第39話 流れ星

 どちらのものか分からないほどに響く、強い鼓動にめまいがした。それでもアンジェラを抱きしめる腕が震えていることに気づく。

「コンラッド?」

 見上げると彼の目には悔恨の色が浮かんでいて、アンジェラの心臓が一度強く胸を打った。


「アンジェラ、私はすぐに貴女を追いかけるべきだった。次の日なんて待つべきではなかった。思い出の中ではなく、実際に貴女を支えたかった!」

 本気で後悔しているコンラッドに対し、アンジェラの胸に優しい思いだけが溢れてくる。

(ああ、この人だったんだ――)

 信じられなくて、でも不思議なほどストンと納得した。仮面をつけて別人のように振舞ったことで素を出せたのは、アンジェラも同じことだ。


「その気持ちだけで十分。十分よ、コンラッド。ありがとう」

 昔よりもずっとたくましくなった彼の背に、アンジェラはそっと手を回す。

「貴方がいたから、わたくしはこんなにも長く生きられたんだわ……」


 無意識にこぼれたアンジェラの言葉に、コンラッドがはっと身を離す。

 まじまじと見つめてくる視線を受け止めながら、アンジェラは自分の言葉を反芻して小さく頷いた。


「十八歳の時に貴方に口づけられて、わたくしは二十歳を超えることが出来た。二十五歳の時に、暁の狼に口づけられて、わたくしは三十歳を超えることが出来た。――どちらのキスの後も、姉の訃報や祖父の危篤の知らせが入って苦しんだけれど――わたくしの代わりに、彼らの命を奪ってしまったのではないかと苦しんだけれど、それでも……」

 それでもアンジェラを生かしてくれたのはコンラッドの愛だったのだと、誰かに囁かれたかのように不意に納得した。


 コンラッドは意味が分からないだろう。指でアンジェラの後れ毛を耳にかけながら、微かに首を傾げた。

「もしかしてキスがダメだと言うのは、不幸な知らせを聞きたくないから?」

 こくんと頷く。

「意味のないことだと分かっているの。危篤は嘘……というか、たぶん一時期本当に心配なことがあったのでしょう。姉たちが亡くなったのも、知らせより半年以上も前のことだったと分かってる。貴方のキスは関係ない」

「それでも、怖かったんですね」

 もう一度頷くと、コンラッドは優しくアンジェラを引き寄せて、今までで一番優しく抱擁した。それは労りと慰め。そして、包み込むような大きな愛。


「貴女が未来を怖がるのは、前世のせいですか?」

 コンラッドの質問に、アンジェラは小さく笑う。大きな力を見せても驚かない彼に、もしかしたら知っているのではと思っていたところだった。

「エドガーが教えたんですか?」

「それもありますけど、ここに来てからのアンジェラは、まるでこの世界を知っているかのような感じでした。あっさり通貨を手に入れるし、さっきの獣もよく知ってる感じでしたね。あれはヒィズルでもイリスでも、見たことがない獣だったのに」


 言われてみればもっともな話だ。

 コンラッドはアンジェラの三つの前世も知っていた。知っていてなお、こんなに優しくしてくれる。

 それでも短命だった理由を聞けば、彼は考えを改めるかもしれない。


「アンジェラの魔法発動の言葉は、前世関係ですか? 昔はヒィズルの言葉かと思ってました」

 その言葉をきっかけに、ポツリポツリと、誰にも聞かせなかった話をする。


 解錠と施錠の呪文は、ランプの魔人の真似だということ。

 とぼけた魔人は自分のことを大魔王と呼んでいて、一緒に旅をしてたこと。

 でも最終的に賊にランプを奪われ、アンジェラは嬲り殺しにされたこと。


 この世界では父親に売られたこと。

 救ってくれたエドガーの先祖と共に、当時、鴇色の魔術師と呼ばれていた男と戦ったこと。

 数々の出会いと別れの後、色々あって処刑されたこと。


 日本という世界には魔法という個々の力のかわりに、科学という力であふれていたこと。

「――姉と妹がいました。わたくしは病弱で、家よりも病院にいる時間のほうが長かったかもしれません。家族仲は良いと思ってましたけど、自分のせいで経済的にも精神的にも苦しめていることを理解していました。だからある日、何か嫌なことがあったのでしょう。見舞いに来た妹に暴言を吐かれました」

 死ぬなら早く死ねばいい。

 泣きながら叫んだ三つ年下の妹は、アンジェラのせいで何か辛い思いをしていた。


 すぐに「ごめんなさい、本気じゃない」と言った妹を病院の出口まで送っていったとき、

「トラックかな。大きな車がガラスを突き破って飛び込んでくるのが見えました。日本の車は金属製で、とても頑丈なんです」

 今も目を閉じれば、ストップモーションでガラスが飛び散る一枚一枚まで見えそうな気がする。


「わたくしはとっさに妹を突き飛ばしました」

 ロビーにいた若い男性が妹を受け止め、信じられないと言った顔でアンジェラを見ていたことを覚えている。その男が誰だか分からないのに、なぜか彼なら大丈夫と懐かしさを感じ、自分がにっこり笑ったことも。

 アンジェラが「ごめんね」と言った言葉は届かなかっただろうけど、最期に大切な妹を守れたことが満足だった。


「いつも世界が一変していたのに、ここでは違った。いえ、一変したと言えば一変したんですけど、たぶん、貴方がいたことで変わりました」

 手のひらをコンラッドの頬にあて、伸びかけの髭の感触を楽しむ。

「すごく楽しい人生だったの」

「これが最後みたいに言わないでくれ」

 アンジェラの手に自分の手を添えながら、まっすぐ射抜くようなコンラッドの目の奥をのぞき込む。


「コンラッド。わたくしは貴方が好きだわ。学生の頃とも、ヒィズルでのことも関係なく、今の貴方が好き」


(ああ、言ってしまった――)


 抑えきれなかった気持ちは、言葉になって零れ落ちた。

 ハッと息を飲んで口を開きかけるコンラッドの唇に、アンジェラは人差し指をあてる。


「わたくしを追わないでいてくれてよかったの。メロディの父親である貴方を、わたくしは尊敬しているし、好きになったの」

「それはアンジェラの、スミレをまねたに過ぎない」

「それでも。いいえ、それならなお嬉しい。わたくしを認めてくれてありがとう。可愛いメロディに会えて、本当にうれしかったわ」

 半日だけママと呼ばれ、くすぐったくて楽しかった。


「アンジェラ。どこにもいかないでほしい。このまま私と生きてくれないか」

 込み上げる幸せに、アンジェラは抑えても口元に笑みが浮かんだ。それでも首を振って見せる。

「わたくしはこのままエドガーと一緒に行くつもり。あの子を守って、きちんとイリスに帰したい」

「なら私も残る」

「いいえ。貴方はメロディを連れて帰らなければ。守るべきものがたくさんあるでしょう?」

「一番守りたいのはアンジェラだ」

 アンジェラは頷いて「わかってる」と囁いた。


「でもね、コンラッド。もしわたくしを愛してるなら、私の望みを叶えて?」

 わざと愛してるなんて言葉を使った。好意以上の言葉に彼が身を引くと思ったから。けれどコンラッドは呆れたように目を上に上げてわざとらしくため息を吐いた。

「そんな言い方は卑怯だ。私がアンジェラを愛していないわけがないし、貴女が望むことはすべて叶えたい。でもこれだけは受け入れられない!」


 目を丸くして、何かとんでもないようなものを飲み込んだかのような顔をするアンジェラに、コンラッドは「ああ」と呻く。

「しまった。まだ言ってなかった、くそっ。先に言うつもりだったのに。――アンジェラ、私はアンジェラが好きだ。誰よりも何よりも大切だし愛してる」

 少しヤケにも聞こえるような早口の告白に、アンジェラはポカンとした後、くすくすと笑いだした。

「一世一代の告白で笑うかい?」

「だって、なんだか胸がくすぐったくて」

「――でも、決意を変える気はないんだね」

 苦しそうなコンラッドの目を見て、それでもアンジェラは頷いた。


「わたくしは、自分が手を伸ばせる範囲で守れる人は、全員守りたいの。せっかく長く生きたんだもの。最後までそうしたい」

「それでもエドガーと一緒に帰って来るだろう?」

「――善処、します」

 どうしても嘘がつけないアンジェラに、コンラッドは大きくため息を吐いた。


「大丈夫よ、コンラッド。技術力で言ったら、今のわたくしは今までで一番強いんだもの。心配いらないわ」

「慰めにもならないよ」

 呆れたように、もしくは諦めたように天を仰ぐコンラッドにならって空を見ると、星が一筋流れるのが見えた。

「流れ星……」

 アンジェラがつぶやいたあと、コンラッドがアンジェラの額に口づける。アンジェラが止める暇もなくて驚き、何度も瞬きをした。


「ねえ、アンジェラ。あの日、貴女の願いは聞き損ねたね。今なら何を願う?」

 どこまでも優しい彼の眼差しに、アンジェラは何も考えないまま言葉がこぼれた。もし叶うなら……

「最期は貴方の腕の中で眠りたい……」

 囁きにしかならなかった願いに、コンラッドが目を見開く。

 その目の奥に見える熱に、誤解を招く発言だったかとも思ったけれど、誤解のままでもいいような気がした。


「結婚しよう、アンジェラ。今は貴女に捧げられる花も何もないけれど、貴女を止めることができないなら、せめて私に待つ権利をくれないか? もう、貴女が突然消えるのは嫌なんだ。帰ると約束してくれるなら、一生だって待つ。どうか私の妻になってほしい」

「コンラッド……」

 求婚の捧げ物も花もないけれど、これは正式な求婚だ。

 彼から求婚されたら断ろうと思っていた。断れると思っていた。

 でも今のアンジェラは、体中に震えが走るほどの喜びで呼吸もできない。


 もしも今世で最後なら、この奇妙な生がすべて終わるなら――

(たとえ彼に背を向けられる日が来るとしても、わたくしは後悔したくない)


「――はい。コンラッド。わたくしも貴方のところに帰りたい」

 それはどこまでも純粋な気持ちで、少しだけためらってからアンジェラは「背の君」と夫を表す古い言葉でコンラッドを呼んだ。


「アンジェラ」

 頬を両手で挟まれ、焼かれそうなほど熱のこもった目で見つめられる。そのまま頬と耳の下にキスを受け、「部屋に……」という囁きに黙って頷いた。

 差し出された彼の手を取り、アンジェラはそっと身を寄せる。ここがもっとも安全で、かつ自分のいるべき場所だと感じられた。

 それでも――


「お願い。唇へのキスだけは、なさらないで」


 それだけは、まだ、できない――。

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