第21話 永遠の標本

 現想界で任務を終えた麻依は現実世界への帰路に就いていた。想定以上に早く終わったため、帰宅ラッシュを待たずに空いている電車の中でゆったりとつり革に掴まって過ごしている。


(加奈さんたち、今もまだ任務中だろうなぁ……)


 麻依はサイバーアーツによる消耗を表情の裏に隠しながら、通信端末で現実世界の流行を検索し、無数に存在するウェブサイトの海を漂っていた。


 一緒に住み始めてから麻依と加奈が一緒の任務に携わる機会が多かったものの、現実世界に加奈や巧一朗が出向くことは滅多にない。守護士が現想界以外で仕事を遂行するというのは、よほどの事態が起きない限りありえない事象だったためだ。


 現実世界の内側を守るのは警察や軍といった国が設けている機関に対し、現実世界の外に当たる現想界の治安は世界各地に新設された守護士協会が担っていた。双方は互いに干渉をせず、与えられた領域を守る役割を果たし続けていた。


 加奈たちが現実世界に赴くという任務自体が、現実世界を侵食し続けている現想界と電妖体の処理に当たらなければならないという意味を示している。それだけ守護士に関わる負担が拡大しつつあった。


 最寄りの駅を降り、慣れつつあった現実世界の景色の中で佇んでいると、不意に麻依の通信端末が振動した。画面に表示された名前はオペレーターの三國だった。おそらく緊急の連絡だろうと察し、すぐにスライド操作で応答する。


「お疲れ様です、三國さん」


『秋野さん、任務お疲れ様です。本部から至急の連絡を受けたのでお知らせいたします』


 端末越しの三國は何かを急いでいるのかと思えるほど早口で、やや言葉が大きく聴こえた。


「はい、何でしょうか?」


『石本さんと安永さんの直前の位置情報を送りますので、すぐに現場へ急行してください』


「なっ、何かあったんですか?」


 麻依は三國からの連絡を聞き、危うく通信端末を落としそうになった。


 意識を失っていた麻依を救ってくれたあの二人もとへ向かうのは、よほどの大事だと彼女は悟っていた。


『今日派遣された二人の端末の位置情報が突発的に失われました。現想界の侵食を考える限り高度に進化した電妖体が関わっている可能性が高く、二人が危機的状況にあると判断し、秋野さんに白羽の矢が立ちました。無理を承知でのお願いです。どうか向かっていただけないでしょうか?』


 今日は単独任務且つ短時間で終了したため、偶然にも加奈たちのもとへ派遣できる実力を持った守護士が麻依の他にはほとんど見つからないようだ、そう彼女は察した。


 協会の本部がなぜ麻依を指名したという意図を汲むまでには至らなかったが、それ以上に迷いはなかった。


「わ、わかりました! すぐに向かいます! ゲートを通って現想界側から向かっても大丈夫ですか?」


『問題ありません。自律車両の停車ポイントをお送りしますので、必要であればそちらへ乗ってください』


「ありがとうございます!」


『どうかお気を付けて向かってください。ご武運を祈っています』


 通話を終えた麻依はすぐに受け取った情報を整理しつつ、最寄りのゲートへと走り出した。


(加奈さん、巧一朗さん……どうか無事でいてください……!)


 麻依は心の中で祈った。あの二人が負けるはずがない、何かの嘘であってほしい、そう願わずにはいられなかった。


 動揺しているわけではないと言い聞かせるが、胸騒ぎは消えてくれない。解消するには、二人が未知の世界からの生還をこの目で見るしかなかった。

 

 一心不乱に駆け出した麻依を止める者はおらず、現場への異動で集中した彼女の脳内は自律車両に乗り込むまでの記憶をかき消していった。


   ▽


 加奈と巧一朗が対峙した修司と名乗る男は、見る者を無意識に惹きつける奇妙な雰囲気を醸し出していた。修司の敵意は無いように思えたものの、警戒は怠らずにユニットの解放だけは解除するわけにはいかなかった。仮に目の前の存在が電妖体だとすれば、討伐対象に当たる可能性がぐっと強まる。


「どうして私たちを待っていたと言った? 民間人ならば早急にこの場を離れるべきだ」


 空間には人と電妖体の気配が半々に混ざっており、修司がどちらに属する者なのか判別がつかず、二人は一切の気を緩める自由を失っていた。


「もしあなたが人であるなら、ここで正気を保てず気が狂ってくるはずっす。守護士か電妖体でない限りこの場には長くいられないっすから」


 巧一朗の言葉を聞いた修司は冷淡な表情を変えず、口にだけ笑みを浮かべた。


「ご名答。確かに人間ではそう長くは持たないだろう。ユニットを展開できているのは現に現想界が干渉しているからだ」


「聞くが、お前は電妖体か?」


 加奈は修司の立ち振る舞いに気圧されまいと、刀を強く握った。心なしか全身に武者震いが走り出す。目の間にいる存在が強者であると身体が反応していた。


「難しい質問だ」


「どうして難しいんすか?」


「白黒をつけることは苦手でね。外の景色のような灰色がちょうどいい」


「一理あるが、そんな話を私たちは求めていない」


「協会にいる手練れは皆、はっきりと物事を決めたがるようだ」


「ここにいる時点で答えは二つに絞られているとみるしかないっすよ」


 修司の発言はつかみどころがなく、加奈たちのリズムが狂いそうになっている。


 加奈の隣にいる巧一朗の額から汗が零れていた。襲い掛かろうと飛び出さんばかりの衝動を懸命に押さえつけていることは明白だった。


 修司は巧一朗の揺らぐ心までを読んでいるようにも見受けられるが、雲を掴むように明確な形が見えないままだ。


「現実世界と現想界、今の二つの世界を行き来できる者がいると思うかい?」


 今までの会話の流れを断ち切るように修司が問い掛ける。


「当然だ。私たちがそれを全うしている」


 修司の至極当然な質問に加奈は常識を述べるように告げた。


 加奈の言葉を聞いた修司は更に不敵な笑みを浮かべた。


「もし、この特性が守護士サイディアン以外にも持っていたとしたらどうするかね」


 そう言い終えた修司の言葉の意図に、加奈たちは数秒遅れて気付いた。その数秒が命取りになると、彼女たちの勘が囁いて止まらない。


「動かないでください」


 突き刺すような女性の声がフロアの全方向から聴こえた。


 加奈たちの背後で人の気配が強まったが、振り返ることができなかった。サイバーアーツによる力が解放されているにも関わらず全身が標本のように固定されていたのだ。


「——っ!」


 加奈は振りほどこうと藻掻いたが、すぐに無駄な抵抗だと認めて動くのを止めた。


「う、動かない……!?」


 巧一朗も必死で足掻いたが、プルプルと身体が震えるだけで身動き一つとれない。


 目に見えない力によってすべてが固定化され、呼吸や血液の流れすら止めてしまうほどの絶望感を与えた。


おぼろ、お疲れ様。よく時間通りに来てくれたね」


 加奈たちの間を優雅に通ってきた朧を見て、修司は労いの言葉をかけた。


「すべて修司様の為です。これでお二方を傷つけずに済みました」


 朧が修司の下にたどり着くと、巧一朗が彼女に向かって悲鳴のように叫んだ。


「放してください! ぶった斬るっすよ!」


 動けない巧一朗は目が充血し、獲物を狩ろうとする獣のように牙を剥いていたが、虚しくも解放されているのはサイバーアーツとユニットだけだった。


「お前たち! 何をする気だ!?」


 拘束され、血がにじむようにじわじわと好戦的になっていく加奈は、身体に代わって言霊を暴れさせた。


 加奈たちの苦痛に歪んだ声を聴いた修司は、笑みを浮かべていた口を一文字に戻して告げた。


「君たちに頼みがある。聞いてくれるのなら、この永遠の標本から解き放ってあげよう――」

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