第十五話 裏切りの放課後

 ほんの一瞬、時間が止まった。


 矢口が言った言葉に、私の中で、なにかがガラガラと崩れていく。

 なんだろう。なんでそうなるのかもわからない。でも確かに、何かが壊れた。私の中で。


「……なんで」

 目の前の矢口を見る。姿は間違いなく矢口。でもちがう。姿は矢口だけど、中身が違う。

 足が勝手に後ずさった。


「あ……あなたが、なんでそんなこと知ってるのよ」

「っのの、のづちめ、にっきき聞いた」

 のづちめ? 誰、それ?

「っのの、のづちめが、い言ってた。っれれ霊ぎょくったた食べたって。っでででも、そそのすぐ後にっ、ああ、あいつ消えた。うう、雲むしょうさん」


 えっ? のづちめって、あのメリベの女の人?


「っもも文字はこの男に、っかか書いてっもらったけど、っここ言葉はっ、にに苦手だから、っごご、ご容しゃください。へへ、平しん低とう」

 その言葉でハッと気づいた。矢口の身体を、何かが乗っ取ってるんだ。


「あ、あなたにそんなこと教えないよ!」

「っそそ、そういうわけには、いい、いかないよ。っああ、あれ見て」

 矢口が……じゃない。矢口の姿を借りたものが、私の後ろを指さした。振り向くと、あのどろどろの人工池から茶色い水が腕みたいにニューっと突き出してる。それがのたくりながら後ろの藪に入ったかと思うと、ガサゴソ探って大きな何かを持ち上げた。

 あ! あの子!


「チサトちゃん!」

 この間、図書館で会った矢口の妹だ。身体に池の水が蛇みたいにぐるぐる巻きついている。

 ぐったりして意識がない。

 そのままチサトちゃんをずるずる池の上まで引っ張ってくると、水面すれすれまで下ろして止めた。

「っちちゃ、ちゃんと計かくは、た、立ててるよ。よよ用意しゅうとう」


 えぇ、イラつくな! こいつの言葉。


「人質なんて卑怯じゃないの! それも、矢口の妹を!」

 きっと矢口の姿で近づいて、油断したあの子をさらってきたんだ。

 お兄ちゃんだと思って騙されて……そこまでが浮かんだとき、無性に腹が立って、哀しくなって、涙が出てきそうになった。


「っぼぼ、僕らにひきょう、なななんて言葉は、つつっ通じない、よ。むむ無味かんそう」

 矢口の身体を借りたものが言う。

「っはは、はやく言わないと……」

 チサトちゃんに巻き付いている泥水がゆらゆら揺れて、身体が水面の上を行ったり来たりする。あの水もこいつが操っているから、このまま水に引きずり込んで溺れさせることも、思い通りなんだ。

「っほほ、ほら、あの子が、っどど、どうなっても、っしし知らないよ。っきき君のせい。っぜぜ、ぜっ体ぜつ命」


 あぁーもうっ! チョーうっとうしい! 言葉が苦手なら、四字熟語なんて使うなぁ!


 でも、どうしよう。水希ちゃんが言ってたことが本当になっちゃった。

 私のせいで、矢口と妹がこんな目に遭ってる。


「……わかったよ」

 睨みつけながら言う。

「霊玉は、もうないわ。あの女の人が食べちゃったから」


 矢口が一瞬ポカンとして、首を傾けた。

「っそそ、それ、ほ、本当かな?」

「ほ、本当よ……あの女の人が食べて、そのままどっかに行っちゃったわ」

 なるべく心を落ち着けて、しれっとした表情で。

 だけど、この矢口の身体を乗っ取っているものって、どこまで知ってるんだろう? あのメリベの女の人、のづちめ? あれが言ったって、あの時近くにコイツがいた? ううん。そんなはずない。それなら私に聞いてくるはずがない。

 ということは……


 ちょっと考えて出した結論は、たぶんあのメリベの人が、霊玉を飲み込んだ時にコイツに知らせた。言葉じゃないけど、何か妖怪同士のテレパシーとかそういうのがあって、霊玉を飲み込んだことをこいつに自慢した。でもその後で、あの女の人は爆発。

 もうあの人はいない。私たちが燃えるゴミに出しちゃったから。どうかこの目の前の変なヤツが、そこまで気づいていませんように。


「っそそ、そうなんだ。そそそれで、れれ霊ぎょくって、何?」

 そう言われても、私のほうが訊きたいくらい。むしろ、妖怪仲間のほうが詳しいんじゃないの? 

「私もよく知らないわ。いきなり出てきたんだもの。でも、ものすごいパワーのある玉よ」

 それだけ伝える。メリベの人が爆発したことは、訊かれるまで言わないほうがいい。でも存在が消えたことは知ってるから、何が起こったかは見当がついているかも。


「っそそ、それを食べて、のの、のづちめは、きき消えた。どど、どおゆうことかな? きき奇き怪かい」

 何が奇々怪々よ。そりゃアンタたちのほうだっつーの!

「飲み込んだけど、そのまま消えちゃったわ」

 とぼけたけど、目の前の矢口はどうやら納得していないみたいだった。そのまま黙って私の顔を見ている。


「……っじじゃ、ここれから、きき君の家に、いい行こう」

「え? どうして」

「っねね、念のために、しし調べさせてもらう。っうう嘘をついて、いいたら、すすすぐに、わ、分かるから」

 相手が、矢口の顔で笑った。ひきつったような歪んだ笑い。ゾクッとする。


 こっちに向かってくる矢口に、私はあわてて声をかけた。

「待って、矢口の妹も一緒よ。じゃなきゃダメ!」

「っきき、君が命じられる、たたっ立場じゃ、ななないんだけど……」

 矢口が言う。

「っでで、でもいいよ。っぼぼ、僕は……フエッ、フエッ、フエッ」

 くしゃみでもするのか? と思ったら、

「フェミニスト、だから」


 ……こんな事態なのに、吉本新喜劇調でズッコケようかと思った。


―*―*―*―*―*―*―*―*―*―


 チサトちゃんも一緒にと言い出したのは良いけれど、どうやって自宅(うち)まで行こうか思ったら、矢口がすっと右手を挙げて池の上のチサトちゃんに向けた。泥水の腕がするすると伸びて来て、あいつの足元にチサトちゃんを下ろす。

 そしたら矢口がかがみこんで、彼女の頭を抱きあげて、顔を寄せて、口を開けて、えっ?

 チサトちゃんの口に、キキキ、キス! 兄妹で! ちょっと!

 小学一年生とはいえ女の子と、それも実の妹と、キ、キス!


 こっちの顔が赤くなる。見てはいけないものを見てしまった。

 でも、そんな気分はすぐに吹っ飛んだ。矢口が口を話した途端、チサトちゃんの目がぱっと開く。矢口が納得した感じで立ち上がると、チサトちゃんもゆっくりと立ち上がった。 

 二人が並んで私を見る。その口が同時に開いて、ハモリながら言った。

「っここ、ここれれで、いいいねね。いいい、いっ心しん、同たたい」

 チサトちゃんにも憑依(うつ)ったんだ。


 そして……イラつく口調も二倍になってる。


 二人に促されるように旧校舎の裏手まで行くと、普段は使っていないような通用口があった。鍵が開いているのは、きっと事前にここも用意していたんだろうな。


 通用口から三人で道路に出た。ちらほらと人通りもあるけど、周りの人私たちにを気にも留めない。もし矢口と二人きりだったら、カップル(うわ、ちょっと恥ずい)とでも思われて注目する人もいるだろうけど、チサトちゃんがいるから、お隣同士の仲良しとでも思われて逆に安心感があるんだろうな。

 大通りまで来ると、矢口(を操っているもの)が手を挙げてタクシーを止めた。妖怪のクセにタクシー乗るんだ。

 いきなり耳元に顔を近づけられてドキッとする。だって、姿かたちは矢口なんだもの。

「っおお、おかしな、ここ行動は、しししないでね。じじ、事ぜん通こく」


 そのままタクシーに乗ると、私のうちの住所を告げる。電車の駅で五つ目だから、ここからなら家まで行ってもせいぜい二十分。運転手さんは特に気にする様子もない。

 確かに絶対絶命だった。


 みんな無言のままタクシーは走り続け、家の前で止まると、目で促されて私がタクシー代を払った。運転手さんは結局何も気づかずじまい。

 チキショー、バイトにも行けない女子高生に、二千五百円って大金だぞ。覚えてろよ。


 玄関の前に立って少し悩んだけど、どうすることもできない。鍵を開けたら後ろから二人が言った。

「っはは入っててもも、いいいのの??」

 絶対ダメって、言葉を飲み込んで、どーぞ、って答える。私に続いて二人が家に上がり込んだ。


 今さらだけど、同世代の男友だちを家に上げるのなんて初めて。手紙をもらったのも、呼び出されたのも、すべてが私の初体験。

 二度とない貴重な瞬間。相手が誰だったとしても、自分が好きになった異性を自宅に招くって、本当ならきっとドキドキして、恥ずかし半分ワクワク半分、そんな気持ちになったはずの時。

 だけど、そのすべてをこの何だかわからない奴らに踏みにじられてる。悔しくて悔しくて、涙が出そうなのをグッとこらえてた。


 水希ちゃんはいない。今日も大学だったっけ? だとしたら、あの袋は持って出てるはず。だからこの二人をどうごまかそうかと考えてたら、後ろの動きがピタッと止まった。

 振り返ると、矢口が廊下中を見回してた。

「っなな何か……へ変だ」

 変って何が?


「っやや、やっぱり、のの、のづちめは、もももう、い、いない」

 ギクッ! 

 顔色が変わったのが自分でもわかる。言葉に詰まってたら、矢口と妹が今度はずんずんと歩き出した。私を追い越してキッチンに入っていくと、何かを探すみたいにあちこち動き待ってる。

「ちょ、ちょっと!」

 慌てて声をかけたけど、二人ともガン無視。そのうちに矢口が冷蔵庫の前でピタッと止まった。どうしたのかと思ったら、いきなり野菜室を開けると、手を突っ込んで中をガサゴソと漁りだす。

 な、何? いきなり他家よそんちの冷蔵庫を引っ掻き回す奴っている? 信じらんない。


「ねぇ! やめてってば」

 そういった私に、矢口が急に振り返った。

「っこここれ、なななぁーんだ?」


 悪戯っ子みたいに笑いながら、手に持ったものを目の前でぶら下げる。

 それは、あの三つの玉が入った保存バッグだった。

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