推しと共に生きる女

陽澄すずめ

推しと共に生きる女

『おはよう、レディ。今日も麗しい朝だね。おや、まだ眠いのかい? 寝顔も愛おしいな。ここは私の口付けで——』


「ンンンゥゥッッ! 起きまする起きまする!」


 スマホから流れる目覚ましボイスを停止させ、私はベッドから跳ね起きた。

 あぁ、今日も朝から致死量のイケボを摂取してしまった。

 ディスプレイに映っているのは、乙女ゲー『スターキングダム』のプリンスの一人であり、我が最推しでもあるアレクシス・ヴァイオレット様だ。今日も深い紫の髪は艶やかで、物憂げな流し目が色っぽい。

 どれほど眺めても眺めすぎということはなく、一瞬のうちに五分が溶けた。


「……ハッ! 準備をせねば!」


 私は慌ててトイレと洗顔を済ませ、メイクに取り掛かった。メインとなるのはもちろん推し色の紫。パール入りのパープル系のシャドウで瞼の上にグラデーションを作り、濃い紫のアイラインを引く。

 なお、ネイルもアレクシス様をイメージしたアートが施してある。こっくりした紫をベースに、彼のトレードマークであるクラウンがクールかつエレガントにデザインされている、ネイリストさんの最高傑作だ。


 次に、大急ぎで弁当を用意する。推し活資金のために節約は必須なのだ。

 パンツスーツを身につけ、全ての支度が終わった私は、冷蔵庫から取り出したゼリー飲料を一息に吸い込み、鞄を引っ掴んで家を出た。



 通勤電車はいつも満員だ。私は本日も無事にドアのすぐ横というベストポジションをゲットし、壁と手摺りの角を背にして立った。

 左手にはスマホ。こうしていれば誰かに覗かれる心配もない。

 Pixivを開き、昨夜のうちに投稿された神絵師さんたちのアレクシス絵をチェックする。

 この時間は貴重な推し摂取タイムだ。どのイラストも大変に素晴らしく眼福を極め、最高で最の高としか言いようがない。腹の底から湧き立つ滾りを抑えるのがつらい。もう無理オブ無理。


 電車がカーブに差し掛かり、不意に大きく揺れた。


「あっ……」


 正面の男性が小さく声を漏らす。私のすぐ横の壁には、どん、と大きな手。

 スマホから顔を上げれば、深緑色のブレザー。県内の男子高の制服だ。


「す、すみません……」


 なぜか恥ずかしそうに俯く彼に、私は「はぁ」と返す。


 なんだ、たまに見かける子じゃん。

 よく見れば彼は壁と手すりに両手を突っ張り、角に立つ私を囲うような格好になってしまっていた。

 あー、こりゃ恥ずかしいよね。すまぬすまぬ。君もこのベストポジションに立ちたいんでしょ。いつもこの辺りにいるもんね。もうすぐ降りるから待っとくれ。


 その後も揺れは断続的に続き、そのたび彼は私の方へ倒れないように踏ん張っていた。誠に申し訳ない。


 目的の駅へ着いたら、会社はすぐだ。自社ビル十三階の総務部に、私の席はある。

 部内のメンバーに挨拶し、さっそく仕事に取り掛かる。頼まれていた会議の資料作り、さっさと片付けてしまおう。


 一心不乱に文章を打ち込み続けていたら、背後から声がかかった。


「桃野さん、今いいかな」


 ふわりと漂うムスクの香り。灰谷課長だ。四十代後半らしいが、今日も若々しい。最近、離婚したとかしないとか。同僚が喋っているのを小耳に挟んだ。知らんけど。


「こっちの資料も頼める?」

「いいですよ、預かります」

「ありがとう。しかし桃野さん、本当にタイピング早いよね。マシンガンみたいだ」

「いえ、はは……」


 まさか趣味で二次創作小説書いてますなんて言えない。アレクシス様メインの夢小説だ。仕掛かり中の作品も尊み溢れるシーン満載で、正直早く続きが書きたくて仕方ない。


「いつも申し訳ないね。埋め合わせって訳じゃないけど、今からお昼、一緒にランチでもどう? 奢るよ」

「あ、すいません。今日お弁当なんで」

「あぁ、それは残念だ。じゃあ、また日を改めて」


 灰谷課長は淡い微笑みを残して去っていった。


 言われてみれば、確かにもうお昼休みだ。

 私は弁当バッグを持って、一つ上のフロアにある社員食堂へと赴いた。

 いつものように窓際のお一人さま席を陣取り、弁当箱を開ける。

 中身は至ってシンプル。白飯に、冷凍唐揚げ三つとミニトマト二つ。以上。

 さてさて、ここで取り出したるはー?

 ちゃらららん♪ 『スターキングダムふりかけ』〜〜!

 もちろんアレクシス様のをチョイスした。彼の艶姿の描かれた紫色の袋を破り、白飯にふりかける。すると……

 なんということでしょう……殺風景だった弁当に、鮮やかな紫の彩りが添えられたではありませんか!

 一口頬張れば、鼻腔をすり抜ける紫蘇の香り。それが白飯のまろやかな甘みと渾然一体となって、五臓六腑に染み渡る……

 それに何か懐かしい。そう、まるで、ゆか◯のような……

 この芳醇さは、まさしくアレクシス様のイメージそのもの。つまり私は今アレクシス様を舌の上に乗せてブッフォォォ!

 やだ何それエロい。

 イイヨイイヨー! イマジネーションを掻き立てられるよー! この感じをぜひ小説に——


 その時、ぽん、と肩を叩かれた。


「ねぇ君、総務部の桃野さんだよね」

「え? そうですけど」


 いつの間にか、ちょっとチャラい感じの男性社員が隣に座っている。


「俺、営業二部の青山。桃野さんさ、うちの社内のテニス部に興味ない?」

「はぁ……すみません、運動はあんまりなんで」

「まぁまぁ、テニスはお遊びみたいなもんだから大丈夫だよ。飲み会とかバーベキューとかいろいろ企画するからさ、出会いもあるよ。上下関係とか、テニス部内ではあんまりないし」


 うわ、めんどくせ。一番ご遠慮願いたいやつじゃん。

 青山さんはドン引きする私に構わず喋り続ける。


「桃野さんいつも一人でいるでしょ。テニス部の男どもの中にも、桃野さんと喋ってみたいって奴が結構いてさ。あ、俺もその一人なんだけどね。俺、学生時代もテニサーだったから、良ければテニスも教えるよ。そんな感じでどう? 堅苦しく考えずに」

「はぁ……」


 うるせぇな。早よねや。


「ごめんなさい、親が厳しくて……あんまり遊びに出たりできないんです」


 一人暮らしだけどな。


 青山さんは、くすっと笑った。


「君、おもしろいね。俄然興味が湧いちゃった」


 ……ッッカーーーーッッッ!

 ちょっとちょっと皆さん今の聞きました? リアル「おもしれー女」だよ。マジかコレ。三次元で吐く奴いるんだな。ハァァ!


 私は楚々とした笑みを作った。


「すみません、お昼終わるんで、そろそろ……」

「そっか、じゃあまたね、桃野さん」


 やかましいわ。私の尊い一人時間返せよ。



 午後は普段以上のペースでタスクを捌いた。昼休憩に十分な推し成分を摂取できなかったフラストレーションが、私に火をつけたのだ。これは一刻も早く帰宅して、夢創作の続きに没頭する他ない。


 六時。私はきっちり仕事を終えた。


「さすが桃野さん、今日も完璧な仕事だね」

「ではお先に失礼します」


 灰谷課長の世辞もそこそこに、私は爆速で退勤した。

 エレベーターで一階まで降り、早足でロビーを抜け、正面玄関へと向かう。

 その時。


「桃野!」


 聞き覚えのある声に呼び止められる。

 振り返れば案の定、見知った顔があった。


「赤松……何? どうしたの?」

「いや、桃野が帰るとこが見えたからさ」


 すらりと背の高いこの男は、私の同期だ。確か最近、営業部から企画部に移動になった。


「たまには一緒に飲まねぇ? ちょっと愚痴りたい気分でさ」

「ごめん、今日は急いでるんだ」

「あ、ひょっとして先約あった? デートとか?」

「いや、デートじゃないし」

「じゃあいいじゃん。飲もうぜ」

「いやごめん、ほんと」


 何でもいいからさっさと帰らせろ。

 赤松の表情がわずかに強ばる。


「あれ、つーかお前、彼氏いたの?」

「はぁ……? いると思う?」

「知らないから訊いてるんだけど」


 彼氏というか、アレクシス様の夢女やってるだけだけどな。


「何でもいいでしょ。ごめん私、急ぐから。じゃあね」

「えっ、ちょっ……」


 赤松を置き去りにして、私は会社を飛び出した。

 帰りの電車の中でもスマホでネタをメモしつつ、家路を急ぐ。


 玄関開けたら二分でごはん。レンチンできる白飯にレンチンできるレトルトカレーをかけて一気に掻っ込み、ざっと入浴を済ませて準備は万端。

 ノートパソコンの前に座ったら、いざ創作開始!


「オゥフ……何この展開、天才では……?」

「ウッッ……ちょっとまじすかアレクシス様……」

「ヒィャァァァァァ……」

「つら……むり……」


 私は悶えたり転がったり奇声を上げたりしながら、仕事時を凌ぐ猛烈なタイピングで文章を入力していく。

 そしてラストの一行を打ち込んだ後、背もたれごと勢いよく後ろに倒れた。


 仰げば尊死とうとし。我が推しへの恩。

 ありがとうアレクシス様。今日もあなたのおかげで凄まじく尊い時間を過ごせました。


 私は桃野。推しと共に生きる女。

 推しを推すことで前へ進む力、謂わば『推進力』で以って日常を謳歌する。

 人生は素晴らしい。明日もきっと、推しが尊い日に違いない。



—了—

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