[短編] 天象儀

桃彩(ももせ)

進道真歩『希望』

 真歩まほが歌い始めた。

 私は、真歩の前に演奏をしたバンドが残した熱気のせいで息が苦しくなっていたが、真歩の歌声に持ち上げられて呼吸が少し楽になったように感じた。

 音楽に合わせて照明が輝くステージには真歩だけが立っていて、歌っている。500人のキャパシティのライブハウスに450人ほどの観客が収容され、その全てが小柄な真歩を見上げ、柔らかな表情で見つめている。私もその一人。久しぶりに聴いた真歩の歌はすっかりプロの世界に馴染んだものになっていた。

  「初めましての人は初めまして、高校3年の真歩です!今日は友達が来てくれているので緊張しています……」

 歌い終え、拍手が止むと、真歩ははにかみながら挨拶をした。私は緊張しながら真歩のことをじっと見つめていたが、目が合うことはなかった。

 「次は弾き語りで、新曲の『希望』、やります!」

 出番を終えたバンドメンバーの一人が椅子を用意し、別の一人がアコースティックギターを真歩に手渡した。小柄な真歩の身体に大きなアコースティックギターが自然に収まる。

 真歩がギターを弾けることを知ってはいたが、その演奏を聴いたことはなかった。これからそれを聴くことになると思うと、なぜだか息が苦しくなった。私は咄嗟に、ドリンクチケットと引き換えた味の薄まったコーラを飲み干した。腹部が若干冷やされ、頭がクリアになるのを感じたが、息はしづらいままだった。

 ざわつくライブハウスでギターのチューニングをする真歩を見たが、やはり目が合う気配はなかったのですぐに視線を外した。

  「すみません、すみません……」

 気分が悪くなった私は観客を掻き分け、コーラが入っていた、ぬるくなったプラスチックカップを捨ててライブハウスを後にした。さすがに1月の東京の気温は低く、ライブハウスの温度が名残惜しくなった。




 その夜、真歩からメッセージが届いた。


  『今日は来てくれてありがとうね。直接お礼言いたかったんだけどな〜』

  『ごめんごめん』『真歩の出番が終わってすぐ帰って来ちゃった』『それより、すっごく良かったよ!感動した!私なんかとは違うなーって思った!』

  『なにそれ!でも嬉しい!ありがと〜!』『根気よく誘い続けて良かったよ〜笑』


 私と真歩は小学生からの付き合いだ。

 小学生のころに合唱部に所属していた真歩は中学に上がるとボーカル教室に通い始めた。私はなんとなく厳しくない運動部を探し、バレーボール部に入った。卒業すると、真歩は音学科のある高校へ進み、私は学力に合った高校へ進学した。


  『ねえねえ、次は4月にライブやるから来てよ!』『初のワンマンライブ!絶対成功させたいんだ〜!!』

  『すごい!もちろん行くよ!』


 私は送信をしてそのまま眠った。









  「お、ブスがきたぞ」

 クラスの男子が笑った。私は集まる視線を無視して席に着き、持ってきた小説を読み始めた。

 私にとって読書は好きだからするものではなく、単に外部と関わらないための手段の一つだった。小説を面白いと思ったことは無く、自分が書いた方がいくらかマシなのではないかとさえ感じていた。

 肉体的な攻撃を受けているわけではなく、ただ単に好かれていない私にとっては外部以外のものに集中することが最善の手立てなのだ。

 背中の痣を左手で撫でながら、現実の世界に希望がないことを再確認する。

 ふと、真歩が弾き語りで披露しようとしていた曲のタイトルが『希望』だったことを思いだした。どんな曲だったのだろう。本当は聴きたかった。でも怖くなったんだ。

 ステージに立つ真歩は凄くて、ステージを見つめる私は凄くない。真歩は与える人で、私は与えられる人。私には、何もない。それがはっきりしたのがあのライブだった。

 いや、それは元々分かりきっていたことで、だから私は高校に入ってから受けるようになった真歩からの誘いを適当な理由をつけて断ってきたんだ。

 高校生活の終わりにと真歩のライブに足を運んだことをひどく後悔した。

 希望なんてないじゃないか。高校を卒業して大学生になっても、私は今まで通りに日々をこなしていくだけだ。









 父はよく酒を飲み、私とママを殴った。ママは弱く、いつも泣いているだけだった。

 4月になると新型の感染症が流行り、その対策として父の働く会社はリモートワークを取り入れ、私が通う予定だった大学はオンライン授業になった。

 外で酒を飲んでいた父が家で飲むようになった結果、家族のトラブルは以前よりも増えた。

 今日も父は家で酒を飲み、怒鳴り散らかしていた。ただ、いつもは泣いているだけのママの様子が、今日は少し違っていた。

  「もうやめて……」

 それはママがみせた初めての抵抗だった。私は少し驚いたが、案の定、父は余計に逆上してしまったので、やめてくれと思った。

 父は飲みかけの缶ビールをママに投げつけ、怯えるママの腹部を殴った。それから、うずくまるママをしばらく見下ろすと振り返り、その光景をぼんやりと眺めていた私に近づいてきた。私はそのまま呆然と父を眺めていた。

 ああ、今のはママが悪い。私からすれば良い迷惑である。外部に影響を与えようとすることは最善の手立てではない。現状を、いわば与えられた環境を、受け入れてやり過ごすことが一番楽なのだ。希望なんてないのだから。


  「次は弾き語りで、新曲の『希望』、やります!」

 私は父に殴られながら真歩のことを思っていた。

 真歩は小学生の頃から歌が上手く、私はいつもそれを褒めていた。真歩も私の何かを褒めていた気がするが、それは単なるお返しでしかなかったように思う。

 中学に上がると真歩は「私歌手になる!」と言い、それに向かって努力を怠らなかった。私には夢を見られるような才能がなかったので、私にとっては真歩が違う世界の人のようにしか感じられなくなっていった。

 首を絞められ、遠のいていく意識のなかで、真歩の後ろ姿を思い浮かべていた。


   「もうやめて!」

 女の叫び声の後、私に覆い被さり首を絞めていた父の腕の力が無くなり、父は私に身をゆだねて小さくうめき声を上げていた。父の重みと同時に腹部に不快な温もりを感じた。私の白い服が強烈な赤色でじんわりと染められていく。

 私は状況を理解すると思い切り酸素を取り込み、それから、解放されたことを感じて泣いた。

 父が、いなくなる。安堵でしかなかったものが、だんだんと確かな喜びへと変わる。

 ママは座り込み、焦点の合っていない瞳で赤黒い血液が先端から柄までついた包丁を見つめ、手を震わせながら泣いていた。

 その姿が、私には希望の象徴のように輝いて見えていた。

 私は重たい父をよけてスマートフォンを取り出した。検索サイトを開き、『新道真歩 希望』と検索する。インターネット上でその音源が公開されていないことを知り、がっかりした。

『次のライブ、絶対行くね』そう真歩に送り、呼吸が落ちついたころに、ようやく警察に通報をした。









 父は入院し、母は逮捕された。とりあえず、私は神奈川にある母方の祖母の家に住むことになった。 

  「辛いね。大丈夫だよ」

 祖母は私にいつもそう語りかけてくる。が、私には意味が分からなかった。

  「ほんと、親不孝な娘だよ」

 「親不孝な娘」が祖母にとっての娘、つまり私の母であることを理解するのには少し時間がかかった。

 私は味の薄い祖母の料理にこっそりと塩をかけて食べている。こんなことをするのは自分でも意外なのだが、この行為は料理を美味しく食べるという目的以上に私の心を満たすのだった。

 食事以外の時間は基本的に与えられた部屋にこもり、オンライン授業と読書をこなしていた。

 今日もオンライン授業を終え、小説を読み始めたが、やはりその世界に集中することはできなかった。あの日に母が生んだ、現実の希望が忘れられない。

 早く真歩のライブに行きたい。そう思っていると、私の気持ちを見透かしたように真歩から連絡が来た。

  『伝えるの遅くなっちゃったんだけど、ライブ中止になった。ごめん。』

 確かに、よく考えればこの可能性は十分にあった。今、新型の感染症の流行によってライブイベントが軒並み中止になっていることを知っていた。求める気持ちが強く、冷静さを欠いてしまっていたことを反省した。

  『そっか、残念。』『もし良かったら、今度私のためにオンラインライブやってくれない?久しぶりに真歩と話もしたいし。』

 これが冷静な判断だとは思わないが、どうしても聴きたかった。

  『オンラインライブ……』

 やはり変に思われただろうか。画面を見つめ次のメッセージを待っていると、真歩から電話がかかってきた。さすがにうろたえたが、深く息を吐き、思い切って電話に出た。画面にはアコースティックギターを抱えた真歩が映っている。

  「もしもーし!久しぶりー!」

  「もしもし」

 4年ぶりの真歩との、声と声での会話だ。

  「オンラインライブ、ナイスアイデア!」

  「急に電話きてびっくりした……」

  「亜美あみもビデオオンにしてよー!」

  「恥ずかしいなあ」

 無邪気な調子の真歩にのせられてビデオをオンにする。

  「あー、やっぱり亜美って美人!」

 美人などと言われたのは中学生のとき以来だった。あの頃も真歩は私を美人だと言っていた。

  「そんなこと、ないよ」

  「亜美は大学?どこいったの?将来はどうするの?」

  「○○大学。将来のこととかは、まだ分かんない……」

  「そっか。小説とか、書いてないの?」

  「……小説?」

 そういえば私、物語を書くのが好きだったっけ。真歩はいつもそれを褒めてくれていたっけ。

 画面の中の真歩が過去の私をゆっくりと思い出させる。

  「私ねー、亜美は小説家だって、今でも思ってるよ!」

  「やめてよ、そんな才能ないよ」

 自分の心がざわついているのを感じる。私の声は真歩に届いているだろうか。

  「やってみなきゃ分かんないじゃんー」

 真歩が言うならそうなのかもしれないと思えてくる。自分の内側で何かが温かくなっているのが分かる。

  「ねえ、演奏してよ。私、『希望』が聴きたい」

  「む、オッケー……」

 ギターのチューニングをしている真歩を見ていたら目が合った。お互い自然に笑いあっていた。

 手を繋いで一緒に歌っていた、あの頃を思い出した。

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[短編] 天象儀 桃彩(ももせ) @momomo_se

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