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「よく勘違いされるんですけど、私は昔から、ドジでどこか抜けてておっちょこちょい。でも、馬鹿ではないんですよ。だから、魚美さんが先生と付き合ってることも魚美さんが虐待されていたことも知ってました」


 小さいですけど、この街では名の知れてる会社の社長令嬢ですからね、と雨郷は笑った。カラフルなアイシャドウで彩られたその目は相変わらず俺を見つめている。


「まあ、先生と魚美さんが付き合っていたことを知ったのは、私が先生のことをずっと見てたからだっていうのもありますけど。私、先生のこと、好きだったんです」


 ほんの少し恥ずかしそうに呟く彼女の瞳に光はない。俺は、彼女のこんな表情なんて知らなかった。


「だからわかるんです。先生が殺したんだって」


 お待たせしました、と店員がたらこスパゲッティをテーブルに置く。その瞬間、彼女の目がそちらに吸い寄せられるようにして俺から離れた隙に、ふぅ、と張り詰めていた息を吐いた。ふと膝を見ると掌に爪が食い込んでいて、ずっと右手を握りしめていたことに気づく。そして今に至るまで、アイスコーヒーを一滴も飲んでいなかったことにも。

 年頃の少女が成熟した男に惹かれるのはよくあることだ。自分よりも器が広い大人に憧れる。けれど、自分が大人になってみると、やがて、その男も大して大人ではなかったことに気づく。そういうものだ。さらには彼女は虐待を受けていた。彼女はいつだって信用できる大人を求めていた。

 時間が経って水滴がまとわりついているアイスコーヒーを震える手で飲み干し、テーブルに置く。ガン、と思ったよりも大きな音が響き、情けないことにぴくり、と肩が震えた。


「たらこスパゲッティ、好きなんですよねー」


 フォークを手に取って、彼女はスパゲッティをつついている。彼女の首から上がどうしても見れなくて、俺はただただずっとスパゲッティが巻かれてゆく様を見ていた。1度目を離してしまったら、もう彼女の瞳を見ることができない。


「どうして殺したんですか」

「……俺は殺してない」

「嘘!」

「本当だよ」


 雨郷が動きを止めた。美しく巻き取られていたスパゲッティが、はらはらと乱れてゆく。


「俺が彼女を、魚美を、殺すはずないじゃないか」


 そうだ。俺には魚美を殺す動機がない。


「確かに、俺と魚美は付き合っていたよ。でも、それはごく普通の健全な付き合いだったし、俺は彼女を傷つけることをしていない。絶対に」

「絶対に?」

「神に誓って」


 彼女は解けたスパゲッティを少々行儀悪く口に運んだ。まるでラーメンを食べるかのように、麺をすする。


「妊娠させたとか」

「ありえない」

「暴力を奮っていたとか」

「それは彼女の父親だ」


 息を吐いて、俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。彼女との関係に後ろめたいことは何もない、と伝えるように。何十秒経ったのだろう。いや、もしかしたら数分間のことだったのかもしれない。ふと、彼女の目が和らいだ。


「そうですよね。優しい先生が、そんなことするはずないですもんね」

 

 くすりと彼女は微笑んで、今度はお手本のように綺麗にスパゲッティを巻き上げ、口に含んだ。

 今の俺の受け答えのどこかに、何か確信できる要素があったのだろう。正直、ゾッとした。俺が魚美を殺していないことは自分のことなのだからわかるが、他人から見れば確かに俺が1番怪しい人物なのかもしれない。痴情のもつれ。教師と生徒の禁断の恋愛。


「先生は、どうして魚美さんと付き合うことになったんですか」


 彼女の声から、俺を押しつぶすような圧力が消えた。会話を楽しみましょう、と言っているのだろう。その気軽な問いかけに素直に従っていいものか、と躊躇ったが、何処か有無を言わさぬ笑顔に、俺は口を開いた。


「俺は当時、自殺志願者のサイトの運営者だったんだ。今はやってないけど」

「悪趣味ですね」


 咎めるような視線を受けて、俺はため息をつく。自分でもわかっていた。だが、それが俺のストレス発散の方法だったのだ。自殺志願者の書き込みを見て、自分がどれだけ幸せかを再確認する。そんな薄汚れた欲望から、俺はサイトを運営していた。


「そんなある日、偶然、コンピュータ室で魚美がそのサイトに出入りしていることに気づいた。『ヒトミ』という名前で彼女は一緒に自殺をしてくれる人を探していたんだ」


 まさか、学校の生徒がそのサイトに書き込みをしているとは思っていなかったので、魚美が書き込みをしているところを見たときは驚いた。

 

「俺は頃合いを見て、彼女に話しかけた。もちろん、自分が自殺サイトの運営者だということは隠してね。最初はやんわりと『虐待されているんだろう?』と訊ねたから随分警戒されていたけど、何度も何度も関係ない話題を出したり声掛けをしていくうちに打ち解けて、彼女は色々と話してくれるようになって……」


 彼女がねっとりとした視線でこちらを見ていることに気づいた。何故だかにやにやとしている。なんだ? と思って首を傾げると、なんでもない、続けて、と言った。


「……それで仲良くなって、付き合い始めたんだ。俺は彼女を守りたくて、家から出てはどうかと提案した。彼女もそれに賛成して、あの日は荷物を持って俺の家に来るはずだったんだ。いつも逢引していたあの公園で。でも、試験の採点で仕事が長引いてしまって、約束の時間よりも遅めに行ったら、彼女はそこにいなかったんだ。魚美はそれからずっと行方不明のままだ」


 そこまで口にしたところで、嗚呼そうか、と心の中で呟いた。状況的に見れば、俺がやはり1番怪しい人物なのだ。


「なるほど。つまりはそのときから彼女とは会っていない、と」

「……そうだ」


 頷くと雨郷は腕を組み、う~んと唸り始めた。


「ということはやっぱり、先生が人魚を殺したわけじゃないのかぁ」

「……さっきからそう言っているだろう」

「まあそうですよね。じゃあ、やっぱり……」


 再び自分の中で黙考し始める。俺はその隙にコーヒーに手を伸ばした。冷たい感触が喉を通り過ぎてゆく瞬間、ふと疑問が浮かんでくる。


「……なぁ、雨郷」

「はい、なんですか」


 雨郷が顔を上げる。


「なんでお前は、犯人を探しているんだ」


 人魚は6年前に消えた。泡となり、海のどこかへ消えた彼女の記憶は、俺の中で風化して、すでに原型をとどめていない。骨が見つかったことで、誰かに殺されたのかと推測することはあっても、そこに激情はなかった。それに、そのうち警察が犯人を見つけるだろうから、自分から行動を起こさなくてもいいんじゃないか。


「あっ、そっか」


 雨郷は口元に手を当て、上の方を見つめる。上手い言い訳を考えようとしている子供のようだった。


「6年も経てば思い出は風化してしまいますから。でもね。私の中で、彼女は特別な存在で。だって、あんな美しい人魚のことなんて忘れられるはずないですよね」


 先生は薄情な人なんですね。くすくすと雨郷が笑う。


「それに、人魚を地に埋めたのは他でもない私なんですよ」

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