5. 覚醒

 午前二時半に携帯電話が鳴った時、かずらがそれに気付いたのはほとんど奇跡的な事だった。二十番目の電子レンジの中で身を震わせながら 鳴く携帯。かずらはベッドサイトのデジタル時計で時刻を確認する。こんな時間に一体誰が、と思って起き上がり二十番目から携帯を取り出す。

『着信 灰谷入子』

眠気でぼんやりしていたかずらは通話ボタンを押す。

「もしもし」

『かずらさん......』

 入子は泣いているのか鼻声で、何度もしゃくり上げていた。かずらの 半覚醒の思考回路が瞬時にソリッドになる。

「どうした? 何があった?」

 問いただすも、入子は泣くばかりだった。あの達観した入子が、冷静 な入子が、眼に影を落とす入子が、その辺の子供のように泣いている。

「今どこだ」

『いつもの場所......』

「すぐ行く。動くなよ」

 かずらは自分でも何故ここまで必死になっているのか理解出来なかった。確かに入子は仲間だ。友人と言ってもいいかもしれない。しかし、 他人の為にここまで能動的になれる自分が不思議でならなかった。

着替えてからアパートを出て『墓場』に向かうまで、かずらは落ち着 かなかった。今夜はそれを俯瞰する自分も居ない。彼は混乱していた。 入子の泣き声に。自分の必死さに。

 何なんだ、これは。

 かずらは苛ついていた。 月明かりが彼を照らす。小山の入り口でかずらは一瞬息を止め、そのまま山道を駆け上がった。 『墓場』はほとんど真っ暗で、遺棄されている粗大ゴミはまるで暗黒の海に浮かぶ海賊の骨のようだった。

「入子!」

 苛つきと狼狽を隠せないかずらは大声で呼びかけた。『墓場』を一回 りして入子を探す。

「入子!」

 かずらがもう一度彼女の名を呼ぶと、灰色の大型冷蔵庫が少し揺れた。 かずらは足を進め迷わず冷蔵庫を開ける。

 入子は中で携帯を握りしめたまま涙を流していた。制服に包まれた小 さな身体は小刻みに震えている。

「かずらさん......」

「どうしたんだよ。一体何があった?」

「何も無いよ」

 入子は鼻水を啜りながら答えた。

「何も無いから恐いんだ。何の問題も無いって事がどんなに恐いか気付いたら、もう......涙が止まらなくて......」

 かずらは何も言えなかった。無言のまま入子の腕を掴み起き上がらせる。入子は抵抗しなかった。

「何も無い。空っぽって訳でもない、私には家族も時間もやりたい事も ある。でも......」

 入子は涙で顔をぐちゃぐちゃにしてかずらを見上げた。

「かずらさんは何で平気なの? 空っぽって、凄く恐いと思うよ」

「俺は元々空っぽだったからかもしれない」

「あのおばちゃんも言ってたね」

「そうだな。何も問題が無いってのが問題なんだよ。そこは俺も困って る。でもおまえは空っぽじゃないし、おまえが言ったように時間もやり たい事もある。それは『何も無い』とは違う」  

 入子は涙を流したまま頷いていた。

「なあ、本当に何も無かったのか?」

 俯いた入子の髪がさらさらと流れる。

 それを掻き上げる手はかずらの 手よりずっと小さく、まだ世界の何も掴んでいない。

「親に、変な事言われた」

 絞り出すように入子が言った。かずらは眉を寄せる。

「学校サボってるのがバレて普通に怒られたんだけど......それは当然だ し私も悪いって分かってるのに......あの女、私が心配だって言うんだ。 父親もそう。私の将来が心配だって」

「それは親として当然の反応だろう」

「今更急にそんな反応されても困るよ! 今まで私を見てもいなかった のに!」

 入子が叫ぶ。かずらは冷蔵庫に腰掛け、入子の肩に手を置いた。

「俺が思うに」

 かずらは素直に語る。

「おまえの周りの人間はちゃんとおまえの事を認識してるよ。おまえが 認識されてるって認識してないだけだ。きっとご両親もそうだ。学校の 奴らもそう。おまえが世界を遮断してるだけなんじゃないか?」

 薄い唇を震わせたまま、入子はかずらを見た。

「私の、所為......?」

「ある意味ではな。でもおまえが悪いんじゃない。ちょっと勘違いして ただけだ。これから幾らでも修正出来る。まだ十三だろ?」

「かずらさんは......かずらさんはどうなの? 空っぽのままでいいの?」

 ほんの少し、かずらが笑う。

「またいちから何か貯めるよ。生きてりゃ何かしら埋まるだろ。あのば あさんは俺をマカロニだって言った。でもマカロニだって中に何か詰め て食べる事もあるだろ。それと一緒。何かはまだ分からないけど、のん びり探して詰め込むさ」

 かずらは入子にある種の感情を持って微笑みかけた。自分にそんな表 情が出来るなんて知らなかった。先程の苛つきは、入子の為に言葉をかけてやる事で、少しずつ薄れていった。

「おまえは『不要品』じゃないよ」

「そんな事言わないで」

 入子の目にまた涙が溜まる。

「必要としたりしないでよ。そしたら期待に応えないといけなくなる。 そんな重圧は嫌なの。不必要な存在で居た方がずっと楽だよ」

 それを聞いてかずらは何故入子が『不要品』を自称していたか、その 眼に影があったかをようやく理解した。そして益々微笑ましくなって、 思わず笑みをこぼす。

「おまえ、可愛いな」

「こんな時に何言ってんの?」

「おまえは人よりちょっとばかり頭が良い。でもその頭の良さで色々考 え過ぎてるんだ。世の中の大半の人間は何も考えちゃいないのに。自業 自得とかそういう事を言いたいんじゃない。頭が良いのはおまえの良い 所だからな。でも時にはちょっと馬鹿と一緒になって馬鹿やるのも悪く ないぞ?」

 入子はまた髪を掻き上げる。

「褒められてるのか貶されてるのか分かんないよ」

「どっちでもない。単なる事実だ」

「かずらさんらしいね」

 無理矢理に笑みを作ってみせる入子の眼に、影は無かった。

「あのさ、こういう事言うの恥ずかしいんだけど」

「何だ?」

「ちょっとだけ抱っこして貰っていいかな」

 恥ずかしいと言う割に、入子はしっかりとかずらを見据えていた。か ずらは無言で入子を抱きしめた。

「ごめん、今だけだから。ごめん」

 入子は繰り返しそう謝ったが、なかなかかずらから離れなかった。か ずらはそれを不快に思わず、入子の髪を撫でながら月を見上げた。

 満月は二人の罪なり勘違いなり思い込みを全て赦すような顔をしていた。



 それから一週間後、『墓場』は無くなった。

 柚ヶ丘市が地域一帯のクリーンキャンペーンを始め、塀や壁等の落書 き、ゴミや煙草のポイ捨てを禁止し、洗浄し、そしてあの『墓場』を整 地して自然公園を作ると言い出したのだ。小山の入り口には立ち入り禁 止の柵が出来、『墓場』の物は撤去され、誰も近寄らなくなった。市の境界であるあの河川敷も同様に更地となり、噂では河川敷の新しいグラ ウンドの一部になるという話だ。

 入子は学校をサボらなくなった。よく授業中にメールを送ってくるが、 積極的に周りに溶け込もうと努力しているようだ。勿論かずらは、それ が完全に可能だとは思っていない。何しろ入子はまだ中学一年だ。これ から何度も壁にぶち当たるだろう。その時は、また自分が支えてやれば いい。そう思うと同時に、彼女が自分を『不要品』呼ばわりしなくなっ た事を嬉しく思っていた。

 かずらはかずらで相変わらずだった。世界は膜に覆われたままだし、 自分という人形を遠くで操っている感覚は根深く残っている。二十個の 電子レンジは北側の壁に鎮座しているが、これ以上増やす気にはなれな かった。携帯電話を携帯するようになり、唯莉には謝罪して何とか関係 を修復した。今まで無視していたメール全てに返信し、学校には休学届 けを出した。書類提出の為に久々に顔を出した大学はやはりかずらの気 をそこまで引き付けなかったが、それでいいとかずらは思った。


 一つ、訃報があった。例のバス停の老女が飲酒運転の車に轢かれて死 亡したのだ。かずらはそれをしばらく経ってから知ったから通夜にも葬 式にも行けなかったが、そもそも自分と彼女は一度顔を合わせただけの 関係だ。

『マカロニさんはマカロニさんさ。潰れなければ、空っぽのまま生きて いける』

 彼女の言うように空っぽのまま生きていくのも一つの手段だろう。だ があの夜、深く考えもせずに入子に語ったように、マカロニはマカロニな りに中身を詰める事が可能だ。果たして中身がどこにあるのか、それが どんなものかかずらには想像も付かなかったが、そうした方が良いよう に思われた。

 そしてかずらは更に考える。もしマカロニの中身が確固たる物になっ たら、仮にそれが人格と呼べる代物になったとしたら、むしろ邪魔なの はそれを覆うマカロニそれ自身なのではないか? マカロニという殻を 破って外に出れば、世界にもっと直接的に接する事が出来るのではなか ろうか?

 世界がぶよぶよとした厚い膜に覆われているように見えて、実のとこ ろその膜は自分自身を覆っているだけなのかもしれない。そう考えると、 この二十年の自分の葛藤がえらく滑稽に思えた。

 しかし結局、あの日何がはじけたのかは分からないままだった。理解 する必要は無いと、かずらは考える。

 きっかけや理由等必要無いのだ。結果が全てではないが、逆に過程が 全てでもない。

 かずらは割り切る事にした。この世界の仕組みをもう少し狡猾に理解 して自分と折り合いを付けていく事、時には妥協する事も必要だと、二十年経ってやっと理解出来るようになった。 電子レンジはもう増えないが、減らす必要も無い。

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