白月

佐倉奈津(蜜柑桜)

白月

 季節が入り乱れ、まだ神話が信じられていた時代。

 北に女神の住まう土地を有するといわれる大陸の隅に、義を重んじ友を愛する国があった。

 半島の先端に位置する王都では、光降り注が昼には木々の緑が映え、白波が陽を浴びて珠のごとく眩い。海を漕ぎ出す漁師たちは、意気揚々と帆を張って、地図にもない水平線の向こうを夢見ては、今日も船を波に乗せる。

 海を臨む高台には国を統べる国王の居城が立ち、珊瑚礁の色が鮮やかに映える水面を、白亜の尖塔から見張り番が見下ろす。



 日も暮れて時が経ち、城下街の賑わいもとうに静まって皆が眠りにつく頃である。城の中層階に並ぶ部屋のうち、まだなお灯火が消えない部屋があった。

 夜になっても気温の温かい春である。窓は開けられ、中では一人の青年が小さな照明の灯る机に書物を広げ、その黒鳶くろとび色の瞳が注意深く文字を追っていた——歴史上の病理をまとめた医学書である。

 書物はもう終わりに近い。青年は瞼を閉じ、漆黒の髪をくしゃりと無造作に掴む。ふっと目を閉じてそのまま、書物を奥へ押しやった。


「駄目だ。ここにもない」


 ぽつりと出た言葉に含まれるのは、落胆と葛藤。城の主を救う手立ては、歴史の中にもないのか。


 王妃が世を去って間もなく、最愛の人を亡くした苦しみは、国王の心だけでなく体をも蝕んだ。常に気丈だった賢王は床に伏す日が多くなり、体力は衰えていくばかりになった。

 さらにこの世界の変転する季節が追い討ちをかけ、王はいまや、起き上がることさえ苦痛を伴うようになってしまった。


 医師はみな揃ってこの病に頭を抱えた。現在の医学では全く治療法が思いつかない難病である。長い時をかけて積み上げられてきた知の中に、国王が再び以前のような英気を取り戻す術はないものかと、青年は日々この書庫に通い、小さな灯火の下で書の頁を捲ってきたのである。しかし、いまだこれという策は見つかっていない。


 うっすらと目を開け、首を回す。窓から入った夜風が薄い窓覆いの布をふわりと浮かび上がらせ、室内を巡って青年の顔を撫でた。潮を含む海街の風だ。金でできた窓枠は月光を反射し、暗い夜空には白銀の満月が輝いている。

 明るい月に誘われたのか、夜風に乗って海猫が飛翔し、時折り白い輝きを遮る。一見、悠々と飛ぶように見える。しかし青年には、その羽の動きに陽気さは感じられない。

 高いところで海猫の鳴き交わす声を、青年の敏感な耳が捉える。なぜだろうか。そこにはどこか、気遣わしげな響きが含まれていた。


 ——誰かを、心配しているのか?


 悲しげなひと鳴きが、夜風を突き抜けて青年に訴える。


 青年は書物を閉じ、椅子から立ち上がった。


 書庫を出て人気のない城の廊下を進む。珊瑚礁の海はいまや濃い藍に色を変え、月光と星あかりが海面を照らし出していた。微風に漣が立ち、水面みなもに映る月が揺れる。

 青年は城の中を上へと上がり、最上階の廊に辿り着いた。そして足音密やかに歩を進めるうち、青年の鋭敏な耳に、潮騒の規則的な律動を崩す微かな音が入ってくる。

 哀しく咽び泣く、小さな声。青年のよく知る声だった。


 それは廊下に並ぶ部屋の一つ、僅かに開いた扉の隙間から溢れてきていた。大人というにはまだ高く、しかし幼さを感じさせるほどあどけなくもない。

 扉の間からそっと覗き見ると、青年と同じ年頃の少女が寝台の上で身を固くし、己で己の身体を抱いていた。小さな声がしゃくりあげるのに合わせ、雌黄色の長い髪を垂らした肩が小刻みに震えている。


 青年は瞳を細く歪め、その背中を見つめて唇を噛んだ。


 王女を襲う孤独。病の父王と離別する恐怖。青年が仕えるこの国の王女を、未知の不安と哀しみが襲う。次に国の上に立つべき王位継承者という地位は、彼女の華奢な両肩にはあまりにも重い。


 青年は息を詰め、なにかを取り払うように吐くと、扉を軽く叩いた。


「ラピス様?」


 青年の声に、王女の体がぴくりと反応する。柔らかな髪ははらりと揺れ、色の白い顔がこちらを向いた。


「クエルクス?」


 青年を認めた瑠璃色の瞳が一瞬大きく見開いたが、しかしすぐに細められて笑みの形を作る。王女は即座に両肩を掴んだ手を解いて寝台に座り直すと、青年を手招きして尋ねた。


「どうしたの、こんな遅くに」


 まるでなんでもないような声音で、笑いさえ滲ませて問う。青年が見たものを無かったことに思わせるほどに。

 その声が、青年には苦しい。無意識に、口を開くまでに間が出来る。


「……書庫に、行っていました」

「また勉強していたの? あまり無理しちゃ駄目よ。いくらクエルでも体に障るわ」


 王女の声は鈴のように明るい。こちらを気遣う微笑みの中には、常と同じくいまも優しさが満ちている。


 しかし青年は、その笑みに隠した彼女の弱さを知っている。

 白い頬に跡を残した涙の理由わけを知っている。


 城の一つ一つの部屋を眺めながら飛翔する海猫の心細げな鳴き声が、青年に語り、伝えた。


 自分に慈しみの言葉をかける少女の細い肩に乗るものを、自分が払ってやれるならどんなにいいか。

 せめて人知れず恐れる身体に腕を伸ばし、その震えを止めてやれたらどんなにいいか。

 瞳から落ちるものを隠すことなく、喉を塞ぐ思いを委ねて欲しいのに。


 窓から入り込む潮騒が、沈黙を埋める。

 青年は腰を落とし、少女の方へ手を差し出した。

 しかし、瞳に光る珠を拭おうと伸ばした指は宙で止まった。


 気丈に胸を張り、己の力で立とうという気高き姿を、傷つける権利が誰にあるだろう。

 その裏にある全てを受け止めたいと思うのは、きっと我欲に他ならない。従者である自分にそれが許されようはずもない。しかし——


 青年は少女の目の高さに上げた手を静かに下ろした。そして代わりに、そっと膝に置いた彼女の手を取る。

 細い指を包み込み、こちらをじっと見る瞳を見上げた。


「呼んでください」

「え?」

「いつでもおそばに参ります。ですから今日みたいな日は、僕を呼んでください」


 どうかもう、独りで耐えないで。


「ええ? なあにいきなり。どうして?」


 黒鳶の深い色を、瑠璃色の瞳に映す。

 理由など、言える身分ではないはずだ。

 だがそれは幾度となく思い、胸の内で数えきれないほど繰り返してきたものだ。


「それは——」


 白月の澄んだ光が夜空を照らし、波に揺れる。


 ——貴女が僕には、最も尊いから


 いまは口に出せない言葉は、いつか伝わるだろうか。


 どうか涙に曇ることなく、偽りでない笑顔が続きますよう。


 闇夜に広がる神聖な輝きに、いま一度誓う。


 いまは凪ぐ海の波がいずれ嵐を連れてこようと、けして彼女の笑顔を失わせまいと。



 ——「白月」了


 長編ファンタジー『楽園の果実』

 物語の前のいつかのお話です。

 本編はこちらです。


 https://kakuyomu.jp/works/1177354054894170460



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白月 佐倉奈津(蜜柑桜) @Mican-Sakura

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