片道1時間の小旅行

竹野きのこ

第1話 片道1時間の小旅行

「ランプが付きましたらシートベルトをお外しください」


 頭上から添乗員のアナウンスが聞こえる。家を出てからわずかに1時間ほど。無事に目的地に到着したようで、ほっと胸をなでおろす。


「前の座席の方から順番に、前方のブリーフィングルームの方にゆっくりとお進みください。そこで座席番号と同じ船外服に着がえていただきます。まずズボン、そして上着、最後にヘルメットの順番で身につけます。最後にロックボタンを押せば、自動的に皆様のサイズにぴったり合うように伸縮いたします。そののち私が最終確認をいたしますので、そのまましばらくお待ちください」


 私はアナウンスが終わるよりも前にシートベルトを外す。ずっと締め付けられていたせいもあってか、とにかく体が軽い。私の席は中ほどのDの4。はやる気持ちをおさえ、前方の人から奥に進んでいくのを待つ。今日のツアーは全員で20人程度だろうか。私のように一人きりでの参加という人も少なくなさそうだ。みな一様にそわそわしており、早く外に出たくてたまらないのが伝わってくる。


「自由時間は30分を予定しております。中には羽目を外して、遠くまで行ってしまわれる方もまれにいらっしゃいます。もし時間を過ぎても帰ってこられない場合は、そのままここの住人になっていただきますので、くれぐれもお気をつけください」


 シニカルなアナウンスなどもう頭に入ってこない。船外服はごつごつしているわりには軽く、扱いやすかった。説明の通り、ズボン、上着、ヘルメットの順に着替え、チェックを受ける。――さあいよいよだ。




 二重のエアロックを抜けた先にあったのは、――『地球』。


 その光りかがやく球体が目に入ってきた瞬間、私は思わず立ち止まってしまった。「動けなくなった」と言ってもいい。あまりにも神々しいその姿に圧倒されたのだ。

 「出口付近では立ち止まらないでください」という声で我に返り、そこから一歩踏み出す。――軽い。重力は地球の6分の1。自分の体はまるで自分のものではないようだった。


 距離にして38万キロ。想像もつかないような空間が、私と地球との間に存在している。でも、地球は手を伸ばせば届きそうなほど近くにあった。空気がないせいだろう。地上では一度たりとも感じたことがないほど、くっきりと、そしてはっきりと、その姿をとらえることができた。

 ほかの乗客たちの中には、重力の少なさを堪能するため飛び回っている人もいる。だが多くの乗客は、一様に地球の神々しさに息をのみ、ただそこにたたずんでいた。


 無理もない。これまで見たどの光景よりも、今、視界に映っている青い惑星は美しかった。どこまでもクリアでありながら、同時に幻想的でもある。そんな存在が、つい1時間ほど前に私たちがいたはずの場所なのだ。感慨にひたらないほうが難しい。


 右手をゆっくり……そしてまっすぐに地球に差し出す。その光輝く球体の外周にそって手のひらを傾ける。今にもつかめそうなのに、触ることすらできない。神々しい私たちの母なる惑星。


 ロケットが出るまでの30分間。

 私はその場を一歩も動くことができなかった。

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片道1時間の小旅行 竹野きのこ @TAKENO111

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