陰の2

 亜矢子がその青年に初めて会ったのは、一年ほど前の事だった。

 当時彼は某私立大学の工学部に通う大学四年生。

 名前を吉井保よしい・たもつ。一浪して入学していたので、年齢は当時22歳になったばかりだったという。

 亜矢子は勤めていたスーパーで、パートとして4年以上働いており、その勤勉ぶりが評価され、食料品売り場の副主任の仕事に就いていた。

 アルバイトとして入って来た保青年は、大学に入ったばかりの長男とは四つほどしか年が違わない。

 言ってみれば息子みたいなものである。

 彼はちょっと内気で無口な青年だったが、仕事も真面目にやるし、休憩時間などが一緒になると、時々話をして、決して悪い印象は持たなかったという。


『・・・・吉井君が入って来てから三か月ほどした頃でした』

 ある日の休憩時間、たまたま二人きりになった時、吉井青年が、

『自分と一度デートをして欲しい』と頼み込んで来たという。

 亜矢子は最初耳を疑った。

 いくら何でも、自分の息子と殆ど変わらないくらいの青年からそんな言葉をかけられるなんて、思ってもいなかったからである。

”しかしこれだけ年が離れてるんだから、間違いなんて起こらないだろう”

 彼女はそう思った。

 流石に当日直ぐという訳には行かなかったが、一週間後に夫が仕事の都合で関西に出張しなければならなくなり、彼女も丁度休みが取れたので、子供達には晩御飯までには帰るからと言い置いて、彼のデートに応じた。

 デートとはいっても、その時は一緒に銀座で映画を観てから昼食を摂り、そのまま帰って来た。

 翌日職場に行くと、彼が再びデートに誘った。

 そして五日後、再びデートに応じた。

 夫や子供には”学生時代の女友達と会う”と言っておいた。

”何もやましいことをするわけじゃないんだから、大丈夫だわ”

 そう思ったのだが、それが浅はかであった。彼女は俯いて肩を落とした。

 丁度日曜だったので、彼女はほんの少しだが、昼間から勧められるままに酒を呑んだ。

 そして公園のベンチに座って休んでいた時、保がいきなり彼女の手を握り、

”僕、小出さんが好きなんです”

 突然の愛の告白だった。

 からかわれていると思い、笑って誤魔化そうとしたが、彼は真剣に彼女を求め、遂に唇を許してしまったのである。

 その時はそれだけで済み、そのまま気まずく別れ、彼女は帰宅した。

 しかし、帰宅してからも、あの彼の情熱的な言葉と、そのキスの感覚は、亜矢子を甘やかな気持ちの中に誘った。

 

 夫とは父親の知人の勧めで結婚した、見合い結婚である。

 そのまま子供が生まれ、彼女もごく平凡だが、一応幸福と言える生活を送ってきたと思っていた。

 それが40の半ばを過ぎてから、突然20歳以上も年の離れた若い男性からこんな情熱的な誘いを受けたのである。

 舞い上がるなという方が無理な相談であろう。

 翌日職場で彼に会っても、何となく落ち着かなかったが、それでも表面上は職場の上司とバイトという関係は崩さずにいたが、彼はまた再び誘ってきた。

 もう歯止めは利かなかった。

 肉体的に結ばれたのは、それから間もなく、仕事が終わった後、二人で渋谷のラブホテルに入った。

 

”これが、不倫?”

 彼女はそう思ったが、保の稚拙だが情熱的な行為に、彼女はすっかり翻弄されてしまった。

 頭の中は空っぽで、夫の事、子供たちの事、何も浮かばない。

 夢のようなひと時を過ごしたが、終った後、やはり心の中に、

“とうとう、してしまった”という、後悔とも、罪悪感ともつかぬ思いが浮かんできた。

『それからは、もう半分やけになっていました』

 彼女は二杯目のコーヒーを頼み、また続けた。

 別に家庭に不満があった訳ではない。

 ただ、情熱に負けた。

 そうとしか言いようがなく、彼から誘われるままに、飽きることなく人目を盗んで愛欲の日々に溺れたという。

 だがしかし、彼女も濃密な時間が終わると、ただの妻であり、母親だ。

 次第にいつかは露見すると思うと、恐ろしくなっていった。

 

 

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