第5話 クールな美女が詰め寄ってくる

 なんとなく言葉を発せない気まずい空気の中で、三分のタイマーが音を立てた。俺のうどんは五分待たなくてはならないのでもう少し先だ。


「お先にいただきます」

「どうぞ」


 飲み物を用意していなかったのでキッチンの棚からコップを取り出し、冷蔵庫の中から牛乳や常備されている麦茶を選んだ。李衣菜が食べている横でコップに麦茶を注ぎ、彼女の食べているカップのすぐ横に置く。李衣菜が食べながら「ありがとう」と言おうとしてむせる。呆れた視線を向けると、恥ずかしそうに目を伏せた。


「おいしいわ」

「さすがはカップラーメンだな」

「……そうね。人の家で食べてるってのも関係してる気がするのよね」

「かもな」


 話題が途切れ途切れになるのでテレビをつけた。ニュースキャスターが満面の笑みで夏へ向かっていく気候を解説していく。幾分爽やかに見えるものの、これから始める泥臭い暑さを思うとマイナス方向の感情しか湧かなかった。


 隣でラーメンをすする音が聞こえる。タイマーが五分の経過を告げた。


 うどんのふたを開けると柔らかな香りと共に蒸気が顔を直撃した。腹が鳴る。「いただきます」と小さく呟いてからうどんをすすった。


「なかなかない経験をしているわね」

「そうか?」


 俺からしたら確かにかなり稀有な経験をしているのかもしれないが。まあ、人の家に無理やりいって何もなく翌日まで過ごすというのも稀有な経験なのかもしれないが。


「私たちまだ付き合ってもないのよ?」

「まず好きだとかそんな話も出てねえだろ」

「………ふふ、そうね」


 一人暮らしだと小さくても聞こえたテレビの音が、誰かと話しているだけで途端に静かに感じる。遠くの方でお天気お姉さんが話しているのを右から左に聞き流した。


「私は君のこと、好きよ」

「………そうかい」


 なんとなく察していたことだとはいえ、直接的に言われると実感が湧かない。何せ相手は俺の中で半ば偶像と化していたような秋原李衣菜なのだから。アイドルがファンサをしているような、それを傍から見守っていたら自分に向いてきたような、そんな気分だった。


 ちょうどよくテレビも無音の時間となり、小さな沈黙が食卓を包んだ。


 テレビで音楽が流れ始めて、それを皮切りに言葉を発する。


「俺のことが好きでもいいこと何もないが」

「だから何よ。貴方のことが好きなの」


 大して照れるでもなく『好き』という言葉だけが重ねられていく。彼女の中の羞恥のスイッチは良く分からない。


 李衣菜の表情を見ていれば、重みが無いだなんて言えるわけがない。自分の中で処理しきれずキャパオーバーな文字が、空中に泳いだまま消えて行ってくれないだけだ。


「ねえ、律樹って呼んでもいい?」

「……好きにすれば」

「じゃあ私のことは李衣菜って呼んでほしいわ」

「……お望みとあらば」


 距離の詰め方が雑だ。こちら側への配慮というものが何もない。自分の存在の破壊力を理解していないのだろう。


「律樹くん。律樹くんは私のことどう思ってるの?」

「今までは秋原……李衣菜の存在が遠すぎて、自分がお前のことをどう思ってるかだなんてことは考えたことはなかったな」


 恋愛というのはつくづく良く分からない。前に恋人がいたときも、相手から押し切られただけで自分から何かをすることはなかった。結果それを理由に振られたのだが。

 まぁだからこそ、自分からしたら「嵐が来て去った」程度の認識になってしまったのは仕方がないのかもしれない。


 人へ歩み寄る、というのは案外に難しかったりする。自分にどういった感情が向けられていて、自分はそれにどう応えたいのか。


「別に嫌いではない。その程度だろうな」

「律樹くんが素直でよかった。こういう時に好きでもないのに好きって言われても嫌だから嬉しいわ………。好きなってもらえるように頑張るから、覚悟してて」

「……おう」


 自分に好意が向けられているというのはむず痒く感じる部分もある。気恥ずかしさにも似た、胸の奥が擽られるような感覚。


 頬に熱が露わになってしまいそうで、意識を切り替える。李衣菜に言われた隙を見せないというのは、こういうところを言っていたのだろう。


「にしても、なんでこんな急に行動起こしたんだ?」

「……私が恋愛相談を友達にしたのよ。そしたら、今度律樹くんが飲み会行くっていうからアプローチ掛けてみたらどうかって」

「……あいつらも一枚噛んでたんだな」


 どう頑張っても李衣菜を連れてこうとしなかったのはそういう理由があったようだ。友人をほっといて二次会にみんなで行くなど薄情だと思っていたのだが、実際には友人への気遣いが過剰になり過ぎただけらしい。


「かなり強引だったな」

「既成事実を作ろうっていう話になったのね」

「だから色々頭がおかしいこと言ってたんだな」


 一緒に寝ようだの、その他諸々のこちらの精神をガリガリと削っていくような言葉を。李衣菜は李衣菜で目論見があって、俺の預かり知らぬところで俺との闘争が始まっていたと。どうにも笑えない。


「……今からでも遅くないかな」

「何言ってんだ。感情に整理がついてない奴と目合まぐわっても意味がないだろ」

「私が嬉しいし、律樹くんが私から離れられなくなるわね。既成事実が出来上がっちゃってるんだもの。そう簡単には捨てられなくなるわよ」


 本当に、李衣菜は自分の容姿の良さを理解したほうがいい。彼女が少し頬を紅潮させて目を淑やかに輝かせるだけで男なんて簡単に落とせる。


 実際に自分に向けられるものとなってしまうと、どうにも抗いがたい。しかし、そう簡単に恋愛に踏み切れてしまうと思われるのも嫌で、自分の心を落ち着かせようと必死になってしまう。


「ねえ、どう……?」


 彼女の艶めかしい素肌から視線が外せなくなって、自然と息が詰まる。それの乗じて李衣菜は距離を詰めてきた。


 組んだ足に彼女の柔らかい体重がのしかかってくるたびに、危ない思いに心が揺れる。どうにもこうにも自分に嘘が付けなくなってしまった。


「準備は?」

「万全。ちゃんとゴムがあるわ」


 バッグの中からちらりと箱を見せられる。久しく目にすることがなかったそれに不思議な感慨を抱きつつ、李衣菜の頬に手を伸ばす。


「……後悔は?」

「しないわよ」


 彼女の肩に頭を乗せながら問うと、誇らしげに彼女は言った。何があっても後悔することがないのだと自信を持っているようにも見えた。


 抱き着いてくるその体を抱きかかえて、寝室に向かう。

 彼女の熱っぽいその体をベッドに優しく下ろした。

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