九年間、九十八人がこの世を去った。

 ミノルは楽しかったし、ミミミもきっと楽しかった。







 ロシア、アレクサンドロフ辺境。

 掛けられた言葉に、ミノルは静かに肩を竦めた。ロシア語、それも地方なまりがあるものはさっぱり分からない。死神ミミミの出番だった。


「ウチで働かないかって? 五万リーブル、悪くないんじゃない⋯⋯?」


 新米死神には、世界で通用する貨幣を支給されていた。しかし、食い扶持の無い少年を勘定に入れているはずはない。ここ数年は自分たちで生活費を稼ぐ始末だった。

 給湯器熱源式集中暖房器具セントラルヒーティングのぬるい熱気を手で扇ぎながら、二人は一番安いコーヒーで二時間は粘っていた。見かねたマスターが声を掛けてきたのは予想外の言葉だった。


「気まずいなんてレベルじゃねえ⋯⋯ぜってえ怒ってるだろ⋯⋯⋯⋯」

「みー。でも住み込みで働けるのは助かるかも⋯⋯? 仕事のリミットまで後一年もあるし、のんびりしてこーよ」


 そんなこんなで即決即断。

 二人が喫茶店で働き始めてから半年が経った。


「おう、ミミミ。ほんっとお前不器用だなぁ!」

「みー、うるさぃ⋯⋯」


 客入りの渋い喫茶店。従業員はミミミとミノルだけ。

 説明書片手にコーヒーメーカーと格闘する死神。彼女の中でなんらかの心境の変化があったのか、ボサボサだった銀髪は綺麗に手入れされて後ろで括るようにしていた。

 身なりを気にし始めたのは人殺しの旅を始めて少ししてから。今はキッチリした制服と相まって気品すら感じられる。


「色気は相変わらずねぇのになぁ⋯⋯」

「みー!」


 睨まれた。唇を小さく揉みながらそっぽを向かれる。


「貸してみ。ここをこうして、こうすんだよ」


 慣れた手つきで仕事を進めるミノル。働き始めて分かったことだが、彼は非常に要領が良い。頭の回転が早いとか、物覚えが非常に良いわけではない。やるべきことに真摯に向き合い、努力して経験を獲得しているのだ。


「みー。そんな頑張ってもお給料おんなじじゃん⋯⋯ミノルってば一生懸命。ここの言葉もけっこー分かってきてるんでしょう?」

「俺はちゃんと一人で生きていかなきゃなんねーんだよ。言葉だって、まだなんとなく聞き取れるぐらいだって⋯⋯」

「みー、まっじめー! 


 ミノルがミミミの口を塞いだ。ただの軽口のつもりだったミミミの顔が真っ赤に染まった。人差し指を口に合わせながら、ミノルは小さく顔を歪める。


「ミミミ」

「みぃー⋯⋯⋯⋯なに」

「俺はロシア語話せねえけど、お前の言葉は誰にでもわかんだろ。軽率になんて口にすんな」

「ぁ」

「『あ』ってお前なぁ⋯⋯」


 咳払いに振り返った二人。

 初老のマスターが厳しい目付きでこちらを見つめていた。


「やはり、君たちはというやつか⋯⋯君らくらいの歳でこんなところをたむろしている時点で察するところだったが」


 聞き逃してはもらえなさそうだった。というか、最初から目を付けられていた。


「みー。ロイドさん、だったらどうして私たちを雇おうとしたの?」


 ミノルはまだロシア語がつたない。必然的に会話するのはミミミが中心になる。


「⋯⋯⋯⋯私も若い頃は悪さをしていたからな。先輩からの忠告だ。引き際を弁えなさい」


 聞き取れなかったミノルがミミミに目線を送る。だが、少女は口をあんぐり開けて驚いているだけだ。

 喫茶店のマスター、ロイドと名乗っている男は雰囲気を察した。周囲を見渡す。閉店まで一時間弱。今日はもう客は来ないだろう。


「掛けていなさい」


 店じまいをし、人数分のコーヒーを入れる。


「君たちに話したかったことだ。聞いて欲しい」







「人を殺したことがある。まぁ⋯⋯売ったり、打ったりもしたな」


 初老の男はこう切り返した。


「金さえ貰えりゃ良かった。そんな馬鹿が身の程も弁えずよ⋯⋯所帯なんて持っちまって⋯⋯⋯⋯」


 ロイドと名乗る男は目線を下げた。ぬくいコーヒーに口をつける。カップに手をつけない二人に、視線で告げた。遠慮するな、と。


「真夏だ。珍しくコートもいらねえような日、帰ったら、嫁と娘がバラされてやがった」


 ミミミは男の口調が荒れてきているのを感じた。隣で聞き取るのが必死なミノルはそうはいかないだろう。

 多分、男の本性がこうなのだ。

 昔の話し口がこうなのだ。

 父親。ミノルがニュアンスを聞き取れないのは幸運だったか。ミミミは敢えて触れない。理知的な男の衝撃な過去は、全てを聞くと不思議と腑に落ちる。


「ジグゾーパズルかよってくらいバラバラでさ。そんなになるまでやんの大変だったろ。しかもめちゃくちゃ刺されてやんの。黒髭危機イッパツかよ」


 乾いた失笑。

 ニュアンスの違いを感じ取れないミノルは曖昧に笑った。言語の壁が感情をも隔絶する。


「だから、お前らはその⋯⋯なんじゃねえぞ」

「みー。それが言いたいだけ?」


 ある種辛辣な言葉だった。

 男がどうしてこんな話をしたのか。その理由は死神に察せられる。人類の情念から生じたは、人の気持ちを分かったようになれるのだ。だから初老の男の抱く想いをその身のように感じられる。

 即ち、

 言語の壁があろうと、さとい少年だ。事情と背景はなんとなく察せられた。それ故に、死神すら飲み込んだ言葉を軽々と発してしまう。


「マスター⋯⋯⋯⋯アンタ、偽名ですね?」

「⋯⋯分かっちまうか。騙していたようで悪いが、理由は分かるだろう?」


 ミノルは小さく頷いた。

 ミミミがテーブルの下で手を掴んだ。その静止を振り切って、ミノルは続きを促す。


「俺は『ヨゼフ=サンドラ』だ。チンケな殺し屋なら遠慮いらねえ、そうじゃねならロイドで通してくれな」


 ミノルが死神に視線を送った。カチカチと小さな音。歯の根が噛み合わない現象を身を以って知った。だが、情念の怪物は決して想いに逆らえない。役目に、仕事に反せない。



 死神が虚空から『リスト』を取り出す。覗き込もうとするミノルの顔を押しのけた。人間に見られるのは規則で禁じられている。そこには、ヨゼフ=サンドラの名が確かに記されていた。







 死。血。赤。

 全身の血液を体外に垂れ流すヨゼフ=サンドラは、満足そうな表情だった。死神曰く、苦痛はないらしい。こんな表情をしながら逝っていく人間を何人も見てきた。ミノルは小さく溜息を吐いて顔を背けた。


「次、どこ?」


 かつての少年は軽めに言う。人の死に動揺しなくなった。切替が早くなった。ミミミと一緒に旅をしているから。慣れた。こんなものはただの作業だ。

 なのに。


「⋯⋯ミミミ?」


 いつの間に背を追い越した死神は。

 いつの間に身嗜みを覚えた死神は。


「ミミミ!」


 ミノルが死神の腕を引っ張った。大きくよろめきミノルの胸に収まる。だが、その視線は死体から一切動かない。


「あんま見んなよ。汚い、だろ⋯⋯汚いんだろ」

「みぃ、ぃ⋯⋯ぁい?」


 死神の目が見開かれる。

 思えば、親しくなった人間を殺したのはこれで初めてだった。


「⋯⋯次、日本。これで最期だよ」


 震える声で告げる。

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