第6話

暗い部屋の中、一人の老人がいた。 ブツブツと何かを祈っている。 額に汗を滲ませて何事かを口ずさんでいる。


 ふと扉が開く音が聞こえる。 すぐに向かうと、そこには少女が一人立っていた。

 

「…ただいま帰りました」


 泣きはらした瞼とやや枯れた声をして、片手には匕首を持っている。


「おお!良くぞ帰ってきた、帰ってきてくれた!」


 老人がヨタヨタとしながら少女を強く抱きしめる。 首尾の可否を聞く意味も無い。


 こうして戻ってきたのだから悲願は成功したことは間違いないのだから。

 

「疲れただろう、辛かったであろう、だがお前は正しいことをしたのだ!さて夜も遅いが今のうちに街を出るとしよう。すでに手はずは整っているから今すぐ合図を送ろう!そうればすぐに迎えが来るはずだ、ああなんと今日は良い日なのだろう。 我が宿願が叶えられたのだ!」


 子供のように大はしゃぎする老人の胸元に不意に繭月が飛び込んできた。


「どうし…?ぐはっ!な、なぜ…お、お前…」


 老人の胸には匕首が刺さっている。 先ほど彼が彼女に持たせた刃だ。 


「ま、まさ…か…お前…」


 老人が倒れこむ。 血はボトボトと流れ落ちて床を染め上げていく。 そしてそれを老人が育て上げた刺客が見下ろしていた。


「叔父様…もうしわけありません。やはり主上を害するのはこの国の為になりません」


「う、裏切った…か、こ、この恩知らずが…一族の誇りを…恨みを…忘れ…呪われよ!お前は…死ぬまで…この不忠の…咎を……」


 事切れた老人の瞳は見開き、その中に繭月という名を一度は失った少女の姿が映っている。


 開いた瞳孔の中に閉じ込められたように写った少女は薄っすらと笑っていたが、すぐにユラリとした足取りで玄関を出て行く。


 そこには二人の男が立っていた。


 一人は金でもう一人は『陽』だ。


「首謀者は死んだか?」


 金が問いかけると繭月が「…はい」と小さく頷いた。


 彼はすでに事情を知っていたようだが、肉親を殺して平然としたように見える少女の姿にいささか不気味なものを感じていた。


「追って協力者も捕縛されるだろうが、まさかここまで大規模であったとはな」


「だがこれでやっと俺も宮城に帰れて剣星も一安心だろ?」


「主上があちこち出歩かなくなったという意味では大いに安心ですよ、それにやっとその偽名も外せることになりましたしね」


 金という名前は偽名である。 その正体は主上直属の親衛隊長であり、『陽』とは昔からの付き合いというのは正しかった。 


 結局のところ暗殺計画はかなり前から漏れていたのだ。 


 だがその首謀者が誰で、またどこまでが関わっているのかは謎だった。

 

 首謀者は繭月の叔父であったが、さすがに陰謀家としては昔取った杵柄というべきか、かなり複雑で巧みに隠されており、宮城の中でさえ少なくない人物が怪しまれていた。


 そのことを繭月は『陽』から直接聞かされた。 


 月明かりの下、彼に抱きしめられ、命を救われた後にだが。


 あの瞬間、音も無く背中から切りかかられた彼女を救ったのは『陽』だった。


 剣星からしてみれば何が起きたのかわからなかっただろう。


 暗殺者から主を守ろうとしたのに、その主が暗殺者を守ろうとしたのだから当然だが…。


「とっさに私が剣を投げ出さなかったらどうするつもりだったのですか?」


 非難めいた瞳に、『陽』は飯店に居るときのような軽い口調で、


「信じていたからな…剣星ならばそうしてくれるはずだと」


「ならばその娘に刺されないと思ったのも信じておられたのですか?」


 ギロリと繭月をにらみつける。 彼女も自身の立場を忘れてコクコクと頷き、『陽』に視線を向けると、


「ああ、勿論だとも、信じていたさ」


 こともなげにそう答えるものだから二人は絶句してしまった。


「…まあ、無事だったのだからよかったではないか」


「良いわけないでしょうが!」


 ひとしきり説教した後に頭が痛むのか額に指を当てつつ、嘆くような愚痴を吐く。


「主上の頭が大分大らかなのは理解はしていたつもりでしたが…今回の計画だって正気の沙汰とは思えない…まさか自らが出張ってくるとなんて…」


 繭月でさえ、真相を聞いたときには卒倒しそうだったのだから、直属の部下である剣星がそういうのも無理は無い。


 陰謀の相手も計画の糸口すら見つからなかったが、どうにかそれが市井の中に紛れているらしいと報告された主上は「ならばおびき出せばよい」と言って自ら虎口に進み出たのだ。

 

 折りよく婚姻攻勢にうんざりしていたこともあってそれを利用することにした。


 だから自らを真都からやってきたとある商人の息子として偽り、護衛として剣星も兵舎に強引にねじ込んだ。


 もちろん全ての人間には真実を伏せて。


 婚姻の噂をばら撒き、近く来るであろう婚礼の日の為と偽って兵士を増強させた。


 その中の一部には密偵を忍び込ませて市中に網を張る。


 また自らが兵舎に居ることで情報の集約化を図りつつ同時に物理的かつ人事間の距離を短縮させることですばやく動けるようにした。


 そこまでやってもなお、核心的な情報は掴め切れなかったそうだが…。


「まったくさすがはかつての名家だな…おかげで随分と骨が折れた」


 隠すことも無い嫌味と表情で繭月に言い放つその様は、今までの態度が演技でなかったことを証明している。


「結局のところは主上が自ら立案し、自ら陰謀の尻尾を掴んだのだから臣は何のために苦労したのだか」


 愚痴めいた嫌味を垂れ流し続けるが、『陽』は聞き流し、繭月も知らぬ顔をしている。


「何を言ってる?お前のおかげではないか…お前が繭月に因縁を吹っかけたことがそもそものきっかけではないか」


「それを言ったら主上が勝手に酒を注文したのがはじまりでは?」


「だって暇だったのだからしょうがないではないか」


 子供染みた言い方。 そういえばこんな人だったような気がする。


 いや、そもそもそれは子供の頃の話なのだから当たり前か。


 いずれにしても私と叔父の計画を破綻させたのは結局のところは私だったということではないか。


「…主上、一つ訊いてよろしいですか?」


「うん?ああ、いいぞ」


 やはりこの人は変わっていなかった。 飯店での砕けた態度はあれでもこの人にとっては随分と演技していのだ。


「私が『私』だといつ気づいたのですか?」


 いま思えば想いを捨てきれずに演じ切れなかった自らの『純真さ』に自嘲すら覚える。 


 だがせめてその致命的な失敗の瞬間だけは知っておきたかった。 それくらいは許してもらいたい。 


 朝を迎えられぬ短い命なのだから。


「そんなもの最初からに決まってるだろ?」


「えっ?」


 それは意外な言葉だった。 しかし『陽』もまた心外だと言わんばかりに驚いている。


「俺がお前を見て、わからぬはずがないだろう?」


 …なんだ私は自らの『純真さ』を捨てきれずにいたというのにこの人は捨てることさえせずにずっと持ち合わせていたのだ。


「…そうですか、そうなんですね…フフフ、ありがとうございます」


 もはや心残りは無くなった。 葛藤もわずかに残った怨嗟も罪悪感もすべてが綺麗さっぱり洗い流されてしまった。


 あるのはただ、ただ喜びだけだった。 


 涼やかで軽やかに、まるで風に揺れる鈴の音のようにすべてが澄み渡っていた。


「ところで剣星様、首謀者は死んだといいましたね?」


「ああ、なんだ女狐…その通りだろうが」


 ……少し心に怒りが残った。 けれどまあいい、何も持たずに逝こうと思ったが、余計な泥くらいはついてもいいだろう。


「首謀者はまだ残っていますよ?」


「…どこに居る?」

 

 剣星の顔が強張った。 だがすぐにそれは戻った。 意味を察してくれたようだ。


 剣を静かに抜く。 その切っ先はもちろん繭月に。


「帝の暗殺計画を企てた者は死刑だ、例外なく…な」


「最後に何か言い残したいことはあるか?」


 『陽』が問いかける。 その言葉は最後まで優しい。 繭月は少しだけ考えてから答えた。


「得に何も…ああ、せめてもの温情をいただけるなら主上、自らに切られとうございます」


「…本当にいいのか?」


 コクリと頷く。 剣星が自身の剣を『陽』に手渡す。


 すべては夢のようだった。 随分と長く悪夢を見続けてしまったことで疲れ果ててしまったが、最後の一夜に幸福な夢を見れたのだ。


 それだけで良かった。 それだけで今まで生きてきた意味を見出せた。


 かつて自らが言った言葉。


『祖先から受け継いできた『想い』を違えて孤独に進める者など滅多に居ないでしょう』

 

 その道を違えても進める一人に私はなったのだから。

 

 『陽』の顔をじっと見る。 彼もまた同じように見る。


 まるで恋人のように。


「繭月…もう少し出会うのが早ければこんな形になどしなかったのにな」


 ああ、私の名前。 本当の私。 優しい方。 好きな人が何も変わらずに、あのときのままであったことがとても嬉しい。 


「約束の品、ありがとうございました」


 瞳を瞑る。 言葉の終わりと同時に刃は振り下ろされた。


 こうして大罪人である一人の女は死んだ。


 静かな夜。 まるで切り捨てられたかのように欠けた半月がただ地上を見下ろしていた。

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