは見られなかったが、そこには確かに、小面(こおもて)のお面を被った彼がいた。そこで私は神田(かんだ)と出会ってしまったのだ。


「――――お、お前が刺したのか?」


「そうだ。あいつはもうじき死ぬ」


 鼓動が早い。落ち着け。…………落ち着け。単純な強盗ではなさそうだし。まずはこの男の目的を知らなければ。


「時間がない。答えろ。お前はもう見たのか? まだ見てないのか?」


 どこからどう見ても俺が質問できる立場ではない。下手に刺激したら今度は俺が刺される。ていうか何だよその質問。絶対コミュ障だなこいつ。

 ――――待てよ。俺の名前を知っているってことは、高山の名前も知ってるってことか? それなら尚更だ。


「…………まだ、見てない」


 まるで目隠しをされた丸ばつクイズだ。正解率は五分五分、さあどうだ?


「細かい部分まで見れないのはホントに不便だ」


 なんて言った? 声が小さいんだよくそが。


「たっ。高山は無事か?」


「俺の知る限りではな」


 それだけ言うと男は振り返り走る。おいおい逃げるのか?


「――――待て!」


 気づけば俺は追いかけていた。追い付かない程度のスピードで。もしこっちに向かってきたら今度は俺が逃げればいい。


 大通りに出る。ここまでこればこっちのもんだ。だが男はまだ走る。


 警察は? 警察はどこだ。あたりを見回してもどこにもいない。喫茶店でお茶でも飲んでんのかよ!


「くっそ! 速ええ」


 男は歩道橋の階段を、スピードも落とさず駆け上がる。わき腹が痛い。肺も限界だ。ここで階段って、バケモンかよアイツは。


 体力を振り絞り、1段飛ばしで階段を上がり切る。歩道橋の真ん中、お面の男はそこにいた。まだまだ走れるって感じだ。

 通行人たちは、視線をはこちらに向けてくるものの、決して立ち止まらず素通りを決め込んでいる。中には回れ右で引き返す者もいる。


「どうした日高。 限界か?」


 低音で、心臓を握られているかの様なかすれた声は、車道から登ってくる騒音に邪魔されることなく、しっかりと俺の耳に入り込んできた。

 普段鍛えてる奴の体つきだ。声に揺れがないし、息も切れていない。全力じゃなかったのか?

 

「――――何なんだお前」


 それに比べ、俺の呼吸は絶え絶えだ。


「夢は見るか?」


 は? 夢? そんなもん見るに決まってんだろ。


「人は皆、誰しもが夢を見る。望む夢は見ようとしても見れないが、そうでないものはそうしなくてもやってくる」


「何が言いたい?」


「――――現実ってのは恐ろしいものだ」


「何だお前。コラムニストか?」


 皮肉ってる場合じゃないだろ。

 その時、向こう側の階段を上る警察官が目についた。叫ばずにはいられない。


「おいっ! 警察官、そいつが犯人だ。捕まえろ!」


 届いたか?


「いいか。8月20日、海には行くな」


 警察を呼んだにも関わらず、男は焦ることなく話を続ける。


「は?」


「8月20日だ」


 そう言って男は歩道橋から飛び降りた。この下は車道だぞ、自殺か?

 駆け寄って下を見ると、彼はダンプカーの荷台に着地していて、そのままダンプと共に走り去ってしまった。


「トム・クルーズかよ」


 その日彼が言った言葉は紛れもない真実であった。騙しているわけでもなく、陥れようとしたわけでもない。その言葉はまさしく警告だった。

 恐らく神田は今日海に行くのだろう。私には最早それだけの体力がない。


 ――――直ぐに一本の電話を掛ける。


「高山か。今どこにいるッ?」


「どこって、まだ現場付近うろうろしてますよ」


 肺にたまっていた酸素が一気に口から出て行く。その瞬間俺は膝から崩れ落ちた。


「そうか。直ぐ落ち合おう」


「え、何か見つけたんですか?」


 高山の声を聞いて俺は安心していた。やはり1人にするべきではなかった。犯人は1人じゃない可能性も残っていたのに。


「後で話す。いいか。絶対に人通りの多いところを歩けよ」


「あれれ? まさか、あたしの心配してるん――――」


 電話を切った。直ぐに行かないと。


「……君、大丈夫か?」


 警察官が話しかけてくる。聞こえてたのかよ。だったらもっと早く来いっての。


「いえ。大丈夫です」


「悪いんだけど。ちょっと話聞かせてもらえるかな」


 面倒だけど、ここで断ったらもっと面倒になる予感する。全部正直に話して開放してもらおう。


 ――――事情聴取を終えた俺は、そのまま高山と合流し事務所に帰った。

 その道中で俺は全てを話した。歩道橋の警察官と似たようなリアクションをされたが、これが真実だから仕方がない。


「8月20日。海に行くなか。あと1か月…………」


 事務所の椅子を前後に揺らしながら高山は言う。何も分からないといった表情を見るに、八月二十日に思い当たる節は無いって事か。


「もっとマシな情報得られなかったんですか?」


 頭に手を添え、大きく後ろに反り返る高山。


「あのな、俺がどんだけ怖い思いしたか知らないだろ?」


「知ってますよ? つかず離れずで追いかけたんですよね?」


 余計なことまで喋らなければよかった。


「で、どう思う?」


「いや、普通に行かないほうがいいと思いますよ」


 なに普通の大学生みたいなこと言ってんだよ。よく好奇心を殺せるよな。…………あれ。普通の大学生なら何言われても行くか?


「――――あ、そういえば」


 高山が唐突にパソコンを弄りだす。何か分かったのか?


「これ見てください」


 高山の向かいの机が俺の席だが、彼女がそう言うので、俺は高山の隣に立ち、彼女が指さすモニターを覗く。


「……相次ぐデスストランディング。未だ原因分からず」


 無意識に文章を読んでしまうのは俺の癖だ。しかし何だこれ。


「これがどうかしたのか?」


「海で思い出したんですよ。なんでも太平洋を中心に多く発生してるんですよね」


 デスストランディング。訳すと“死の座礁”。魚類や哺乳類が死んで浜に打ち上げられる事を言うのだが。その時彼女が見せてくれた画像は従来の“それ”とは全く別物だった。


「何だこの死体……」


「怖いですよね。まるでメスで切り取られたいみたいに綺麗なんですよ」


 そう言いながら高山はマウスのホイールを回し、サイトの下部へと画面を移動させる。心の準備もできないまま、次々と目に飛び込んでくる気味の悪い画像。


「しかも死体によって切り取られた部分がまちまちで。心臓とか脳みそとか、中には骨だけが抜かれたクジラとかもいるんですよ」


「…………骨」


 俺は例えようのない不快感と不安をそのサイトから植え付けられる。

 山のように積み重なった種々雑多な海洋生物。型でくり抜かれたような、気持ち悪いほど綺麗な部位欠損。赤く染まった海。死体に群がる鳥や人間。気持ちが悪い。


「コレと8月20日に何か関係があるようには思えんが、…………気味悪いな」


「少なくとも海の生き物の仕業ではないようですよ。コメントにも、悪魔が自分に足りない部位を集めている。なんて考察もあるんですから」


 今の時代なら簡単に作れる画像だが、この記事を米国の大手が発表しているところを見るに、信憑性はかなり高い。

 俺たちは暫くモニターに釘付けだった。時間にしておよそ10分。


「こりゃしばらく刺身は食えないな」


「今夜はステーキですか?」


「たまにはアリかもな」


 高山がサムズアップを見せた。


 頭から離れなかったその記事は、決してサーロインステーキを美味だとは感じさせなかった。その他に要因を挙げるとしたら、亡き佐藤から受け取った金で食べたからかもしれない。それほどまでに1日という時間の長さは、私に休まる時間を与えてくれなかった。


「――――ごちそうさまでした」


 高山が合唱をする。それは誰に向けての感謝だ?


「なあ。佐藤が入信したっていう宗教の話は詳しく聞いてるか?」


 何もかもが行き詰ったと思っていた最中。私はふと思い出したかの様にその言葉を口にした。もちろん、宗教が関係している等とは考えてもいなかった。 


「んー。新興宗教だって事しか聞いてないですね」


 新興宗教? 嫌なカルト臭が漂ってくるな。


「最近できた宗教か……。問題はどうやって探すかだな」


 その言葉に高山は口に含んだ水を吹き出しそうになる。どうやら俺は何か変なことを言ったようだ。皆目見当もつかないが。


「探すんですか?」


 ああ。確かにそうだよな。探す理由なんかどこにもない。見つけてどうするのかすら決まってない。だが俺は「ああ」と首を縦に振った。


「日高さん変わりましたね」


 その言葉が高山の口から出た時、俺は妙な安心感を覚えた。昔の俺に戻ったような感覚になる。


「だらだらと芸能人追いかけてるだけだったのに、なんか昔の日高さんに戻ってるって感じです」


 そういう高山の表情はどこか曇り空で、少々複雑そうだ。嬉しいと不安が心の中で葛藤しているんだろうな。まだ気にしているのか。


「そうか? 女優のケツ追ってた時もこれぐらいの情熱は持ってただろ」


 フフっと笑ったその顔に、純粋な喜びは感じ取れなかった。高山は単純そうに見えて、かなり複雑な心の持ち主だ。


「好きですよ。日高さんの事。あたし」


「やめとけ。背中は見ても、足元は見るな」


 佐竹さんが俺に言った言葉だ。「尊敬できる人の尊敬できる結果だけを見ろ。いつまでも好きでいたいならな」それが彼の教えだ。


 だがその時彼女が言った「好き」とは、尊敬などといった意ではなかった。彼女は尊敬する人間の、その生々しい部分も含めて受け入れていたのだ。その時の私も、それは分かっていた。

 素直に受け止めればいいものを、あの時の約束が私の邪魔をしていたのだ。


「照れてるんですか?」


「バカも休み休み言え」


 高山は口を尖らせたが、俺はお前のために言ってやったんだ。決して自分のためではない。…………決して。


「――――それで。問題のどうやって探すかだが。競馬場や競輪なんかの賭博場を中心に張り込もうと思う」


 その辺を調べてる内は危険も無いだろう。だが宗教団体の正体に迫ったら、高山にはおとなしく身を引いてもらう。


「そこで勝ちまくってる人間を探すってことですね?」


「そういうことだ。佐藤が入信したのと、金回りがよくなったタイミングが重なってる。偶然かもしれないが、ここを突くのはいい線行ってると思うんだよな」


 高山と仕事をするのもこれで最後かもしれないな。


「いいですね! それでいきましょう」


 そうして私たちはその計画に沿って行動を始めた。先ほど述べたとおりの場所へ行き、私たちが決めた基準を満たす人間を探し続け、気づけば3週間が経っていた。

 ……いや。気づけばという表現は正しくない。実際、私にその3週間の記憶はなく。私ではない誰かが私として生きていた。




 ――――なんだ? 落ちてるのか?


「なんだっ?」


 真っ暗だ、夜か? だが落ちているのは確かだ。地面は見えない。それどころか1つの星すらも見当たらない。 ただ一つ分かるのは落ちてはいけないということ。


「くそ! 何なんだッ!」


 目が慣れてきた。遠くに雲が見える。でかい雲だ。夏によく見る積乱雲よりもずっと巨大だ。動いてる。雲じゃない?

 下は! 下は…………。


 ――――――――海だっ。


 真っ暗な水の塊に落ちた。体が思うように動かない。水面に近づこうとすればするほど沈んでいく。


冷たい海水。生き物の気配は無い。いや、この下に、まるで新月の夜みたいに黒い底に何かいる。


 もう無駄だ。これだけ沈めば海面に上がるのは無理だろうな。


 沈んでいく。何かとてつもなく大きな魚が俺を食おうと口を開けているかも。そう思うと自ずと下を見ることは出来なかった。


 もう海面が見えない。いや、海面などないのかも。きっとこの海は空をも飲みこんで宇宙にあふれ出るんだ。

 もう何も見えない。上下も分からない。目の前に何かいる気がするが、その姿は見えない。見たくもない。


 ふと横を向く。遠くに何か大きな影が見える。溶けたビルの様な、見たこともない形をしている。一つ分かるのは生き物ではなく物体だということ。そして、とてつもなく大きい。比較なんてできない程。


 下を向く。

――――びっしりと物体で埋め尽くされている。まるで都市だ。


 大小造形さまざまな物体はビル群のように敷き詰められており。そのどれもが見たこともない色彩を放っていた。


 …………ついに海の底に足が着いてしまった。一歩も動けない。踏み出そうと思えばいつでも出来る。しかし少しでも動けば、俺は俺でなくなってしまう気がする。


 海の底に1人。周りには見たこともない物体。水面に張った油膜のようにうねる色。そして絶えず感じる何かの気配と真っ黒な空。


 大きなドームの様な建物も見えるが、その門の大きさからするに、人間用に造られた物ではない。というよりも、この場に人間がいる。それ自体が既に間違っているのだ。ここは一体なんだ。


 ふと空を見上げる。真っ暗で、自分の無力さを思い知らされる、広大な宇宙を。


 俺は夜空を見上げるのが好きだ。満点の星空を眺めていると宇宙にいるような感覚になる。あの星とあの星が殺しあったり、あの星とあの星が恋をしたり。喰い合ったり、喰らい続けたり、吸収したり、消化したり排泄したり。


 でもアレは輝きなどではなく、こちらを観測する望遠鏡の反射だったら? 


 俺たちが星と思い続けていた無量大数の小さな光は、地球なんか問題でもない大いなるエネルギー体だったら?


 星空を見上げる。今日も星が俺を見ている。気味が悪い。彼らからしたら、地球なんて大気中のホコリみたいなものかもしれない。そっと歩いただけでも舞い上がる、軽くて小さい埃だ。


 ああ。月がきれいだ。大きな口で笑ってる。お月様に行ったら大統領に会えるのかな。今日の月も綺麗だなあああああああああああああああああああああ。


「日高さん」


 あれえ? この子は誰だっけえ。お嫁さんん? 今日の夕ご飯ん? 可愛いなあ。

 えっとね、あれなんだっけ。そうだ。お月様がね……。


「月が綺麗なんだよ」


 お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様。


「――――日高くん。アレは月じゃないよ」


 お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様お月様。


「パパ。あれは太陽だよ」


 たいよう?




「――――――――っは!」


 なんだ?


「ちょっと。張り込み中に寝ないでくださいよ」


「は?」


 競艇場? 何で。


 俺は確か、高山とステーキ食って家に帰ったはずだろ。いつの間に競艇に来てたんだ?


「どうしたんですか? 顔色悪いですよ」


 夢だったのか? でも何処からが夢なんだ?


「…………俺は、いつから寝てた?」


 答えを知るのが怖い。鏡もだ。鏡を見たら見知らぬ誰かが映ってるかもしれない。

 何か夢を見ていた気がするけど思い出せない……。


「えっと。10分前くらいですかね。寝言言ってましたよ」


「10分……」


 スマホを取り出す。「え」無意識に言葉が零れた。画面を見ると、日付は8月17日になっていた。

 言葉が出ない。なんで3週間も経ってる。そもそも記憶がないぞ? 高山も特ににいつもと変わっていない。何だ一体、考えろ。


 ――――そしてすべてが結びついた時俺は安堵する。


「お前、やったな?」


「何をですか?」


「俺のスマホ弄ったろ? 正直に言えば怒らないでやる」


「すいません。ちょっと何言ってるか分かんないです」


「嘘つけよ。だって今7月だろ? さっきだって一緒にステーキ食ったじゃねえか」


「…………寝ぼけてんすか? いい病院紹介しますよ?」


 スマホの日付を変えたわけじゃないのか? コイツが嘘ついてるとも思えんし。じゃあ、今のこの状況は一体何なんだよ……。

 だが不思議と冷静さは保っていられた。


「大丈夫ですか?」


 頭を抱えて青ざめていたせいか、高山が俺の心配をする。このことを話したら本格的にヤバイ奴だって思われちまう。でもこの押しつぶされそうな感覚。孤独感。気持ち悪い。


「なあ。お前ここ3週間。何か変わったことはなかったか?」


「あたしは別にそんなにでしたけど」


 その言葉は今は何より救いのある言葉だ。記憶の無い3週間がいつもの日常であったならな。酒を飲んで記憶をなくしたことはあるが。それの延長だと思えばいい。


 いやそれでいいのか? そんな簡単に済む問題じゃないだろ。もっと奇妙で不可解なんだぞ。まあいいかでどうにかなる問題じゃない。


「日高さんはもう大丈夫なんですか?」


 嫌な予感と寒気がした。


「…………何、が?」


 何も思い浮かばない、真っ白だ。何だ。何が大丈夫なんだ? この状況も、俺自身に何かあったから起きたものなのか?


「佐竹さん、まだ行方不明じゃないですか。あの時も2日間くらい寝込んでたし。もう大丈夫なのかなって」


 ――――佐竹さんが? 

「いっ、いつ!」


 高山の両肩を強く握る。彼女は痛がったがそれに構う余裕なんてない。


「丁度3週間前ですよ、なんで忘れてるんですか。――――痛いですよ!」


 俺の両腕を強引に振りほどき、火照ったような表情で、乱れたTシャツを整えた。


「…………少しだけ、覚えてる」


 そうだあの時、高山とステーキを食べた後だ。一本の電話が掛かってきてその凶報を聞いた。そのあとは薄っすらとしか覚えてない……。


「そうだったな。確か佐竹さんも発狂して」


 そう。あの時の電話では確かにこう伝えられた。「突然叫び始めたかと思うと急に冷静になり、何も言わず家に帰った」と。


 そうして俺は家に引きこもった。そのまま何週間もそうする予定だった筈なのに、今俺はこうして出歩いてる。


「今日はもう帰ろう」


 今すぐ家に帰りたい。


「え、いいんですか? 張り込み」


「ああ」


 なにもする気が起こらない。このままこの謎を解いたところで何が変わる。この一連の出来事は「人間なんかの仕業じゃない」これは人間が干渉出来る次元を超えてる。「もっと高次元の存在」だ。


「っぷ。どうしたんですか急に? 高次元がなんたらって」


 口に出てたのか。でもなんで俺はそんなこと。


「ひとりごとだよ」


「ふーん」と高山はジュースを飲みながらニヤニヤと笑みを浮かべている。まあ、イかれた奴だって思われてもしょうがない。

 この状況はどうやっても説明できないのだから。


 そうして私たちはそのまま事務所に帰り、その日の夕飯を共にした。誘ってきたのは彼女の方だった。


 彼女は料理が上手だ。特に昔を思い出すような和食が。あの肉じゃがは今でも味を思い出せるほどの完成度だ。


「やっぱ美味いな。お前の料理は」


 まだ気持ちの整理はついていないが、高山の料理を食べた時、不思議と心が落ち着いたのを実感する。

 そして高山は嬉しそうに箸を置く。


「やっと言ってくれましたね。美味しいって」


「そうだっけ?」


 コイツが料理作って行くのは珍しい事ではないが。俺が「美味しい」って言うのも珍しくはないだろ。…………あれ、どっちだっけ?


「あとこれも得意なんですよ!」


 そういって高山は次々と俺の近くに皿を置いていく。もし彼女がいたらこんな感じなのかもな。


 彼女なんてずっと作ってない。欲しいとも思っていない。子供もいらないし結婚願望もない。そういうのはもう懲り懲りなんだよ。


「なあ高山」


 何を言おうとしている。その言葉の後は何だ? ――――やめろ。あの時約束しただろ。俺自身と。


「――――何ですか?」


「……ああ、いや。塩取ってほしいなって」


 対面式のキッチンに2人並んで座っていて、塩は高山の左側にある。


 そう。俺はこれでいいんだ。いつまでも傍観者でいい。物陰からレンズを覗いて、誰が何をしているのか。これだけを見ていればいいんだ。


「ここ最近の日高さん。なんかずっとらしくないって思ってましたけど。気のせいみたいですね」


 塩を手に取った高山は、それを俺に手渡しながら言った。俺はそれを受け取ると、自分の右側に置く。


「……お前さ、俺がここ3週間の記憶がないって言ったらどう思う?」


「え?」


 正しい反応を見せる高山。


「俺、7月27日からの記憶がないんだよ」


「……何、言ってるんですか?」


 2人とも箸が止まってしまった。ごめんな。こんな時に話すことじゃないよな。でもここ話さないと、このまま誰にも話せない気がする。


「ついに本格的な馬鹿になったんですか?」


 いつも通り高山は茶化す。これが俺のしょうもない冗談で終わればどれだけ気が楽だろうか。


 そうして私が何も言えず俯いていると、彼女の口から思いもよらぬ言葉が出てきた。まさしく私の心を握りつぶすような言葉だ。


「え、じゃああの時も、あの夜の事も覚えてないんですか?」


 背筋を汗が伝う。エアコンをつけているせいか、その汗はやけに冷たい。


「なんか、あったのか?」


 俺の言葉に高山は目を丸くさせた。その目はえらく湿っている。必死に我慢しているのが痛いくらい伝わってくる。

 それは怒りでも失望でもない。……虚無だ。


「いえ、何にもないですよ!」 


 高山はいつもの笑顔で否定して見せるが、少しぎこちない。こんな高山を見るのは初めてだ。何か言った方がいいのか?


「あ、ヤバ。今何時ですか? あたしこの後用事あるんですよね」


 そう言って空になった皿をそそくさとまとめてシンクに置いた。用事があるなんてのは嘘だって直ぐに分った。


「そ、そうか」


 この時の彼女の様子から大体の事は察することが出来ていた。出来ていたのに、私は彼女を止めなかった。後悔すると分かっていたくせに。


 ――――私と彼女は一夜を共に過ごしていた。なぜそうなったのか過程すら覚えていないが、どちらにせよ私は彼女を守ることが出来なかった。


 そうして高山は振り向くことさえせず出て行ってしまった。足音も、鍵をかける音も、どれも聞きなれない音だ。

 何で俺は高山と。いくら記憶がないからって、それだけは絶対にあり得ないのに。


 一人ポツンと残された部屋で、俺はあの日の出来事を思い出していた。決して帰らない、愛しい2人を待ち続けるあの頃を。


 寝室に入り、1つだけ置かれた枕に顔をうずめる。絶対にないはずの匂い。いつも香るあの心地のいい匂いを、鼻の奥で微かに感じ取る。

 感情が揺さぶられ、封じ込めようしてた感情が蘇る。


「なんで…………」


 ああ。いつぶりだろうか目から涙が出るなんて。あの時枯れ果てるくらい泣いたのに。いつまでも尽きない物なんだな。これは。


「ごめん。…………ごめんな。美穂、奏」


 涙は止まらなかった。高山が助手に来てからずっと我慢してたもんな。




 ――――美穂(みほ)というのは、私が以前婚約していたジャーナリストだ。出会ったのは中東の戦場。私はフリーランスで活動していたが、彼女は事務所に所属していた。


 アメリカの軍人に囲まれながら戦場を駆ける彼女に、私は一目惚れしていた。


 ある夜、非戦闘地帯の一角に建つ、ホテルのラウンジで私は美穂に声をかけた。


「こんばんは」


 彼女は女性ということもあり、髪の毛は短く、服装も私と同じような男物の衣服を身にまとっていた。


「どうも」


「今夜は寒いですね」


 ベタな切り出し方だが、ここは日本じゃないし、ましてや高級ホテルのラウンジでもない。これくらいがベストだろうと思っていた。


「そうですね。昼はあんなに暑いのに」


「確かに」


 私はただただ頷いた。会話を途切らせいよう話題を作った。


「あの、どうして貴女は戦場に赴いているんですか?」


 彼女は私を見る。髪が短くとも、男物の服を着ていようと、彼女の顔つきはまさしく女性だった。だがその目に光は宿っていない。


「そういう貴方は何しにここへ?」


 彼女はグラスを手に持ちながら、口角を少しだけ吊り上げた。


 なぜ私が戦場ジャーナリストになったのかは明確な理由があった。だが、この時は何を答えようと、彼女が満足するような返答は出来なかっただろう。


 そうして私が口を籠らせていると彼女は笑った。


「――――よかった」


「え?」


「いや、ごめんなさい何でもないです」


 彼女は一息つくと、グラスを空にしてタバコを銜(くわえ)た。そして今度は彼女が話を切り出した。


「出身は?」


 美穂が私に少し興味を持ってくれたと、この時の私は舞い上がっていた。


「岐阜です。あ、日高っていいます」


「日高くんか。あたしは高奈(たかな)。出身は兵庫県です」


 私と美穂は軽く頭を下げて挨拶を交わした。頭を上げると彼女と目が合ったが、私は直ぐに目をそらした。すると、ふと笑いが込み上げてきた。だがそれは彼女も同じだった。


「ああ。日本人だなあ、やっぱりあたし達は」


「そうですね。ここ最近外国人としか話してないから。こんな挨拶久しぶりですよ」


 そう言ってまた二人で笑った。


「――――お酒、飲まないの?」


 美穂は酒を勧めてきたが、この時の私はまだ現場の空気に慣れておらず、そういうものを嗜む余裕などなかった。


「いや、今夜は遠慮します」


「いいの? 明日死ぬかもしれないんだよ」


「その時、酒のせいにしたくないんで」


 私は音をたてながらグラスの中に入った氷を転がした。氷は寂しそうに酒を欲しがっていたが、私は断ったのだ。


「っふふ。そっかそっか。それが君ならそのままでいいと思うよ」


 美穂はボトルに残った、わずかな酒を名残惜しそうにグラスに注いだ。既に彼女の顔は紅色で淡く染められていた。


「高奈さんはお酒強いんですね」


「いいや、下戸だよ。コレは今日死んだ兵士に」


 何とも言えなかった。人が殺し合っている。それがそこでの日常なのだと、その時私は実感した。

 ――――無言でうつむく私を見て、彼女が口を開く。


「日高くん。まだ人が死ぬとこ見てないでしょ?」


「……はい。何で分かったんですか?」


「なんとなくだよ。そうじゃなかったら、一杯付き合ってくれるしね」


「なるほど……」


 またしばらく無言が続く。気まずいからではない。多分、あれは死んだ人への黙祷だ。そしてその沈黙の間、私の中で抱いていた物が熱くなる瞬間を感じた。


「今でも人が死んでる。その事実を日本国内に伝える。そうして日々の有難みを感じてもらいたい。それが俺の理由です」


 理由を話すのには勇気が必要だった。それで彼女に鼻で笑われるかもしれないし、綺麗ごとだってあしらわれる事が怖かった。しかし私は話した。


「そっか。あの頃のあたしと同じだね」


 彼女も同じ理由を持っていた事実を知り、内心ほっとした事を今でも覚えている。


「今は違うんですか?」


「ん? そうかもね」


 美穂は大きく背伸びをして、手に持っていたグラスを空けた。灰皿の横。寂しそうに置かれたタバコの箱は、誰の物かも分からない血をつけていた。


「日本人に限らずさ、人間ってのは大多数が実際に経験しないと分からない生き物なんだよね」


 彼女の指に挟まる吸いかけのタバコは、線香のように煙を吹き出している。


「意外と静かな戦場、花火とは違う強い火薬の臭さ。さっきまで話していた人が死ぬ瞬間。どれも普通に生きてれば経験することの無い事実」


 酔っぱらっているのか、彼女の舌はうまく回っていないように感じた。


「――――でも、それを経験しないってのは幸せな事なんだよね」


 美穂は大きなため息を吐いて机に伏せる。


「一体何なんだろうねえ。現実ってのは」


 日本でも紛争地帯の映像は流れる。人が死ぬ瞬間などはカットされて。

 そして人は結果を知りたがる。どっちが勝ってどっちが負けたのか。そして世界がこれからどう変わっていくのか。

 戦争さえ1つのエンターテイメントと化しているこの世界で、人は自分の生活をする。昨日見たニュースの内容などとうに忘れて。


 私は一体、何を伝えたかったのだろうか。


「高奈さんは、いつまでこの仕事をするつもりですか?」


 しかし返答はない。代わりに返ってくるのは彼女の寝息。


「高奈さん?」


 眠った彼女をここに放置しておくのは危険だと思い、私は彼女を部屋まで運ぶことにした。


「高奈さん。何号室ですか?」


 背中から伝わる彼女の温もり。耳にかかる酒臭い吐息。抱きしめるように回された少し筋肉質な細い腕。もう少しこのままでいたいと私は願った。


「424」


 424号室は直ぐ目の前にあった。


「着きましたよ。入りますね。あとで何も言わないでくださいよ」


 この期に及んで、まだ彼女の事を女性として扱っている自分に嫌気がさした。

 ――――ゆっくり美穂をベッドに下ろし、そっと布団を掛けてあげた。少しだけ彼女の寝顔を眺めたが、そのまま起こさないようにその場を離れることにした。

 だが、そんな私を彼女の腕が止めた。


「来て」


 明日死ぬかもしれない。彼女の言った言葉が私の背中を押した。


 生きている実感というのはどこで感じるのだろう? 


 死ぬ直前。またはそれを回避した時。子供が出来た時。家に帰った時。それは人によってまちまちかもしれないが、少なくとも彼女は、私と出会ったその時も。もっとそれよりもずっと前から感じていたのだろう。


 飲み干した酒。吸いかけのタバコ。私との会話。私の背中。共に過ごした夜。明日死ぬかもしれないという現実。来るかもわからない朝。彼女は誰よりも、自分の“生”を大切にしていた。


 ――――後日、私は現地取材8日目にして、人が死ぬところを目の当たりにした。だがカメラには納めなかった。その瞬間が金に代わることを恐れた。

 いや、それは建前だ。正直私は、誰かが死ぬ場面を心の何処かで待ち続け、欲していたのだ。その写真を撮り、世界に現実を突きつけてやろうと息巻いていたのだ。

 しかし違った。現実というのは、人から人へ伝えられる程かわいい物ではない。


 美穂とは帰国してから結婚した。それからは、私は発展途上国や難民を専門にするようになり、彼女も国内を中心に活動した。守るものが出来るということは素晴らしくも残酷だ。


「――――明日からまた海外に行くよ」


 ある日の朝、私は美穂にそう告げた。


「そう、気を付けてね。あなたは私たちの自慢のお父さんよ」


 私の肩に手を置きながら彼女は言った。

 結婚してから美穂の髪は伸びた。もう男の格好をする必要はなかったからだ。本当に美しかった。しかし同時に、学校を卒業するような切なさと寂しさも感じた。


「パパまた遠く行っちゃうの?」


 奏(かなで)。私と美穂の宝だ。まだ小学校に上がったばかりで、一人で靴紐も結べない。小さな体に、小さな心音。それを聞いた時、私は自分の中に生を感じた。


「そうだよお。パパはママと奏を幸せにするために頑張ってくるんだよ」


「やだ。カナデはパパがいないと幸せじゃないもん」


 小さいながらに、頑張って感情を訴えるその顔と、輪ゴムの様に小さな口から出てくるその言葉に、私と美穂は顔を見合わせ笑った。


「ええ? ママじゃダメなのお?」


 美穂は奏のおでこに自分のおでこを合わせると、ぐりぐりとしながら意地悪くそう言った。


「ママも好きだよ。でもパパもいないとイヤ」


 その言葉には私の全てが詰まっていた。これまでの人生や夢が、奏と美穂という、目に見える姿となり、私に幸せを運んでくれた気がした。

 私は世界の誰よりも幸福だった。

 ――――それでも私は翌日の朝、彼女たちを置き去りにした。もし過去に戻れるとしたら、何もかも忘れてそのまま死にたい。その時はそう思った。


 今思えば、3人で過ごした日々ですら夢だったのかもしれない。


 美穂と奏は、無免許で運転していた未成年に殺された。その連絡が入ったのは、私の乗った飛行機が離陸した後だった。


 それから日本に戻るまでの事はあまりよく覚えていない。


 加害者とその家族からは、ただひたすらに謝罪された。だがどうでもよかった。

 顔も見たくない。出来れば一家で心中してほしかった。地獄に落ちて欲しかった。2人のお墓には来ないで欲しかった。2人の名前を口にしないで欲しかった。

 ――――添えられた花束を、私は投げ返した。


「そんなに許してほしいなら、今すぐ死んでください」


 私は裁判でそう言い放った。裁判長からは注意をされた。


 連日載り続ける新聞やニュースに吐き気がした。今も2人の事故が誰かの金になっている。そしてどんどん小さくなり、遂には消えてしまうのだ。


 私がやってきた事も同じだ。食べるために誰かの不幸を探しに行く。世の中を変えるなんて綺麗ごとを吐きながら。


 ――――自殺は何度も考えた。だが誰よりも生を大切にする美穂が、今度は小さな手と共に、いつまでも私の腕を握っている。


「明日死ぬかもしれない」に何度希望を抱いたことだろうか。いつになっても来ない明日。2人に会える明日に。


 私は約束した。自分の魂と。

「もうあんな思いはさせない」と。

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