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 翌朝になっても、ひさめくんは帰らなかった。休日ということもあって、私も母も何も言わないことをいいことに、彼は我が家に居座り続けた。正直、まあやちゃん好き好き好き、とまとわりつく彼は少々うざったかったけれど、父も母もどこか嬉しそうだったので何も言えない。幸いなことに、今日は夜から塾の授業が入っている。自習室に行くふりをして早めに家を出ることにした。

 淋しげに睫毛を震わせるひさめくんを軽く振り払って向かう先は、塾ではなかった。あくまでも「ふり」なのだ。自習室なんて静かで苦しいだけの場所だ。名前も知らない他人の痛みが侵食してくるような気がする。なら夜までどこで時間を潰すのか。そういう暇なときに行く場所は、私の中でいつも決まっていた。

 古ぼけた民家の扉を合鍵で開けると、私はいつものように中に入った。そうして目に付くのは人形。狭い室内の至る所に人形が飾られている。ここを初めて訪問した人は、大体この無機質な瞳に囲まれて気絶しそうになる。昔からななせさんとよく遊んでいた私からしたら、もう慣れたことだったけれど。

 階段を上ってすぐのななせさんの部屋をノックしようとしたとき、はたとそういえば今のこの時間帯は彼女は何をしていただろう、と思い立った。彼女はとてもこだわりの強い人なので、分刻みで固定されたスケジュールの中で過ごしており、それが乱されるととても不機嫌になるのだ。スマートフォンで時間を確認してみると、15時ちょっと前だった。確か、15時になると、ななせさんは一旦休憩をとるはずだ。

 私はノックをやめて、ドアに寄りかかった。廊下の窓には人形が飾られている。フリルがたっぷりの人形は大層可愛らしく、整った顔立ちはどこかななせさんを思い出させる。彼女は美しい。その界隈では、「美しき人形師」と噂されるほどだった。その端正な顔立ちで慇懃な口調なものだから、特定の層に人気もある。本人はどうでも良さそうだったけれど。

 ぼーっ、と人形たちを眺めていると、突如扉が動いた。私のせいで、つっかえているらしい。ガチャガチャと忙しなく動く扉から慌てて退くと、中からななせさんが少し驚いた顔で私を見た。


「君だったのか。ドアが開かないから驚いたよ」

「お邪魔してます、ななせさん。これから休憩ですか」

「ああ、ティータイムだよ。ちょうど冷蔵庫にケーキがある。一緒に食べよう」

「はい」


 薄い唇に笑みを浮かべると、彼女は扉を閉め、外から鍵をかけた。彼女は決して、誰にも職場を見せないのた。





 冷蔵庫の中で眠っていたのはチョコレートケーキだった。あれ、と思う。ななせさんは、チョコレートがあまり好きではないはずだった。偏食ぎみの彼女は野菜を好まず、足りない栄養はサプリメントで補い、あとは好きなものを食べている。


「……本当は、ひさめと食べようと思っていたんだ」


 今度はテーブルの上で眠るチョコレートを眺めながら、彼女は言い訳をするように呟く。基本的に好き嫌いのないひさめくんだけれど、そういえば大好物はチョコレートだった。


「ひさめくん、今家に来てますよ」

「なるせから聞いた。いつもありがとう」


 なるせ、とは私の母のことだ。ななせさんと一文字違いの名前。兄弟も姉妹もいない私は、そういう言葉遊びのような名づけ方が羨ましかった。

 なかなかケーキを口にしようとしないななせさんに遠慮して、しばらく一緒に出された紅茶ばかり啜っていたが、「どうしたんだ? 君が紅茶を口にしたのは今のでもう5回目だぞ。紅茶はケーキと共に食べてこそ風味が引き立つものだろう。早く食べたまえ」と心底不思議そうに言われて、やっとフォークを手に取った。

 チョコレートケーキは甘さが控えめで、子どもには少し苦すぎるのでは、と思ったけれど、チョコレートをはじめとして甘いものが苦手なななせさんはギリギリ食べることのできる、というラインだ。このチョコレートケーキは、妥協、という言葉が似合っている気がした。ななせさんは、ひさめくんを愛していないわけじゃない。


「美味しかったら私の分も食べていい。どうせ食べられやしない」

「いいんですか」

「ああ。それはひさめと食べてこそ意味があるものだからね」


 ななせさんは、ただひたすら紅茶を啜り続けている。リビングの片隅に目立たないようにビニール袋に包まれた陶器の破片の中に人形の青い瞳があることに、私は気づいていた。

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人形の瞳 小夜 鳴子 @asayorumeiko

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