一 春の終わりを告げる音/01

「ねぇ、相馬。吹奏楽部に入ってよ」

 朝、いきなりの勧誘だった。

 遡ること、十秒前。

 大石裕美は短い茶髪をなびかせ、どんと俺の机に手をついた。こちらは頬杖ついてぼんやりとしていたので、それはもうびっくりする。バイトが終わって、一時間ほどの昼寝ならぬ朝寝の後だったからなおさら驚かされた。

「あのさ、大石。俺に部活の勧誘って、自分でやってておかしいと思わない?」

「ちょっと遅いのはわかってる。でもまだギリギリ四月だし、セーフでしょ」

「時期じゃなくて学年の話だ。俺、お前と同じで三年だぞ。勧誘するには二年遅い」

「仕方ないじゃん。相馬が中学のときに吹奏楽部だったこと、つい最近知ったんだから」

 午前八時を過ぎた教室には半数以上のクラスメイトが登校してきている。

 誰か助けてくれないものか、と周囲を見回してみたが誰もが苦笑いだった。逆の立場なら俺もあんな顔をして遠くから眺めていたことだろう。

「とにかくうちの部に入ってよ。今年は新入部員が少なくて困ってるの」

「それは気の毒に。ちなみに今は何人なんだ?」

「一年から三年まで合わせて十人」

「それはさすがに寂しいな」

 他の文化部と比べても人数が必要となる部活動だ。人数が少ないと困る、というのは元吹奏楽部としては理解できる。

「だから吹奏楽経験者の人を調べて片っ端から声をかけてるわけよ」

「へー。あれ? でも去年の文化祭は、もっと大勢で演奏してなかったっけ?」

 ちゃんと数えたわけではないが、六十人くらいは居た気がする。いくら先輩たちが卒業したといっても、急に減りすぎじゃないだろうか。

「そこは色々あったの。ね、それよりどうせ暇でしょ? 吹奏楽部に入ってよ」

 あ、ごまかした。事情が気にならないわけではないが、突っ込んで訊くのも野暮か。そこまで知りたいわけでもないし。

「残念だけど放課後はバイトの準備で忙しいんだ」

 バイトは深夜の二時頃から始まるので、放課後は早く寝て睡眠時間を確保しなくてはならない。同級生の中では誰よりも早い時間に就寝している自信がある。この自信が役に立ったことはまだないんだけど。

「バイトしてるなら仕方ないか。今回だけは特別に勘弁してあげる」

「なんで俺が許してもらう側になってるのかよくわかんないけど、どうもありがとう」

「じゃあ代わりに情報提供してよ。中学のときに同じ吹奏楽部だった子とか教えて」

「同級生にはいなかったんじゃないかな」

 そもそも同じ中学から進学してきた同級生がいない。その理由は単純で、この高校が母校の校区からはやや遠いところにあるからだ。

 上昇志向の強いやつは電車に乗ってでも立派な私立高校に進学するし、特に目的もなければ徒歩で通える近所の高校に流れる。俺の進学したこの公立高校はどちらにしても中途半端であり、うちの中学からわざわざ進学してくるのはよほどの物好きだけだ。

 ちなみに俺がこの学校に進学した理由は、自転車通学をしてみたかったからだ。期待通りに快適だけど、悪天候の日は困る。

「というか、そもそも俺が吹奏楽部だったことは誰に聞いたんだよ」

「新入生の子が教えてくれたの。相馬と同じ中学だったんだって。もしかして、かわいい後輩の話を聞いて入部する気になった?」

「ならない」

「あっそ。相馬のバーカ」

 ふん、と鼻を鳴らして大石は廊下側にある自分の席に戻っていった。

 それにしても、新入生が情報源というのは妙だ。

 俺が吹奏楽部に入っていたのは中二の冬までであり、三年生に進級する前に早々とやめている。だから今年の新一年生、つまり二つ年下の後輩が俺のことを元吹奏楽部だと知っているのは不思議だ。

 とはいえ、人づてに聞いたのかもしれないし、気にするほどのことでもないか。

 俺はあくびを噛み殺し、始業までの短い時間をぼーっとして過ごした。



 早朝の町をカゴの錆びたバイクで走る。

 エンジンの振動が古びた車体と俺の身体をガタゴトと揺らした。前カゴにぎっしりと積まれた新聞紙もガサガサと小さく音を立てている。

 俺の生活はこの新聞配達のバイトを中心に回っていると言っても過言ではない。

 放課後、帰宅するとすぐに軽めの食事を取り午後七時までには布団に入る。目を覚ますのは午前一時だ。それから支度を整え、午前二時頃には営業所で新聞を受け取り、おんぼろバイクで町内パトロールへと出かけるという流れだ。

 バイトを始めたのは高校に入学してすぐの頃だった。けれど、バイクを使った配達ができるようになったのは免許を取ってからなので、まだ一年も経っていない。最初は慣れない運転に緊張していたが、近頃は早朝のひんやりとした空気が気持ちいいと感じる余裕も生まれつつある。

 京都の町は碁盤の目になっているから迷うことは少ない、と幼い俺に教えてくれたのは祖母だった。京都生まれの祖母はとにかくこの町のことが好きで、事あるごとに良い場所だと繰り返していた。

 新聞配達のバイトを始めてからは、たしかに道のわかりやすさに助けられている。でも住所は西入ル東入ルとやけに長くてややこしいので、配達ルートを覚えるまでには苦労した。

 上京区の東側半分が俺の担当している配達エリアだ。堀川通と烏丸通の間を縫うようにして往復しながら南下していく。日中は人通りの多いこの道も早朝だと静かだ。

 でも、安全運転を心がける俺の目には、今日も様々な人の姿が見えていた。

 信号を待っている制服姿の男女や、堀川にかかった短い橋を渡るスーツ姿の人、細い道では路側帯の内側を歩く浴衣姿の女性など、早朝の町では様々な人が活動している。

 暑い日も寒い日も、早朝に見える人の姿は変わらない。まるで時間が止まっているかのように錯覚してしまう。

 夜明け前にしか存在しない、この景色が好きだ。昼間には見えないものがたくさんある。

 安全運転のためには、こうして視野を広く持つことは大切だ。どれだけ配達に慣れても事故は怖いから、注意力と慎重さをなくさないようにしたい。

 今日もそんな風に作業を始めて、二時間。

 烏丸通りを右折し、一条戻橋を渡って西へと向かう。

 このあたりは小さな頃から見知った場所なので細かい道までよく知っている。特に春の堀川通は桜が咲いて綺麗なのだが、さすがに今はもうほとんどが散ってしまっていた。次に満開となるのは来年を待つしかないだろう。そのとき自分がなにをしているのかは想像がつかない。

 鼻歌まじりにバイクを走らせ、調子よく配達を進めていく。頭の中で音楽を流せば、新聞配達はリズムゲームと同じだ。移動も投函もテンポが大事になってくる。

「ん?」

 見慣れた家々の間、突然見慣れない光景に出くわした。

 夜闇に溶け込む一軒家、その郵便受けの前に女の子が立っている。暗闇で姿形はまだはっきりしないが、男女の区別くらいはつく。

 スピードを落としながら腕時計を確認する。光る文字盤で見れば時刻は午前四時前だ。

 女の子は散歩に出かける様子もなく、なにかを待つように立っている。

 まさか新聞が配達されるのを待っているのだろうか。

「おはようございます」

 できるだけ格好良く錆びたバイクを止めて新聞を差し出すと、相手は特に待ちわびていた様子もなくあっさりと受け取った。

「どうも。お久しぶりです、相馬さん」

 落ち着いた声だった。そして俺のことを知っているらしい。

「えーっと……」

 だ、誰?

 周囲を見回してヒントを求める。配達中は投函するポストに注目しているせいで、建物まではしっかり見ていない。だけど、考えてみればここはたしかに旧友の住んでいた家だ。

 中井恭介という名前のそいつはインドアを絵に描いたようなやつで、間違っても外に新聞を受け取りにくるようなタイプじゃない。そもそもあいつは男だし、なによりもう死んでいる。

 あ、でも妹がいたな。二つ年下だったっけ。

 こちらを見上げる黒く大きな瞳、髪は太くて長い一本の三つ編みにしてある。記憶に残る幼い中井妹とまったく同じ髪型だ。そしてどういうわけか、うちの高校の制服を身に着けている。

 俺が気づくのとほぼ同時に、中井妹はしびれを切らしたようだった。

「中井優子です。よくそれだけ堂々と人の顔を忘れられますね」

「すいません」

 といっても会うのはずいぶん久しぶりだ。最後に会ったのは恭介の葬式だったからほぼ四年ぶりか。あのときはまだ小学六年生だった中井妹も、高校に入学する年齢になっている。印象が変わっていてもおかしくない年月だ。

「相馬さんはバイトですか」

「ああ、模範的な勤労少年だ。ファンレターをくれてもいいぞ」

「まだ続けているんですね。吹奏楽部に勧誘されたはずですが」

「たしかに勧誘されたけど……あ、なるほど。そういうことだったのか」

 放課後の謎が早くも解けた。

 吹奏楽部の大石に俺の経歴をバラしたのは中井妹だったのだろう。二歳年下の後輩でも中井妹なら俺が吹奏楽部だったことを知っている。兄である恭介と俺は友達だったし、昔はこの家に週二日のペースで通っていた。

 とはいえ、中井妹が同じ高校に入学しているとは知らなかったし、ましてや吹奏楽部に入部しているなんて想像すらしたことがない事態だ。

「勧誘なら断ったよ。バイトのほうが大事だからな」

「私と会っても気が変わりませんか?」

「なんだその妙な自信は」

「どうなんですか?」

 中井妹はいやに淡々としている。その口調が周囲の気温を下げているかのように冷たい風が背後から吹き抜けた。

「一緒に部活をするなら三年生の俺よりも、同級生を誘ったほうがいいんじゃないか」

「兄の作った曲を演奏するには、他の人ではなく相馬さんの力が必要なんです」

 中井恭介の作った曲。

 その言葉に心臓のあたりがざわつく。

 時間が凍りついたような感覚に一瞬混乱するが、よく考えてみればそんなに寒くない。むしろ暑い。手のひらが汗ばんでいるくらいだ。

「へぇ、そうなんだ」

 返事をしないのも変なので、ちゃんと相槌を打っておく。冗談のような話だったから、自然と笑みも浮かんできた。

「ごめん、配達って結構急ぐんだ。話はまた今度ゆっくり」

 適当な言葉でごまかすと、俺はバイクで逃げ出す。

 中井妹がまだこちらを見ているのはわかっていたが、振り返る気にはなれなかった。


     ***


 あいつと初めて会ったのは、忘れもしない五歳の頃だった。

 その年の俺は新たな習い事として、トランペットのレッスンを受けることになっていた。

 きっかけは亡くなった祖母だ。

 若い頃にオシャレなレストランで聴いた演奏の素晴らしさを熱く語った祖母は、俺の誕生日にピカピカのトランペットをプレゼントしてくれた。

 当時の俺はトランペットの金ピカなところをすぐに気に入ったが、それ以外には嫌いな要素しかなかった。

 なにせ重い。しかも子どもには大きい。ケースに入れるとなおさら大きく重くなる。五歳の俺にとっては、それを抱えてレッスンに行って帰ってくるだけでも修行のようなものだった。

 今なら歩いて十五分程度の道のりも、子どもの足では倍以上はかかる。最初の頃は母と一緒にバスで通っていたが、それでも抱えたトランペットが重かったことはよく覚えている。

 音楽教室は見た目には普通の民家と変わらなかった。特別なことと言えば地下に防音室があることだけだ。

 そこに住んでる女性がトランペットの個人レッスンをしている、ということを調べて俺の習い事に組み込んだのも祖母だった。実はレッスン料も負担していたとのちに母から聞いたので、祖母はよほど俺にトランペットを習わせたかったようだ。

 そんなわけで、五歳の誕生日からトランペットを習い始めて三ヶ月が経つ頃。

 俺に秘められた天才奏者としての才能が開花する……なんてことはなく、自分でもびっくりするくらい下手なままだった。

 そもそも音が出ない。息を吹き込むだけで鳴る、と勝手に思っていた当時の俺はその時点でまず愕然とした。マウスピースだけを使った練習から始め、ようやく音が出るようになったがそれでもヘロヘロとした情けない音しか出せなかった。

 練習しても上達している実感がない。口も腕も痛いし、やっぱりトランペットは重いし、もう楽器そのものが嫌いになりかけていたほどだ。

 そんな俺の心情を察したのか、その日の先生は普段よりも早く休憩にしようと提案して、飲み物を用意するために防音室を出て行った。

 あいつが現れたのは、そのときだ。

 相変わらずちゃんとした音が出せずふてくされていた俺に、あいつは扉を薄く開けて声をかけてきた。

「それ、トランペット?」

 第一印象は怪しく細長い少年という感じだった。

 腕も足も細く、日に焼けていない。くせっけの奥にある丸い瞳が、俺の持つトランペットをじっと見ていた。

 あいつは単なる確認のつもりで声をかけてきたはずだ。だけど俺はその視線を羨望の眼差しだと勘違いした。

 他の子は持っていない特別なもの。そのとき初めて、自分のトランペットをかっこいいだろうと誇るような気持ちが芽生えた。我ながら単純だ。

「吹けるの?」

「当たり前だろ」

 反射的に答えたけど嘘だった。相変わらず満足に音は出せない。

 どうにか音を鳴らすことができても、怪獣のイビキみたいな音しか出なかった。先生がお手本で見せるような流れるような指さばきもできなければ、綺麗で目の覚めるような音も出せない。

 けど、できないとは言えなかった。ちっぽけなプライドだ。

「なら、演奏してほしい曲があるんだ。僕の作った曲」

「ふーん。じゃあ吹いてやるから楽譜もってこいよ」

 軽い気持ちで引き受けると、そいつはすぐに手書きの楽譜を持ってきた。

 まだ満足に楽譜も読めないレベルだったけれど、できると言ったからには絶対にそれを演奏してやろうと決めた。

 飲み物を持って戻ってきた先生も、まずは興味がある曲を練習するのがよいとレッスンでその曲を練習することを後押ししてくれた。

 それからは我ながら熱心に練習に励んだ。レッスンの時間だけでなく家に帰ってからも楽器に触れ、うっかり部屋で音を出して母に怒られてからはイメージトレーニングに没頭し、四六時中指をパタパタと動かしていた。タンギングの練習のために、日頃の呼吸にまで気を配っていたくらいだ。楽譜を読み解こうとする努力だって怠らなかった。

 そこまでしてもやっぱり劇的に上達するなんてことはなかったけれど、少しずつトランペットから出る音もマシになっていったと思う。

 手書きの楽譜を演奏できるようになったのは、初めてそいつと出会ってからさらに二ヶ月後のことだった。

 レッスンの休憩時間にそいつの目の前で吹いてみせたので、先生をのぞけば、あいつが俺の演奏を聴いた初めての観客になる。

 その曲は、それまで練習していたものとは明らかに毛色が異なるものだった。

 様々な音符が詰め込まれていて、雑然としている。聴いていて心地よくはないけれど、一度聴くと耳にこびりついて離れなくなるような、そういう曲だった。

 俺に曲の批評なんて高校生になった今でもできないけれど、初心者に吹かせるような楽譜でなかったことだけは確かだ。

 演奏中の俺はとにかく必死だった。様々な音符が濁流のように容赦なく押し寄せてくる。あっぷあっぷと音符で溺れかけながらもどうにか演奏を終え、汗をぬぐった俺はもう最高の気分だった。

「どうだ! うまかっただろ!」

「わかった、じゃあ次の曲」

 称賛の言葉を待つ俺に対して、そいつは拍手の一つもせずに別の楽譜を差し出してきた。

 その後、俺たちが仲良くなれたのは今では不思議なことだと思う。

 俺とあいつの性格がうまく噛み合ったのか、それとものちに『夜に日は暮れない』という名がつけられたその曲を気に入ったおかげなのか、それはもう俺自身にもわからない。十年以上前の自分なんてのはもはや他人みたいなものだ。

 ともかく、レッスンに通っているうちに俺とそいつは仲良くなった。

 俺は次々と持ち込まれる手製の楽譜を演奏するべくトランペットの練習に打ち込み、そいつは飽きることなく曲を作ってはその無茶苦茶な楽譜を俺につきつけてきた。

 そうして月に一度、練習した曲を演奏する。

 二度目の演奏からは観客にそいつの妹が増えた。なにを話したかはあまり覚えていないが、年の割にしっかりとしていて、変人の兄とはあまり似てなかったのは覚えている。

 その妹と入れ替わるようにして、子どもの邪魔をしないようにと気をつかったのか先生は小さな演奏会に顔を出さなくなった。

 作曲者と演奏者と観客。たった三人だけの演奏会は、何年もずっと続いた。

 一人が永遠に欠けてしまう、その日までは。

 作曲者の名前は中井恭介。

 さっき会った少女の兄で、中二の冬に事故で死んだ幼馴染だ。

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