7.桃の節句


 お屋敷にはたいそう立派な雛飾りひなかざりがございました。体の弱いお嬢さまのために、旦那さまが名工に作らせた七段飾りの立派な物です。金糸銀糸でいろどられた着物にツヤツヤした漆塗りの道具やこまごました飾り、すべてが目を見張る美しさでした。


 桃の節句は三月ですが新しい暦ではなく(暦が変わって何年も経ちますが女中頭はいつもこう言います)、桃の花が咲くふるい暦でお祝いします。この日はお嬢さまのいとこ、はとこ、親戚しんせきの方々が大勢集まり、桃の木が生えている庭に面した座敷の障子しょうじを開け放って、賑やかに桃の節句をお祝いされていました。

 庭の片隅で草むしりをしている私のところまで時折、笑い声がきこえてきます。いつも一人でいるお嬢さまが、大勢と楽しそうに遊ばれている姿を思いえがくと知らず頬がゆるみました。


「カブラ!」


 突然、お嬢さまの呼び声が聞こえました。なにごとかと、お座敷のほうをのぞいたところで縁側えんがわに立っているお嬢さまが庭に向かってもう一度、私を呼びました。

 お客さまの前に顔を出してもいいのだろうかと迷いましたが、お嬢さまの声に逆らえるはずもありません。急いでお嬢さまの立つ縁側まで行き、ほっかむりしていた手ぬぐいをほどいて土の上に座り頭を下げました。


「ご用でしょうか」

「もっと近くへおいで」


 華やかで美しいものしかない場所に気おくれしながら、顔をあげないように縁側のふちまで進みました。


「顔をあげなさい」

「はい」


 顔を上げた私の目に、たおやかな藤紫ふじむらさきの着物を着てニンマリと楽しそうに微笑むお嬢さまが映りました。それと同時に、静かになったお座敷から息を飲む音が聞こえました。お客さま、私よりも年かさのかたからお嬢さまより小さいかたまで、緊張したような面持ちで私を見ています。お嬢さまのご親戚しんせきは皆さま良いお家でしょうし、私のような者を見ることもないでしょうから無理もありません。気味悪いものを見るような目を久しぶりに味わった私は、少しばかり悲しい気持ちになりました。


「ね? 赤いカブのお漬物みたいで面白いしょう? ふふふふふ」


 いたずらっ子の顔をしたお嬢さまは、皆さまの反応を面白がるように笑いました。

 どうやら皆さまへ私を紹介するために呼びつけたようです。おつとめに上がって一年たち、ようやくお嬢さまの家のものだと認められたようで面映おもはゆく、先程の悲しい気持ちはたちまち喜びに変わりました。

 なんだかいつもよりお笑いになるなとお嬢さまを見れば、小さなしゅ塗りのさかずきを持ち、涼し気な目元にほんのり色を乗せております。白酒で少し酔われているのかもしれません。


「白酒を飲ませてあげるわ」


 紅を塗ったのでしょうか、紅い唇のはしを持ち上げて目を三日月に細めると、腕を伸ばして手に持ったさかずきを私の頭の上でひっくり返しました。びちゃりと音がして頭から頬に白酒が垂れてきます。小さなさかずきですからほんの少しのものですが。頬をつたった白酒がひとしずく、口に入りました。


「おいしい?」

「はい、ありがとうございます」


 私は熱くなった頬を隠すように頭を下げました。お酒のせいではありません。お嬢さまが口をつけた白酒の残りが、私の口へ入ったことに胸が高鳴ったのです。皆さまの前での親しいやり取りが恥ずかしくも嬉しく、私がお嬢さまにとってただの使用人ではないとしめされているようにも思え、喜びがわき上がったのです。


「およしなさいよ」

「そうよ、あんまりよ」


 お優しいかたなのでしょう、私をかばう年かさのかたの声が聞こえます。


「カブラは白酒を飲めて喜んでるのよ。そうでしょ?」

「はい、ご馳走していただきありがとうございます」


 私の気持ちは通り一遍とおりいっぺんの説明で語れるものではありません。他のかたにはわからない、お嬢さまと私だけの特別なものなのです。


「ほら。うふふふ」


 暖かい春の晴れた空に、桃の花のようなお嬢さまの笑い声がとけていきました。



 用が済んだ私はそうそうに追い払われましたので、白酒で濡れた頭を洗いに井戸まで行きました。まわりに誰もいないのを確かめ、顔に残った白酒を指で集めて口に入れます。お嬢さまの紅い唇を思い出しますと、舌にのった白酒が唇からとけた紅のような気がして後ろめたさがふくらみ、この日は眠りにつくまで白酒に酔ったように、どこか夢心地で過ごしました。


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