4. マリオネット

「玄関で洗うの?」

「いつもはそうしてる。狭いから一つずつ洗おう。台所の洗剤を取って きてくれるか」

 入子はぱたぱたと足音を立ててキッチンに向かう。かずらは先ず黒い レンジを取り出し、濡れた雑巾で表面を拭き始めた。雑巾はすぐに真っ 黒になる。バケツで雑巾を洗い、入念に絞ってからまた拭く作業に戻る。 かずらはその行為に集中する。入子が洗剤を持ったまま声をかけてくるのにも気付かない。

「かずらさんってば!」

 ようやくかずらは顔を上げる。

「聞いてんの? 洗剤って、これでいい?」

「ああ」

 かずらは洗剤を受け取り、電子レンジの蓋を開けて軽く吹き付けた。 別の雑巾で丁寧に汚れを拭き取る。その間も入子は何度かかずらを呼ん だが、かずらは一心不乱に内部を磨き続けていた。入子は会話を諦め、 冷蔵庫からミネラルウォーターを出して勝手に飲んだ。

「きれいになった」

 かずらの気が済み、十九個目が窓際の十八番目の下に設置された。

「凄い、凄いね」

 入子は自分の事のように嬉しそうだったが、かずらにとっては単なる 十九個目に過ぎない。彼女が何故ここまで嬉しがるのかは分からなかっ たが、まあそれも悪くないと思い始めた。

「グレーの方は私が磨くよ」

 張り切った口調で腕まくりをして入子は雑巾を手に取った。かずらは 一瞬迷う。拾って磨いて積み上げる、その作業に他人が介入して良いも のか。だがこの二つの電子レンジは入子の提案のおかげで手に入った物 だし、そもそもこの作業自体に意味など無いのだから、そんな統合性が 無くても別段誤りは無いように思われた。

「じゃあ任せるよ。俺はちょっと煙草買ってくる」

「あ、じゃあ冷たいレモンティも買ってきて。後でお金払うから」

「それくらい奢るよ」

 かずらは座り込んでレンジを磨く入子の脇の靴を履き、再びアパート を出た。

 最寄りの自動販売機まで二分程歩く。その間にまた毛穴から汗がじん わりと出てくるのが分かった。

 先に飲み物の自販機でレモンティを購入し、煙草の販売機前でしばし 悩む。煙草は二十歳になってすぐ吸い始めたがじきに吸わなくなり半年 程経っていた。先程の老女に貰ったものはメンソールではなかったので、 メンソールの入った比較的重い物を選び、タスポをタッチする。タスポ も浸透してかなり経つな、とかずらは思った。導入された当時は年上の 喫煙者達が作るのが面倒だ何だと言っていたが、今や必需品だ。

 かがんで煙草を取り上げ振り向くと、野良猫が声も立てずじっとこち らを見ていた。かずらはその眼を見詰めた。随分長い間睨み合いをして いたが、じきに白い車が二人の間を通過し、車体が視界から消えると猫 も居なくなっていた。かずらはアパートに戻った。

 ドアを開けると、入子が眉間に皺を作って電子レンジの内部を拭いて いた。

「中の方の汚れがなかなか取れなくて」

「俺がやるよ。ほら、レモンティ」

 ペットボトルを入子に渡し、かずらは雑巾を受け取った。入子と入れ 替わりに玄関に腰を下ろす。靴を履いたまま洗剤を噴射し、雑巾で汚れ を落とす。確かにしつこい油汚れだった。かずらはまた洗浄行為に没頭 し、入子はその間レモンティを飲みながらそれを眺めていた。

「磨いてる時のかずらさん、職人みたいな顔だね」

「そうか?」

 最後に仕上げに乾拭きしている最中に、入子が言った。

「なんか、伝統工芸を作る人みたい。人間国宝だ」

「そんな意味のある事はしてない」

 かずらは二十個目を持って立ち上がった。入子がそれに見入る。

「新品みたいになったね。どこに置くの? それは割と小さいから一番 上がいいかな」

「そうだな」

 かずらはベッド側から電子レンジ群を見、結局十八番目の上に二十個 目を配置した。

「ここまでくると芸術だね。凄いよ。凄いって言葉しか出てこない自分 が嫌だけど」

 入子はベッドに座り、またしばらく無言でそれを見詰めていた。

「ねえ、かずらさん」

「何」

「さっきのおばちゃんも言ってたけど、空っぽなの?」

「そんな気がするだけだよ」

「でも、不要品ではないの?」

「自分を不要だとは思わないな」

「私は空っぽじゃないけど不要だよ」

「自分で言ってるだけだろ。おまえだってどこかで必要なんだ。だから 生きてる」 「そうかもね。でも、空っぽの穴を埋めたいとは思わないの?」

「よく分からない。元から空っぽだった気もするんだ。俺は元々、何も 無い空っぽの人間だったのかもしれない」

「そんな人居ないよ。それは自己憐憫だよ」

「そうかな」

「そうだよ」

 かずらは灰皿をテーブルに置いて煙草を吸っていた。アイスコーヒー を注いだグラスが大粒の汗をかいている。かずらはコースターも用意し ていた。勿論、入子のペットボトル用にも。

「今日、私がご飯作ろうか」

 入子が唐突に言った。かずらは表情を変えずに煙を吐き出した。

「料理出来るのか」

「うん」

「その年でか。お姉さんも居るんだろ? 自炊の必要があったのか?」

「ううん、母さんの手伝いしてる内に覚えた。お姉ちゃんは家事とか嫌 いだし」

「母親は存在を認知出来ない相手に料理を手伝わせるのか」

「そう。彼女は隣の透明人間が料理を手伝ってると思ってる」

 入子は母親を『彼女』と言った。その距離感は正しいようにかずらは 思ったが、十三才という年齢を考えると、少し異例かもしれない。

「何か食べたい物ある?」

 かずらはしばらく考える。

「おまえの得意料理は?」

「冷蔵庫の残り物を使った創作料理」

「じゃあそれで」

 入子はキッチンに向かい冷蔵庫を覗いたが、すぐにかずらの方に向き 直った。

「ほとんど何も無いじゃん」

「そうか?」

「二人分は無理だなぁ。買い物行こうか」

「もう少し後で良いよ」

 かずらは電子レンジ群から目を逸らさずに言った。

「今はもうちょっとこれを見てたい。おまえが腹減ってるなら勝手に食 え」

「別にいいよ、待つよ」

 かずらの横に着座した入子は、今度は電子レンジではなくかずらの横 顔を眺め始めた。

「何だよ」

「いや、空っぽか確かめたくて」

「目に見える話をしてる訳じゃない」

「そうだけど、人の内面はどういう形であれ見た目に出るよ。人間外見 だからね」

「大した外見でなくて申し訳ないね」

 それから二十分程、入子はかずらを見詰め、かずらは電子レンジを見詰めていた。もし電子レンジが入子を見ていたら、それは完璧な視線の トライアングルだった。

「そろそろ腹減ってきたな」

「私も。買い物行こうよ」

「そうだな」

 二人は同時に立ち上がり、スーパーに向かった。

 道すがら、下校中と思われる柚ヶ丘中学の学生が、擦れ違う度に入子 を見てひそひそと何か言っていたが、入子は気付いていないかのように、 或いは彼らの存在を認知していないように歩き続けた。

 こいつは勘違いしているかもな、とかずらは思った。学校の連中は入 子を認識している。ただ入子が認識されていると認識していないだけで はないか。家族にしたってそうだ。こいつは『不要品』などではないか もしれない。

 不要な人間なんか居ない、と主張したい訳ではない。事実、世の中に はそういう人種も少なからず存在するだろう。だが入子に関しては、生 きる必要性があると思われた。

 だがそれも、入子自身がそう認識しなければ、全く意味が無い。

 買い物は入子に任せた。財布を渡すだけ渡してかずらはスーパー入り 口の喫煙所で煙草を吸っていた。アパートに戻ると、入子がビニール袋 の底からマカロニの入った袋を取り出した。

「クリームソース好き?」

「普通に」

「良かった。じゃあキッチン借りるよ」

 入子は制服のままシンクでほうれん草を洗い始めた。かずらは気にせ ず、また煙草を吸いながら電子レンジを眺めた。

 ふと思い出して、十八番目から携帯電話を取り出す。着信も無ければ メールも無かった。かずらは携帯を二十番目に入れた。

「出来たよー」

 入子が珍しく間延びした声をあげた。マカロニと野菜をクリームソー スで和えた物で、なかなか良い香りがした。

 テーブルに向かい合って座り、二人で食べ始める。

「美味いな」

「ホント? 良かった」

「で、今日は何時に帰るんだ?」

「食べ終えてお皿洗ったら帰るよ」

「分かった」

 二人は熱い料理を冷ましながらちびちびと食べ終えた。かずらは若干の猫舌だったので、入子より食べるのが遅いくらいだった。

「ねえ、もっと増やす?」

 食器を片付けながら入子が言った。

「何の話だ」

「電子レンジ」

「ああ」

 かずらは考えたが、今すぐに答えは出ないように思われた。

「考えとく。飯、ありがとな」

「いつでも作ったげるよ。じゃあね」

 入子が帰った後、かずらはテーブルの前から動かず、マカロニと自分 と電子レンジについて考えを巡らせていた。

 また、完璧な夜が来た。今夜は犬の鳴き声もしない。ベッドに入った かずらは暗闇の中で睡魔を待った。

 その間、入子の事を考えようとしたが何故か上手くいかなかった。 空っぽ、マカロニ、『不要品』、電子レンジ、『墓場』、はじけた何か。 あの老女は何故自分が空っぽだと分かったのだろう。考えてみてもそれは彼女のみぞ知る事であって、かずら本人がどうこう出来る事ではな かった。

 空っぽの自分。深更、こうして睡魔を待っていると、自分の中には本 当に何も無いのだと痛感する。以前は何かがあったように思えたが、そ れが何だったのか思い出せないし、今何も無いのだから現時点でそれを 考えても仕方がない。


 かずらは三週間前のあの日の事を思い出していた。

 昼前に起床し、午後からの授業を受けに大学へ向かった。唯莉や他の 友人に声をかけられ、かずらもそれに応えた。

 だが授業が始まる前に何かがはじけた。教室に向かう渡り廊下を歩い ている時、確かに何かが音もなくはじけた。その瞬間、かずらは自分が 何をしているのか分からなくなり、また何をすべきかも分からなくなっ た。少なくともここに居る意味は無い、と帰結した。彼は教室には行か ず、そのまま家路についた。その最中も自分がえらく混乱しているのを 感じていた。ただし、混乱している自分を上から見下ろす自分も、確か に存在した。世界は相変わらずぶよぶよの膜の中だったし、触れようと も思わなかった。

 人形遣いのようだと、かずらは思った。入子が言ったように、本当の 自分はどこか別の世界に居て、この身体を見えない糸で操っている。

 もし糸が切れたらどうなるだろう?

 かずらは他意無くそう思ったが、所詮は抽象論だ。深く考えた所で答 えは出ない。自分が人形遣いであるなら、せいぜい上手く操って幕が下 りるまで事を運ぶべきだ、と思っている間に眠りに落ちた。

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