第13話 蕎麦屋と言う名の異空間

 翌日の出勤。


 休暇明けで現想界に復帰した加奈は、腕鳴らしと意気込んで単調に襲い掛かる電妖体に対してユニットを展開し、サイバーアーツを充填させた刃で斬り伏せていく。


 加奈はたった一日離れていただけでも刀の腕が鈍っているように感じたが、何度か電妖体を消滅させていくうちに勘を取り戻していた。


 一度刃を納めて守護士たちが制圧した拠点へ向かおうとした際に、この世界には似つかない異様な光景を目の当たりにした。


「どうして蕎麦屋があるんだ?」


 真っ赤な提灯に「そば」という二文字が書かれた暖簾のれん、屋根付きの木製の屋台、現実世界の繁華街にもわずかながら点在する昔ながらの売り方で蕎麦が売られていた。


 人間のいない場所で、あまりにも謎めいている異様な空間。この世界はいつから蕎麦屋の存在を認めたのだ? 不可解な現象に加奈は狸が化けたのだと思って素通りしてこの場をやり過ごそうとした。


 だが、三度の飯以上に蕎麦を好む加奈は目前の欲望から逃れようと必死だった。空腹も大敵となって脳に襲い掛かっており、今ここで蕎麦を食べればきっと至福の時を過ごせるだろう。しかし、これが擬態する電妖体の仕組んだ罠だとすると、あまりにもピンポイントな誘惑だった。


 そばつゆの香ばしい匂いが辺り一帯を支配していることを加奈の嗅覚は逃さず、そしてすかさず「きゅうっ」という空腹の音を鳴らした。


 現実世界の時間で言えばちょうど昼時だ。先ほどの腹が鳴るタイミングはいかに考えても絶妙としか言いようがない。


「食え、ということか……」


 本当に罠かもしれない。それでも蕎麦を食したいという欲望を抑えきることができず、そのまま早足で暖簾をくぐった。


「いらっしゃいませー!」


 店主の後ろ姿を見る限り、小柄な女性のようだった。


 しかし、まとめあげたサイドテールの少女の姿にはどこか見覚えがある。


 店員と見られる元気な少女の声に思わず振り返ってきた彼女の顔を見ると、そこには現想界に合わせたモノクロトーンのエプロン姿に身を包んだ麻依が立っていた。


「麻依……?」


 予期せぬ再開に加奈は一瞬だけ目を丸くした。


「加奈さんじゃないですか! 今日もお会いできて嬉しいです!」


「——奇遇だな。ある意味、私も会いたかったところだ」


「身体はもう大丈夫なんですか?」


「なんともない。あれは一時的な疲れだ」


 麻依の歓迎に加奈は言葉を濁しつつ、冷静さを装いながら屋台の席に座った。どんな場面においても麻依は至る所に現れるので、まるで幻覚機の分身を見ているようで不気味だった。


 木製の椅子の座り心地は悪くなく、しっかりした温もりのある組み木で加奈の体重を受け止めていた。


「どうしてここで働いているんだ?」


 加奈は麻依に素朴な疑問をぶつけた。彼女は旅をしているはずなので、かなり不自然に思える。


「実は守護士の拠点で休ませてもらったことがあるんですけど、その時『守護士は和食好きが多い』って話を聞いて、現想界で屋台をしているオーナーさんから期間限定で雇ってもらったんです」


 灰色に包まれた、殺伐とした退廃的な世界で飲食の屋台を開けるのか、加奈は甚だ疑問に思った。そのオーナーの酔狂ぶりに呆れそうになった。


「確かに意外と和食を好む者もいるが、それだけで賄えるような商売でもないだろう」


「敵意を持たない平和的な電妖体の方たちがよく食べに来ますね」


 平和的な電妖体——それは久しく聞いていなかった言葉の塊だった。


「高度に発達した、人と遜色ない者たちのことか」


「そうです。加奈さんも知っていると思いますけど、近年になって人と全く同じ姿で言葉も不自由ない電妖体が出てきました。でも、そこまで進化した人たちは決して人間を襲うこともなく、呪粒子で満たされた身体で何をせずとも過ごせるようになったって聞きました。そうですよね?」


 加奈はただ「ああ」と頷いた。


「最近になって現想界の常識は書き換えられている。襲われずに、何より斬らずに済めば対話に持ち込める。だが、道のりは今も険しい」


 麻依の下へやってくるまでにも数多の電妖体を葬ってきた。上質な人間を捕食し、生き延びる糧とするために襲い掛かってくる、そう加奈も考えていた時期があった。


 佑香曰はく、電妖体が進化の過程で人間を襲わなくなったのには人間を捕食すること自体が一種の嗜好ではないか、と電妖体を研究する学者たちは考えている。


 ネズミ型の小さな電妖体での研究によれば、電妖体が捕食した人間の血液を摂取すると興奮作用を促進させる効果があり、あたかも依存性の高い薬物摂取したかのような反応を見せていたと言われている。


 人間でいうところの酒や煙草に近い、禁断症状を引き起こすような嗜好品として人間を貪っていると仮定するならば、捕食した人間の味に舌鼓を打って何度も忘れられない美味なる肉を求めて守護士を襲っているともいえる。


 まるで現実世界における薬物依存から逃れられない者たちを表しているかのようだった。


「かけ蕎麦を一つ頼めるか?」


「はい、加奈さんの為なら喜んで!」


 注文を聞いた麻依は、一杯の掛け蕎麦を作るべく調理に取り掛かった。


 どんなに研究が進もうとも、加奈の電妖体に対する姿勢は殆ど変わらない。命を脅かすのなら、守るために斬るまでだ。そう考えていた矢先、振動と共に通信端末に着信が入った。


 着信の相手は巧一朗だった。おそらく休憩に関することだろうと思い、親指でスライド操作を行って通話を取った。


「私だ。どうした?」


『石本さん。拠点以外で飯が食えるって噂、本当っすか?』


「君も知っていたのか。私ならそこにいる」


『マジっすか!? 俺近くにいるんで合流します! ちょうど腹減ったんですよー! 位置情報もわかっているんでよろしくっす!』


 軽いノリでこちらに来るという後輩に、加奈は戸惑いが隠せないままでいる。


「待て、もっと周囲を警戒しろ」


『石本さんが切り開いたルートに沿って進んでいるんでご心配なくー』


「いや、それでもだな――」


 通信終了。忠告を遮った巧一朗が一方的に切った形となる。


「何か重要なことですか?」


「いいニュースだ。客がもう一人やってくる」


 皮肉交じりに答えると、麻依は裏の意味を知ることなく歓喜の嵐に巻き込まれた。


「ありがとうございます! これでまた蕎麦が売れます!」


 麻依は気分よく厨房部分へ仕込んだ材料の確認を行っていた。


 加奈の口から溜め息が零れた数分後、屋台のテーブルの上では自ら注文したかけ蕎麦が湯気を出しながら目の前に現れた。


「お待たせしました、かけ蕎麦です」


 麻依はニッコリと接客スマイル以上の笑顔で加奈に蕎麦を渡した。


 だしの香りが加奈の鼻孔を支配しようと企んでおり、抑えがきかなければ備え付けの割りばしに手を伸ばしそうになるほどだった。


 すぐにでも食べたいという欲望に必死で抗いながら合掌する。


「い、いただきます」


 加奈は神聖なる空間で宣言する。


 ドクン、ドクン、と高鳴る鼓動が身体を支配していく。緊張することはない。目前の大好物にありつくだけだ。


 割りばしを割って右手で持ち、つゆに少しだけ突っ込んだ瞬間——。


「こんちわっす! ここが現想界の屋台っすね!」


「あ、いらっしゃいませー」


 麻依が応対したその客は、先ほど加奈が通話を行った相手でもあった。


 慌てながら暖簾をくぐった巧一朗がずけずけと加奈の隣に座ってきたのだ。


 先輩の加奈に構わず、巧一朗が安堵の表情を見せながら笑顔を振りまいたが、まったくの逆効果であることを彼は知らなかった。


「君は空気を読まないんだな」


 口の端を吊り上げていた加奈だったが、少しも目は笑っていなかった。


「あっ、もしかして何か重要なことをやっていたんでぐはぁっ……!」


 加奈はこの一瞬の重要性を知らない巧一朗の腹に軽く肘打ちをお見舞いした。しかし、思っていた以上に力が入っていたらしく、後輩は患部を押さえてしばらく悶絶していた。


「私の食事中に声をかける奴はそういないぞ?」


 至福の時に邪魔が入ったと言わんばかりに、瞳はしばらく後輩を睨み続けた。


 麻依の方に目を向ければ、ただ苦笑いをするばかりだった。

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