独奏・アンサンブル

不屈の匙

『ベートーベン チェロ・ソナタ 第四番 ハ長調 第一楽章』


 ピーポーピーポー。

 チープなサイレンが、現実を遠くしていた。

 ガタガタとストレッチャーが真っ赤な美香を救急車に乗せていく。俺は呆然とその光景を眺めていた。

 対向車線から飛び込んできた車を避けられなくて、チェロを抱えて後部座席にいた俺は奇跡的に無傷だったけれど、タクシーの助手席に座っていた美香はそうもいかなかった。


 「二人で立とうね」そう美香と約束したステージに向かう途中だった。

 俺と美香だけの、初めてのアンサンブルコンサート。


「行かなくちゃ」


 俺はチェロのケースを手に取って、道ゆくタクシーを捕まえにいこうとした。

 それを消防隊員の一人が肩を掴んで引き止める。


「どこへ行くんです! あなた、その指輪、怪我人は恋人でしょう!?」

「これから、コンサートなんです。コンサートなんです。ずっと、俺たちの夢だった、コンサートなんです」


 消防隊員の腕を振り解いて、駆け出して、タクシーを捕まえた。「市民ホールまで」。涙を流す俺に、タクシーの運転手は何も聞かなかった。


「安藤さん! こんなギリギリに来るなんて珍しいですね。紗倉さんは? いつも一緒に来られるのに。それに衣装も、よれて」


 市民ホールに着くと、今回の主催者の一人が慌てたように出迎えてくれた。

 古馴染みの彼は、すぐに俺の異変に気づいた。俺と美香はいつだってセットで扱われていたから。


「行きがけに事故にあったんです」

「えっ、それじゃあ、紗倉さんは?」

「たぶん、死にました。あの血の量では、生きていないと思います。生きていても、地獄でしょう」


 変な方向に折れた美香の指がフラッシュバックする。手荒れ一つない、綺麗に磨かれた、ささくれだって知らないような指が、ありえない角度を向いていた。

 もし仮に命を繋ぎ止めても、あの怪我ではもう、ピアノを弾くことができないだろう。それなら、きっとそのまま死んでしまった方がマシだ。

 俺たちはそういう人間だ。


「棄権されないんですか!?」

「お願いです、やらせてください。やらないと、浮かばれません」

「……わかりました」


 アンサンブルは二人で奏でるもの。

 だから当然、たった一人で舞台に上がった俺に、観客はどよめいた。


 スポットライトが照らすのは、弓を構えた俺と、空のピアノの席。

 一人で奏でる『ベートーベン チェロ・ソナタ 第四番 ハ長調 第一楽章』。


 気心知れたエルデディー伯爵夫人とチェロの家庭教師リンケのためにベートーヴェンが書き上げた楽譜だ。

 俺と美香はこの曲のために何ヶ月も前から曲の解釈を語り合って、調整を重ねていたけれど、演奏できるのは、美香の解釈を見せられるのは、今は俺一人だ。


 この曲がかきあげられるころ、一度火事によって離散していた演奏グループは再結成する。曲の終盤は、季節が春に向かうように、苦難の氷が音をたてて溶けるようにテンポが上がる。


 けれどそれはピアノあってこそ。

 女性らしい軽やかなピアノの高音を失ったチェロの旋律は、重厚で物寂しくホールに響き渡る。


 孤独のアンサンブル。

 美香はいない。ピアノの旋律もない。不完全なチェロのメロディーが相手を探して彷徨い、一人寂しさを抱えて収束していく。

 きゅるりと最後に引き絞って、この時間はおしまい。


 万雷の拍手。啜り泣くかすかな水音。

 観客は、主役の一人がもういないことをその演奏から察した。


 これからは一人で。俺の相棒はこのチェロと、美香のピアノだけだから。

 アンサンブルのコンサートに立つのは、これが最初で最後だ。


 俺は拍手の鳴り響く舞台で頭を下げて、舞台を後にした。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

独奏・アンサンブル 不屈の匙 @fukutu_saji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ