第7話

 街は騒がしい。


 しかし酒色飯店の雰囲気はやや暗かった。


 暗いというよりもひそひそとした噂話が選考している


「あの爺さんが帝の反逆者とはな。 それじゃあの子もそうだったのか?」


「まさか…おそらくは知らされなかったのだろうよ。あんな良い子がそんなことするはずがない。 第一関わっていたならこの店は取り潰されていただろうよ」


「そうだろうな…なによりもさ、こうやって俺たちに下賜された宴席の料理をこの店で食えるはずがないんだからな」


 事実、帝の婚礼の祝いにより指定された飯店には客に無償で料理と酒を供せよとお達しがあった。 もちろん振舞われる量の何倍にもわたる金が宮城から店に手渡されている。


 だから飯店はにぎわっている。 


 おかみさんも主人もせわしなく動き回ってはいるが、それでもその顔はいささか暗い。


 常連客もまた祝いと悲しみの半分で厳かにそれらを口にしていた。


「そういえば帝の婚姻相手は誰になったんだ?」


 気まずい雰囲気をごまかそうと常連客の一人が問いかける。


「ああそういえば聞いてなかったな、やはり真都の大商人の娘か?そういえば『陽』さんも来なくなったな」


「いいや…そうではないそうだ。噂も当てにならんよ、まさに瓢箪から駒ってやつだったな…たしか…」


 口から出された名前は何も知らない他の客の大声によってかき消された。


「それは…なんとも皮肉な話じゃねえか…」


 押し殺したような言葉にはわずかな怒りがあった。




 一方、宮城では各々が帝の婚礼の儀に参加している一部の者たちは憎憎しげにつぶやいている。


「まさか落ちぶれた家の娘が生き残っていたとはな」


「主上も何を考えているのだ、もはや腐って打ち擦れられた者たちの一族を后にするなどと…」


「聞けば帝の暗殺計画を密告で未然に防いだことに主上はいたく感激したそうだ」


「自分の身内を売って取り入ったというわけか、生き汚さは一族譲りであるな」


 この二人は大商人の娘が后になるように尽力していたので余計に目前の景色には腹立たしさだけがあった。


 しかしそれでも大勢は変わらない。 


 誰もが帝の后になった相手に表向きは別として内面では侮蔑と蔑みを込めながら見上げる。


 至上なる玉座の上、そこには帝と豪華絢爛な婚礼衣装を着た少女が立っていた。


 讒言によって皆殺しにされた父母と一族の恨みを忘れて、帝のためにその危険を知らせた忠信無垢な賢婦として。


 その真相を生きて知っているのは三人だけだ。 


 つまり主上、親衛隊長。 そしてもう一人は…、




 話は数ヶ月前に戻る。


 覚悟を決めた繭月は死を賜る直前に来るはずの痛みが一向に来ないことにいぶかしんで瞳をあけた。 


 彼女を罪を断罪する刃は足元に振り押されて、その切っ先は地面に埋まっていた。


「…これにて逆賊はすべて討ち取った」


「見事でございました。 確かにこの剣星が見届けました」


 言葉とは反比例するような仏頂面で剣星が叫んだ後に大きくため息をつき、

 

「主上、本当によろしかったのですね」


 苦虫を噛み潰したような表情には憤りも噛み締めているようだ。


「そんな顔をするな、お前も納得してくれたではないか」


「ええ、主上の望むことに勤めるのが臣としてのお役目でありますからね」


 それでも剣星はそれ以上は言わず、せめてもと最後にもう一度大きくため息をついて剣を納めた。

  

「主上の酔狂には慣れたつもりではありましたが…器は底が抜けてるのですね」


 強烈な嫌味に『陽』が苦笑する。 主と臣としてだけではない、親愛の深さが伺い知れるようだ。


「…私の罪をお許しくださるということでしょうか」


 やっと事態を飲み込めた繭月が問いかけると、


「許すもなにもあるか、お前は私の命を救った。逆賊の娘はこの俺自らが討ち取ったのだ、いったい何の罪があるだろうか?」


「慈悲を頂きまして…ありがとうございまず、しかしそれでも罪は罪でございます、どうか私に死を賜りたく存じます」


 自身に罪は無いと言い、命を救ってもらえた。 それ自体は望外の望みであると他人は言うだろう。


 しかしそれは繭月にとっては嬉しくはない裁定であった。


 いったい罪を不問にされてこれからどうやって生きていけばいいのか?


 彼女の人生の半分以上は叔父からの呪詛のような復讐であった。 だがそれはもう終わった。 


 課せられた使命を自らが破棄することによって。


 それは本意ではなかったとしてもそれが彼女の生きるうえでの目標である悲願と規定されていて、少なくともここ数週間を除けばそれだけのために生きてきたのだ。


 そしてそれらすべてを投げ出しても惜しくない幸福に包まれたというのに。


 そう思えば、ここで死を賜ったほうが数段マシに思えた。


 もしかしたらそれ自体がお前の刑罰だといわれているような気さえする。


 だが主上である『陽』の言葉は予想外で途方も無いことだった。


「お前はこれから宮城に入ってもらう…そうだな、数ヶ月は貴人としての振る舞いと教育をされて…そのあとお前は私と一緒になってもらうぞ」


「そ、それは…どういう…」


 意味がわからなくて半ば呆けたように問い返すと、彼は本当に楽しそうな顔をして、


「なんだ、お前でもそんな顔をするのだな…有り体にいえばお前は私と婚姻を結びこの国の后妃となってもらうだけだ…だから婚礼の品を渡したのだぞ?」


『はっ?』


 言葉が重なった。 繭月と剣星の二人だ。


「主上!そんなことは聞いていませんよ!いくらなんでもそれは無謀…いや馬鹿な所業だ」


 驚きのあまりに敬う言葉遣いすら忘れた剣星が主上に詰問する。


「剣星がそんなに肝を潰す姿を見るのも久しぶりだな…よいぞよいぞ、実に楽しいではないか」


 かんらかんらと大笑する。


 それでもなお考え直すように換言し続ける剣星の口元に右手を突き出すと、

 

「まあ聞け…この国は武官が強すぎる…なので武と文の仲が非常に悪い!」


「それはどこも一緒です!それがこの娘と何の関係が…!」


「…それゆえに派閥争いが水面下で激しくなっているよな?お前も言っていたではないか」


「ま、まあ…それは…確かですが…」


「それで今回の俺の婚姻問題だ。文官どもは大商人の娘を輿入れさせようと暗躍するし、武官は隣国の姫を迎え入れ、大義名分をもって隣国の問題に足を踏み入れようと画策する…どちらを選ぼうとも内部の争いは強く根深くなっていくだろう」


「…つまりは主上はこれ以上、臣同士の争いを望まないと?」


「望まないとはいわん。各派閥同士の引っ張り合いが無ければ政の緊張感は弛緩していき腐敗していくのだからな…その変は矛盾しているようだが必要なことだ、例えるなら井戸の水のようなものだ」


「つまり井戸の水が抜けていけば渇水に困る、ですが抜けていかなければ滞留した水は腐敗し使用することも出来なくなるということですね」


 繭月が横から補足説明する。 その答えが正しいと証明するようにニコリと笑い首肯した。


「そのとおりだ。見ろ、我が后はなかなかに政の要所がわかっているではないか」


「だからこの者が必要であると?臣にはわかりませんな、新しく井戸に入る水路を確保してもそれが清潔でなく、ましてや毒であるならば遠からず死にますよ?」


 剣星の言葉の底位には繭月に対しての不信があった。


 彼の立場からしてみれば当然の懸念である。


 族滅され、没落した一族の娘。


 先ほどまで帝に害を与えようとした一味でありながらあっさりと育ててきた叔父を裏切って自ら殺すような人間を信頼しようなど出来るはずがないのだ。


 常人ならばそうだ。 だがその常識すらあっさりと捨てられる主を短くは無い期間を仕えてきた剣星は否定することが出来ない。


 決して愚かではない、しかし愚かとしか言えない突拍子も無い行動をするので、その度に彼はそれに振り回されてきた。

 

 だが不思議とそういう当たり前ではないことをしても最終的には悪くない結果となるものだから彼はその真意を深く考えないようにしてきた。


 でなければ身体と精神が持たん。  


 それが彼が主に対して考えに考え抜いて得た結論だった。


 事実として今回の陰謀を露見させたのも主の計画ではある。

 

 繭月が粛清された一族の娘でその正体を見破り、それによって黒幕が彼女の背後に居ることも看破したのも主だ。


 しかしながらそれでも今回の判断には反対といわざるを得ない。


 羽のように自由で軽やかな『それ』は逆に言えば風向き次第でどこかへと吹き飛んでいってしまうような危うさがある。


 だからこそ反対する。


 信じるだけでは足りず、疑うには重い。


 その相反する想いを彼は主に対する忠誠と親愛によって考えのまま発言し続ける。


 それこそ先ほどの例えのように井戸の水が腐らないために。


「なるほど、剣星の懸念も正しいと思う。新しい『モノ』を入れるのはいつだって不確定であり、それが将来を蝕むかもしれんな…けれどな…」


 わずかの沈黙。 元暗殺者と忠臣、互いの立場の違う両者が御言葉を等しく待っている。 


「それを防げぬような愚物が治める国など滅びてしまえばいいのだ」


 あっけにとられた二人は何も言えない。


 幾百年も続き万人を治める国のトップの放言は両者の思考の死角を突き立てて何も返すことが出来ない。


「何よりこれで新しい派閥を立ち上げられるのだ、ああそれとな繭月よ、お前の一族な…まだ完全に途絶えてはいないぞ?」


「そ、それ…は本当ですか?」


「ああ、傍流の傍流だけどな…だからこそ粛清から逃れられたともいえる。とはいえそれでも冷や飯食らいでな、下級の官僚が大多数だ、この意味がわかるか?」


 まるで悪友のような気安さでニヤリと笑う。 


 そしてその問いかけは繭月だけではない。


 彼の一番の側近である剣星にも問いかけられているのだ。


 二人は主の真意を考える。 そしていち早くその意味を理解したのは繭月だった。


「下級官僚であるならば、当然その仕事の大半は実務でありましょう。実務に長けた政策集団がいる…ならばそれらが団結すれば…」


「そうだ、実質の武力を持つ武官、政務を司る高級官僚、そして実務に長けた政策集団とに派閥は別れる。まさに三竦みだな」


「お待ちください!帝自らが派閥を作り上げるなどと…それにそれらをどうやって掌握するのですか!何より冷や飯食らいの連中がいまさら皇室に忠誠を…まさか…」


「つまり私にそれを掌握、管理せよと仰られているので…ふみゃっ!」


 唐突に『陽』が繭月の頬を両側から挟みこむ。 そのせいで妙な声を挙げてしまった。


「然り、まさに然り…だ。やはりお前は賢いな!それもまたお前を后にする三つの理由の三番目なのだ!」


「私は反対です!今までは二つの派閥だから拮抗していたのですよ!三つに別れても片方がどちらかを味方にすれば潰されてしまいます!無駄な争いが増えるだけです!」


 困惑を通り越して泣き出しそうな剣星の言葉を待ってましたと言わんばかりに胸を逸らせた『陽』はまた口を開く。


「それもまた考えている!武官と官僚達は手を組むことはまずありえん!なぜなら両者の対立はこの国の成り立ちから始まっていて根深い、それに互いの利権は重複されて散々奪い合ってきたのだ、その調整ですら至難の業だぞ?なによりこの俺ですら諦めたくらいだ」


「それでは、その実務に長けた新派閥がどちらかに着いた場合はどうするのですか?」


 繭月が手を挙げて質問を投げかける。 


 その瞳はすでに落ち着きを取り戻していて、まるで優秀な生徒が教師の言いたいことを察して補足するような問いだった。


「当然有り得んな!派閥は出来たばかり、粛清された恨みと不信は消えておらん、そして何よりも…権力の後ろ盾が無い」


「…その後ろ盾に私がなれと?」


「それは危険ですな、その盾の裏側には刃が仕込まれているかもしれませんから」


「…わかりやすい例えをありがとうございます、剣星様」


 剣星と繭月が視線をぶつけ合う。   


「残念ながら俺にはそれが出来ん、なぜなら信用されないからだ。今回の陰謀に加担しているものさえいるかもしれん」


「それは…まあ、そうですな」


「剣星様、どうして私を見るのですか?」


「いや…別に、何も…」


 わざとらしく視線を背けるのが如実に何を言いたいかを表している。


 やはりこのお方は私を嫌っているのだ。


 私も当然嫌いだけど。 


 二人が互いを嫌いだと認め合っているその間にも『陽』の演説はますます熱を帯びて情熱的になっていく。

 

「派閥には仕切る人間が必要だ。それも頭がキレて信用されるくらいのな、それが零落した者達の一族ならば連中も何も不満は無いだろうさ、何しろその後ろ盾で失った栄華を取り戻せるのかもしれないからな…それがお前を許し、正室に迎え入れる第2の理由だ…わかってくれたか?」


 興奮冷めやらぬように繭月の肩にガッシリと手を置く。


 その場所は偶然にも先日に叔父が彼女に呪いのような痣を就けたところだった。


 まだそれは残っているはずなのに不思議に痛みは無い。 むしろまるで浄化されるように暖かった。


 それでもやはり彼女の決意を揺るすにはまだ到底足りない。


「…仰りたいことはわかりました。 しかしそれは私にとって到底務まるものではありません、やはり死を…」


「待て、待て! そう、早合点するな。まだ最大の理由を言ってないだろうが…!」


「えっと主上、よろしいですか…」


「どうした?剣星…これからが大事なところなのだ!」


「なんというか…ですね、いい加減ダラダラと理由を見繕ってないで、素直に言えばよろしいのではないかと」


「……?」  


 困惑する繭月をチラリと見て、わざとらしくため息をつく。


「ようするにだ…主上はだな…まったく臣には理解できないうえに狂ってるとしか思えんが…」


「待て!その先は言うな!」


 慌てて剣星の口を塞いで地面を転がりあう。


 ああ、もう! 今日は感情の揺れ幅が大きくてくたびれてしまう。

 

 それでも繭月は『陽』の言葉を待った。 


ここまで聞いたのだからもう何を言われても感じないだろうと確信して。


「俺がお前に婚姻を申し込んだのはな…その…第一の理由は至極当たり前のことだ。

…繭月、お前を愛しているからだ。」


 それを訊いた繭月の顔から表情が消える。 そして幾秒かの沈黙の後に涙を流して泣きじゃくリ始めた。


「…おお、喜んでくれるのか…って喜んでいるんだよな?」


 返事を返してくれない繭月に不安になった『陽』が親友に問いかける。


「知りませんよ」


 剣星ももうくたびれ果てていた。


 結婚してくれと一言言うのにどれほどその利益と理由を並び立てるつもりなのだ。 


 自分が女ならばとっくの昔にやかましいとひっぱたいているところだ。


 政や謀の類には非凡なところを見せるがこういった情緒的なところで悪い意味で非凡さを発揮してどうするのだ。


 それでも腐っても主だ。


 親友でもある。


 この女狐を見つけてからずっとこの娘のことばかり話している姿を見ている。


 だからその願いが成就されることを祈る気持ちは確かにある。

 

 だがこれだけの悪手をし続けて、果たして死ぬつもりの少女を引き止めることが出来るのかはわからない。


 どちらにしろ早くこの茶番が終わればいいのに。 


 いまはその気持ちで一杯だった。


 一方、決して短くは無い間、泣いていた少女はやっと落ち着きはじめて、婚姻の願いの返事を紡ぎ始めた。


「…多大なる慈悲とこの上の無い望外の喜びではあり…ますが…やはり私はいと尊きお方からの死を願います」

  

 やはり固執する気持ちを変えることは出来なかったようだ。 


 もちろん少女は嬉しかった。 嬉しくないはずがなかった。


 無垢な子供の頃を覚えていて、自身の名前を忘れずにいてくれ、そして呼んでくれた愛しい人。 その人からの愛しているという言葉。


 先程の大演説ですら、ただの大いなる照れ隠しであることも理解していた。


 それでも彼女はそれを受け入れることは出来ない。 嬉しいからこそ自身が行おうとしたことを許してもらいたくはなかったのだから。


 ただ願うことは死。 自らの死。


 今までの苦労や恨みなど一欠けらも残らないただ幸せに満たされたこの幸福のまま人生を終えたいと彼女はなおも懸命にあがない続ける。


 『陽』は彼女からの断りになんら怒りも失望も顔に浮かべない。


 だがまるで子供の可愛らしいわがままを愛でつつも困ったような声で、

  

「まったく…お前は俺に愛する女を二度も殺すなんてことをさせるつもりなのか?なんともひどい話ではないか」 


 とたんに伏せていた顔を上げる。 彼女が決して忘れたことの無い人がいた。 


 殺せと教育され続け、焦がれ、焦がれて夢で見て今までの生の意味を作ってくれた好きな人、愛しい人、大好きな人が存在している。  


 チラリと剣星を見れば忠臣は複雑な表情をしながら視線を逸らす。


 つまりは『勝手にしろ』という意味だった。


 だから彼女は幸福なる死を捨てて、孤独でもない『違う道』を選んだ。


「…婚姻の儀、謹んでお受けします…臣として妻としてあなたに永遠に仕えましょ…っきゃっ!」


 不意に『陽』が彼女を抱きしめたので、少女らしい声を上げて驚いてしまった。


「こんなときまで堅苦しいことを言わないでくれ!男が惚れた女に告白をしたのだ、立場も官位も関係ない、同じ人と人、男と女、そして俺とお前なのだ、ただ正直に思いのままの言葉をくれないか?」


 彼の身体は熱くて、耳は少し赤くなっていた。 それは夜の帳でもよく見える。


 万人の上に立つ青年の飾り気の無いまっすぐな言葉は自らの死を願う決意すら打ち抜いた。


 ほつれてボロボロになった積年の思いは心底からただ一人の少女の言葉として喉を通り、愛する夫の真名が口からほとばしる。


「大好きです!、龍見様」


 緻密に紡がれ、何年もの間築き上げられた復讐計画の終焉は少女のその言葉で締めくくられた。


 天頂には月だけがある。 


 時と共に欠け続けて新月に消えてしまっても同じ時間をかけて欠けた箇所を補修しながらそれは満たされ、やがては夜空に丸く納まるのだ。


 そんな当たり前を証明するように運命に隔たれた少女と青年は十年以上もかけて結局のところ行き着くべき場所へと納まった。




 婚礼の儀は滞りなく進んでいき、そして終わった。


 華やかな宴の終焉は伝統通りに万雷の拍手で締められたが参加者の大多数が祝いの気持ちなどない。


 鳴り響く音は空しく響き、高座に鎮座する受動者の女は眼下に位置する者達よりもなお磨かれた笑顔で手を振っていた。


 なんて空々しくて恐ろしい光景。


 まるで巨大な獣の咆哮にも似ている。


 さしずめ自分はその獣に捧げられた生贄とも思えた。


 もしくは強大な権力が動くために作られた部品としての役割、そしてその恐怖と重圧をヒシヒシと突きつけられている。


 それでも…。 それでも……だ。


 横を見れば夫がいる。 この国で最も偉く高貴な大いなる部品。 それ以外に生きられぬ悲しき人がその心を開いて私と一緒にいてくれと願ってくれたのだから。


 ならば私はそれを全うしよう。 私は彼の付属品にしか過ぎない。 


 国という機工の中で自身をすり減らし続ける愛しい人への支えになるのだと決意を新たに誓う。


「これより先は後宮となるので臣が案内しましょう」


 広大な宮城の一角の入り口。 待っていたのは宮女ではなく親衛隊長であった。


 そそくさと共回りの者達は去っていった。


 後に残されたのは親衛隊長である剣星と后である繭月だけ。


「…上手く化けたモノだな、女狐」


「…お褒めの言葉と捉えさせていただきます…剣星様」


 誰も居なくなったとたんの嫌味を軽やかに受け止める。


 この数ヶ月、宮城に入ってずっと貴人としての教育を受けていた。


 その際に警護としては常に剣星が着いていてくれたので、もはや彼の性格も嫌味にも慣れきった。


「主上は寝室でお待ちだ…行くぞ」


 そう言って返事も聞かないで歩き出す。


 帝の妻への態度としては大いに無礼であるが、入宮してからの歯が浮くようなおべっかと急遽望むべくも無かった出世の機会に大挙してやってきた一族らの女々しい泣き言に比べれば剣星の変わらない態度は大いに気が楽であった。


「さて悲しくもこうして婚礼を済ませたお方に最初の忠告を臣から申してもよろしいですかな?」


「ええ、謹んでお聞きしますわ」


 諧謔染みた物言いではあるがその視線は鋭い。


 言われたほうも何を言われるかは大方予想していたからか、その返しも軽い。


「臣はあくまで主上に仕えておりますゆえ、御身が主上の害になると感じたなら遠慮なくその素っ首叩き落すので…お覚悟を」


「ええ、そう思えたならいつでも私をお斬りください、そうならないように誠心誠意、龍見様にお仕えしますので」


「……ふんっ、つまらん反応だな」


 物騒な物言いと視線でそれが冗談ではなく本気だと理解してなおもそう返事する繭月に剣星は悪態をつくが、その言葉はいくぶん嬉しそうだった。


 臣と主の妻というよりも、なにか喧嘩友達のような悪友のような空気を二人が包み込んでいる。


 しかしそれ以降はお互いに口を開かずに寝室へと向かった。


「ここが寝室です…では臣はこれで、せいぜい今日くらいは休まれよ」


 そう言って立ち去っていく剣星の背中をじっと見つめながら彼女は少しだけ驚いていた。


「少しは優しいこともいえたのですね」


 だがすぐにそんな感情など追い出して、純金で掘り込まれた二つの龍が描かれた扉をそっと扉を開き。


 今日、はじめての少女らしい声で


「失礼…します」


 と入っていった。


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