エジプト、首都カイロ。

 路地裏に倒れた血塗れの男。死神の手管だった。むせ返るような血の臭いに少年は息を止める。


「みー。汚いよ、触っちゃダメ」

「触らないよ」

「見てもダメ」

「なんで?」


 少年は黙った。少女に腕を引かれて大通りまで連れ去られる。カッターナイフで傷つけた手とは反対方向で掴まれる。一応、うっかり殺してしまうことがないように考慮してくれているみたいだった。

 少年は少しでもその場に居座ろうとしたが、無理矢理引っ張られて力負けしてしまう。見かけの歳は大して変わらなそうだが、同年代だと女子の方が力が強い年頃だった。身長も少女の方が頭半分上高い。


「ねえ、ミミミ。どこ行くの?」

「みー。今日のお仕事終わり。ホテルいこ?」

「ホテル、どこ?」

「みー。これから探す」


 キョロキョロと少女が辺りを見渡す。少年少女が二人旅というのも奇妙な話だったが、死神少女の纏う雰囲気はどこか大人びていた。あどけない顔立ちでも、成人していると言い通せるほどに。


「エジプト語? ⋯⋯なのか分かんないけど、話せるの?」

「みー。死神に言語の壁はない」


 そう言うと、少女は身なりの良さそうな男性に声を掛けた。欧州人、観光客だろうか。手頃なホテルの場所を聞いている。気さくに世間話もしているようだった。ようだった、というのは少年には男の言葉が分からなかったからだ。だが、少女の言葉は日本語として理解できる。


「⋯⋯死神、便利だね」


 戻ってきた少女に少年は言った。彼女はきょとんと首を傾げているだけだ。言語の壁はない。その言葉がシンプルな答えなのだと少年は受け取った。







 三日間、カイロを拠点に八人殺した。


「死神の血は人間には劇薬。ただの一滴で生命活動を終える。

「人間自身が?」


 死神少女が無造作に手を伸ばした。掴んだカエルを生のまま口に放り込む。粘っこい咀嚼音に少年は顔を顰めた。何度見ても慣れないが、死神ミミミの主食は両生類らしいのだ。


「みー。死神は人の情念から生まれた存在。罪の意識から裁かれたい。そんな想いの集積が死神を生んだ」


 無造作に伸ばした左手が新たなカエルを掴む。


「食べる?」

「だから、僕、カエルは生じゃ食べないんだって! ほんとに旨いのかよ!?」

「みー。死神、味分かんない……でも、歯ごたえがぐー」


 もっちゃむっちゃと咀嚼する死神に少年はドン引きする。そんな反応に少女はむっと眉を寄せ、唇を小さく尖らせる。


「みー。そういや、君の名前聞いたっけ?」

「んー、あーー……名乗ったっけ?」


 とぼけたように頭を掻く。


「ミノル。中川、みのる

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯みー」

「聞いておいてその反応はなんだよ⋯⋯」


 少女は少年の頭に手を乗せた。乱雑に撫でられるくすぐったさに、ミノルは身を揺らす。


「みー。みー。みー」

「眠いの?」

「みー!」


 死神も眠るらしい。それも、たくさん。

 ミノル少年がこの三日間で知った死神の生態だった。







 理性的な自殺を完遂する動物は人間だけらしい。

 情念の怪物。裁かれたいという想いが産んだ生命の簒奪さんだつ者。極めて遠回しの自殺であるとミミミは揶揄やゆした。ミノルは人間を責められない。少年も考える。自分のせいで父親はおかしくなってしまったのだ、と。

 あの暴力的な男にも罪の意識があった。だからこそ死神の『リスト』に名前が載ったのだ。罪の事実ではなく、罪の意識。自分がもっと良い子だったら、そんな理想を考えないわけにはいかない。


「こうして見ると、普通の女の子みたいだな⋯⋯⋯⋯」


 眠りこけるミミミの銀髪に触れる。絹のような滑らかな触り心地だった。偽物のような危うさすら感じる。

 少年ミノルには、差し迫った危機があった。

 死神ミミミが下界を去った後、どうやって生きていけば良いのか。父親は死んだ。母親はどっかいった。他に身寄りもない。追い詰められた経験に満ちた少年だからこそ、この歳でシビアな現実を直視出来た。


「⋯⋯⋯⋯みー。女の子の寝顔を眺めるでない」


 うざったそうにミミミが目を開ける。目蓋まぶたはまだ重そうだった。観光客向けのそこそこ値が張ったホテル。死神はいくらでも貨幣に融通するらしい。具体的に何がどうなっているのかは人間には分からないのだろう。


「あのさ⋯⋯⋯⋯死神に男も女もあるの?」


 ミミミは跳ねた枝毛を手櫛で撫で回す。じっと目線を下げて身繕いをしているようだった。


「⋯⋯みー。死神は、人間がいう女性型しかいないよ。裁かれるのなら母性、てことなんじゃない?」


 投げやりな言葉だったが、とても業が深いように少年には感じられた。母性。その言葉の違和感に少年は口を開く。主に首から下に視線を這わして。


「ミミミと母性って、結びつかないんだけど⋯⋯?」


 グーで殴られた。


「⋯⋯出血、してねえよな⋯⋯⋯⋯っ!?」

「みー。してないよ。きれいきれい」


 死活問題なのでミノルは声を荒らげた。掛け布団を掻き寄せながら、ミミミは言った。


「みー⋯⋯次からベッド、別にしようか」


 ミノルは何故か背筋がびくりとした。


「みー。そもそも、ミノルはどうして私に着いてこようとしたの?」


 振れ幅のないプレーンな視線が突き刺さる。ミノルは口の端が引き攣っていくのを感じた。心臓の奥底に刺さった釣り針を、返しながら引き抜いていくような感覚。言葉に乗せられたのは、やはり死神ミミミの現実感の欠如からだろう。伏せた顔に情念が灯る。


「僕、家じゃあずっと殴られて⋯⋯学校じゃ、ぃ⋯⋯⋯⋯やなことされて、すごく⋯⋯すごく、やで、でも――――」


 少年ミノルは顔を上げた。


アイツ父親が死んだ時さ、顔、蹴ってみた、んだ⋯⋯けど、動かなくて、さ⋯⋯いつも、たくさん⋯⋯殴って、くんのに⋯⋯⋯⋯僕が蹴ってんのに、動かねえの⋯⋯⋯⋯


 そして、静かに笑うのだ。


「コイツ、僕より下だ⋯⋯て思えて、あんな⋯⋯クソくだんねーとこに居座るのは、ダメで⋯⋯⋯⋯着いてきて、本当に良かった」

「みー。私も⋯⋯君を連れて行って良かったと思うよ。退


 生命は、気軽に死に触れるべきではない。。ミミミはそんな言葉を思い出す。


「死んだ。うん⋯⋯死んだんだ、アイツ。死んだら、終わりなんだって。ねえ、死神も死んだりするの?」

「みー。心臓潰されたら死ぬんだって」


 ミミミは投げやりに会話を放棄する。

 それ以降、ミミミはしばらく言葉を発しなかった。

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