月夜はひとりの散歩

尾八原ジュージ

月夜はひとりの散歩

 他愛のない日常を送っているうちに、時々頭の中に澱が溜まるような気がしてくる。そんなとき、私は夜中こっそり散歩に行く。それは誰ともお誘い合わせの上でない、足並みを揃える必要のない、ひとりぼっちの散歩でないといけない。

 月が明るい夜、月光の冷たい熱に負けて窓ガラスがこっそり溶けていることを、ほとんどの人間は知らない。眠っている家族をよそに、私は溶けたガラスの穴を通ってそっと外に繰り出す。

 夜風が耳を撫でる。まばらな街灯の下をトラックが走っていく。きっと私の知らない遠い所へ行くんだろうなと思いながら、私はベランダの手すりに足をかけ、そこからお隣の屋根の上に飛び移ると、人も車も通らないところでのんびりと散歩を始める。特に行く場所は決めていない。ひとりぼっちの気楽さで、私は気の向いた方に屋根を渡ってどんどん歩いていく。

 一際目立つ十字架のついた三角屋根は、キリスト教系の幼稚園の園舎だ。日中はさぞ賑やかだろう園庭には人っ子一人いない。誰も乗っていないブランコがひとつ揺れているのは、ブランコ自体が昼間のことを思い出しているからだろう。私は少し勢いをつけて、園舎の屋根から道路の向こうの民家へと飛ぶ。

 お寺の大きなケヤキの枝には、自分の名前すらも忘れてしまったらしい幽霊の切れっぱしがいくつも引っ掛かっている。彼らは彼らでああしているのが気楽なのかもしれないと思いながら、私はその傍を通り過ぎる。子供のものらしい小さな右手がそっと伸びてきて、少しだけ私に触れる。

 四階建てのマンションの屋根は平たくて歩きやすい。軽快に足を進めていると、向こうからすらりとした影が近づいてくる。お仲間だ。

「こんばんは」

 すれ違いながら、彼女は少しハスキーな声で私に挨拶をする。

「こんばんは」

 私も挨拶を返して別れる。お互いひとりぼっちを満喫しているのだから、これ以上のおしゃべりは不要のものだ。

 西の方角から救急車のサイレンが近づいてくる。少し足を止めて下を眺めていると、赤い光がけたたましい音をたてながら東へと通り過ぎていく。どんなに静かな月の夜でも、起きている人はどこかに必ずいるものだ。

 そういえばさっきのトラックは、どこまで走っただろうかと私は思い出す。遠い土地へ行くのだとして、そこには何があるのだろうか。暖かいのか、それとも雪が残っているのか。山に囲まれたところかもしれないし、すぐ近くに海が見えるのかもしれない。

 知らない場所のことを考え始めると、何だか急に我が家が恋しくなる。そして私は、頭の中の澱のようなものが、いつの間にか消えていることに気付く。


 元来た道をたどり、窓ガラスの穴から室内に戻った私は、眠っている家族の額を鼻先で何度も突く。

「うーん……ああ、とらちゃんか……入る?」

 彼女は寝ぼけ眼で布団の端を上げる。

 私は「にゃん」と一声鳴いて布団の中に潜り込み、丸くなってゴロゴロと喉を鳴らす。

 そして人間のように朝まで眠る。

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月夜はひとりの散歩 尾八原ジュージ @zi-yon

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