四十の手習い【KAC20216】

いとうみこと

ショートショートの書き方講座に参加してみた

 三十代はまだまだやれる気でいた。営業成績も悪くはなかったし、自分は仕事のできる男だと思っていた。だが、外回りから内勤に替わった四十の春、会社での挫折感を初めて味わった。パソコンに疎い俺にとって、新しく覚えなければならないことが多過ぎたのだ。一方で、入社したばかりの若者はいとも簡単に使いこなしている。我が子ほども年の離れた部下に使い方を聞くたびに笑顔が歪むのを自覚していた。


 まずはキーボードから慣れよう。そう考えた俺は、家電量販店でラップトップを買い、そのまま無料パソコン教室に参加した。しかし、周りはリタイア世代ばかりで、いかに自分が時代に取り残されているのかを改めて思い知らされた。せめて最年少の俺が遅れを取ってはならないと必死になって頭に叩き込み、その場の課題はいちばんで完成させた。


 ひと息ついて辺りを見回すと、先輩諸氏はとても楽しそうに見えた。俺と違って、皆何かしらの明確な目的を持ってここへ来ているからだと感じた。ここでもまた軽い敗北感を味わっていたとき、手元のパンフレットの中に若い頃よく読んだショートショートの講座を見つけた。あの短い文章なら自分にも書けるかもしれない。そう思った俺はその場ですぐに申し込んだ。これを全うすれば、少なくとも文字入力で笑われることはなくなるはずだ。それに何かしらを課さないと、このパソコンがただの飾りになってしまう可能性が高いと考えたからだった。


 その意気込みとは裏腹に、初回の講座に向かう足取りは重かった。持ち物は筆記具かパソコン。もちろん俺はパソコンを選んだ。初心者と気づかれないように自前の取説を用意して準備万端整えた。そこまでしても、人前でパソコンの操作をすることに怯えがあった。その時点では、作品を作らなければならないという当たり前のことは頭からすっかり抜け落ちていた。


 カルチャーセンターの一室、小学校の教室ほどの広さの二〇八号室は、既に大勢の人が集まって熱気に満ちていた。後から知ったことだが、講師が何冊も本を出している当代きっての人気作家だったのだ。またしても場違いな雰囲気に気圧されつつ、窓際のいちばん後ろの席にそっと座った。


 俺よりも五つ六つは若そうな講師がモデル風の服装で登場すると、教室がどっと沸いた。その勢いのまま八十分の講座は怒涛のごとく進み、俺はショートショートの書き方のテクニックを理解した。しかし、理解したこととできることの間には途方もない距離がある。家に帰って課題を前にした俺は、深い絶望の中にいた。テーマは『家電』、字数は二千文字以内。原稿用紙五枚といえば、学校の読書感想文がそれくらいではなかったか。当時でさえあんなに苦しんだものを、わずか一週間でオチのある小説として完成させなければならないとは。俺は過日の愚かな選択を心底呪った。


 悩みに悩んだ末、ある朝起きると家電製品が全て壊れているというストーリーをなんとか書き上げた。書き上げたはいいが、果たして人前に晒しても良いものかどうか、そこは全く自信がなかった。最初の誓いもどこへやら、いっそ講座をやめてしまおうかとさえ思った。こうして二度目の講座へ向かう足取りは更に重くなっていた。


 この日、講師はロックミュージシャンのような服装で現れた。またしても教室がどっと沸く。軽く出版業界の裏話などで場を和ませると、その後生徒を六つのグループに分けた。ガラガラと机を移動する音が鳴り響き、俺の周りに五つの顔が並んだ。六十代の夫婦、二十代のOL、そして四十代と思しき主婦の面々だ。お互いに軽く自己紹介をして講師の指示を待った。


「では、みなさんが書いてきたお話をひとりずつ発表してください。そして、それに対する感想を順番にひとつずつ言ってください。ただし、批判はいけません。こうした方がいいというアドバイスもなしです。とにかく良いと思ったところを見つけて褒めてください」


 俺たちは顔を見合わせた。誰から発表するか探りを入れている顔だ。最初はハードルが高い、最後に残ってがっかりされるのも辛い、真ん中あたりでお茶を濁そう。そんなふうに考えながら目をそらしていると、夫婦で参加している夫の方が名乗りを上げた。


 彼の話は、冷蔵庫が突如意思を持って、肥満体型の主人公の暴飲暴食を戒める話だった。彼の腹もでっぷりと肥えているから説得力がある。ありきたりな展開だったが、主人公と冷蔵庫の会話は面白かったので、俺はその点を褒めた。彼はまんざらでもなさそうだった。次にその妻が、そしてOLが続々と名乗りを上げて、迂闊にも俺は最後の発表となった。正直なところ、どの作品も大したことはないと思ったが、だからといって俺の作品がそれらを上回っているということでもない。俺は滲み出る汗を拭き拭き、初めての作品を震える声で朗読した。


「視点がいいですね」

「最後のどんでん返しがすごいと思いました」

「会話が生き生きとしています」

「笑えるところがあって和みました」


 目をキラキラさせ、前のめりになってみんなが出してくれた感想に、正直なところ俺は少しばかり泣きそうになった。他人からの褒め言葉をこれ程嬉しく感じたことがあっただろうか。


「みなさん、初めての作品はどうでしたか?出来不出来はともかくとして、読者のいることの有り難みを実感していただけたのではないでしょうか。実際、読んでくれる人がいなければ物語は存在価値がありません。読者の感動、共感、驚きが書く者の原動力なのです。決してそのことを忘れず、読者のための物語を書いてくださいね。では次回のテーマを発表します。次回は……」


 ただパソコンに慣れたくて始めたこの講座が、俺の生活の糧になるまでにそんなに時間はかからなかった。

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