小牧原美心はいただきますが言えない 18

 男の子が泣いていた。

 教室の真ん中で、机に顔を伏して背中を丸めている。

 雪輝はその背中を見下ろしたまま動けない。

 痺れた腕が他人の物の様に感じるように、その全身が違和感を訴えていた。

 そして息遣い程の泣き声だけが、雪輝にハッキリとした感覚という名の輪郭を与えている。その異物のような輪郭が、耳に傷を与えながら通り抜け、脳に突き刺さって意識を刺激する。


「起きろ雪輝」


「おい、起きろって」


 どこからともなく教室に響いたその声に、雪輝は覚醒へと導かれた。


「……んっ。親父?」

 目を覚ますと、襖の向こうから呆れ顔で睨む、煙草をくわえた父親と目が合った。目頭に溜まった水分を手で拭うと、あぁ、またあの夢かとため息をつく。

「たっく。昨日は珍しく早起きだと思ったのに、また寝坊かよ」

 そう言われて慌てて時計を確認する。時間は七時少し過ぎ、別に寝坊と言うほどの時間では無かった。

「いつも通りだろ」

「ぁあ? でもお前、友達が迎えに来てるぞ?」

「友達?」

 雪輝は目を擦って窓から下を見た。するとそこには、学ランとはミスマッチな可愛らしい顔が、二階を見上げて手を振っている。


「……リョウ? なんで?」


 そう呟いて首をかしげる。

「なんだ、約束してたわけじゃねぇのか? まぁいい。オレは配達に戻るからな。果林ももう今日は先に大学に行ってるし、ちゃんと母さんに手を合わせてから戸締りして学校行けよ」

「おう」


 寝ぼけた声でそう答えると、父親は襖も閉めずに出て行った。

 しばらくすると車のエンジン音が聞こえ、雪輝は窓から外を見た。吉祥寺青果店と印字された父親の白いワンボックスカーが離れていく。するとそこにさっきまいたはずのリョウの姿も見えない。どこに消えたんだと考えを巡らせていると、今度は家の中から「テルー?」と自分を呼ぶリョウの声が聞こえてきた。


「ごめんね、急に来て」


 開けっ放し襖からリョウが顔を出してそう言った。

「あ、いや構わんが……どうしたんだ」

 雪輝は昨日の昼休みの終わりにあった出来事を思い出す。思い出すと少し気まずくて、上手く言葉が出ない。

「……話したいことがあって、久々にその、一緒に登校しよっかなぁって」

 リョウの方も言葉を探りながら話しているのか、少し間延びした口調になっている。


「……支度するよ」


 雪輝は立ち上がり、洗面台に向かって歯を磨く。顔を洗ってリビングに向かい、机の上に置かれていた果物を立ったまま適当に腹に入れて、仏壇の前に腰を下ろす。その様子リョウはずっと眺めていた。

「おい、そんなジロジロ見んなよ」

「ごめんごめん。これがテルのモーニングルーティンなんだなぁって、普通に鑑賞しちゃってた」

「気持ち悪い事言うなよ」

「あはは」


 背後で聞こえるリョウの乾いた笑いを無視して、雪輝は手を合わせて目を閉じた。


「その人、テルのお母さんなんだよね」

「あぁ。俺を産んだ時に死んだらしいから、会った事は無いけどな」

「そうだったんだ。初めて聞いた」

「言ってなかったか。まぁそっか。別に話すようなことでもないしな。着替えるから店の前で待っててくれ」

「分かったよ」

 リョウが出て行き、雪輝も立ち上がる。適当に折りたためられたシャツを手に取って、着替えを始める。昨晩脱ぎ捨てたはずの学ランがハンガーにかけられており、姉の残した「シワになるでしょ!」というメモを剥がしてそれを羽織る。


 吉祥寺家は二階が住居、一階が父親の営む青果店の店舗になっている。

 階段を降りると、甘さと少しの青臭さの混じったような独特な匂いと冷たい空気が、その脳を完全に目覚めさせてくれた。この感覚が雪輝は好きだった。


「またせたな」

 雪輝は通用口の鍵を閉めて言った。

「全然。いこっか」


 二人は歩き始める。

 しかし、しばらくの間会話が生まれることは無かった。二人とも少し気まずそうに、街の景色を見ながら歩く。リョウの顔立ちや身長差から、その光景はさながら付き合いたてのカップルの様にも見えた。


「……あのさ」

 先に口を開いたのはリョウの方だった。


「何?」


「その……ごめん」


 リョウは立ち止まってそう言う。彼の足が止まっと事に気づいた雪輝も歩みを止め、振り返るとリョウは頭を下げていた。


「あっ、ちょ、なんだよ急に」

「あの日の事。タケっちと僕が馬鹿みたいなことしたせいなのに、テルが全部悪い事になってるだろ。だからホント、この一か月なんて謝ればいいんだろってずっと考えてたけど……その、やっぱごめんとしか言葉が見つからなくて……本当にごめん」

 素直に頭を下げるリョウを前に、雪輝は眼球が小刻みに揺れる。

「ちがっ……アレを謝らんなきゃなんねぇのは俺の方だよ。殴ったのは……どうかしてた……。俺の方こそ、本当にごめん」

 雪輝も頭を下げる。目だけではなく、今度は膝から震えが昇ってきているのを全身で感じた。


「なぁリョウ。俺の事を殴ってくれ」


「はぁ?」

 驚いた顔で頭を上げる。

「俺も色々考えたんだ。これでチャラになるとは思ってねぇけど、それでも殴って貰わないと終われない気がするんだよ」

「だからあの事件は確実に僕らが悪かったんであって――」

「関係ない。理由はなんであれ、一発は一発だろ」


 雪輝がそう言うと、リョウはため息をついた。


「はぁ……テルもタケっちも、そういう青春バカみたいなトコ何とかしてよね」

「……頼む」

「……分かった。じゃあ一発だけね。その代わり、遺恨が無いようにみぞおちに本気でいくからね」

「来い」


 リョウはサイドバッグを道路に下ろし、指をぽきぽきと鳴らした。雪輝も固唾を飲み腹を差し出す。


「いくよ」

 と声をかけて拳を振りかぶる。雪輝が目を閉じた瞬間に、みぞおちの少し上、胸骨に重い衝撃を受けた。


「いったあああいっ!!」


 と、声を上げたのは雪輝ではなく、リョウの方。


「うぐっ」

 しかし雪輝の方も膝を折り、低い声を漏らす。

「くぅぅ……手が折れるぅ。やっぱ僕が殴ってもこうなるって」

 リョウは目に涙を浮かべながら、殴った右手をプラプラとさせた。

「……俺も、痛い」

「大丈夫? テル」

「あ、あぁ……」

「はい、これでお終いね。仲直りって事でいいかな?」

「お、おう」

 雪輝は膝を立て直し、息を整えた。

 すると……


「テルー!」

「うわっ」


 リョウが飛び掛かってきた。せっかく立て直した膝が、がくりと再び崩れる。

「ちょっ、なんなんだよ」

「テル~テル~」

 彼の名前を連呼しながら、リョウは背中に抱き着いて顔を擦り付けた。

「やーめろって、鬱陶しい!」

 そう言って引っ付き虫の様に離れないリョウの顔を引き剥がそうと、背中との間に手を突っ込むと、そこに水気を感じた。

「……リョウ」

 手に着いた水分は彼の涙だった。

「あはは、ごめん。嬉しくってつい……」

 腰に絡めた腕を離して、苦笑いを浮かべる。


「……ホラやっぱ簡単じゃん。仲直り」


「……だな」

 リョウとは顔を合わせず、雪輝は前を向いて小さく頷いた。

「全く、タケっちもテルも考えすぎなんだよ。そんで不器用すぎ。青春バカすぎ」

 リョウはサイドバッグを拾い上げ、二人は再び歩き始めた。


「この一か月さ、何度もテルに謝ろうと思ったんだ。でももう嫌われていると思ってて、怖くてうじうじしてた。それで昨日会った時、テルの顔見て気づいたんだ。テルも同じなんじゃないかって。僕たちの事嫌いになったんじゃなくて、僕たちと同じように、嫌われていると思ってるんじゃ無いかって」

「……同じだったんだな」

「うん。それで意を決してテルの家に来たんだけど……本当に来てよかったよ」

「その……ありがとな」

「いいって。それに、小牧原さんに背中を押されたっていうのもあるんだ」

「美心が?」

「うん。昨日のあの後、早く仲直りしなさーいって怒られちゃって」

「あぁ……礼言っておかないとな」

「だね」


 二人の話し方に気まずさや、言葉を選んでいるような感じは消えていた。お互いにそれが分かって、懐かしさと嬉しさが込み上げる。

 だからこそ、この場に足りないもう一人が気になった。


「なぁ、タケルは……」

「……」


 リョウが黙り込む。


「ホラあいつ、テル以上に不器用だから……。ずっと自分を責めている。というか責めることで苛立ちを紛らわしてるんだと思う」

「苛立ち?」

「そう。自業自得で鼻を折られて、なのに自分は完全に被害者になっている。クラスで優しい言葉をかけられる度に、アイツのプライドはズタズタさ。もちろんテルと東雲さんに対する、申し訳ないという気持ちは持ち合わせているよ。けど、それ以上にただ、自分の惨めさに苛立ってるのさ」

 呆れたような、悲しいような顔でそう言う。

「タケルの事よく分かってるんだな」

「幼稚園の頃からの付き合いだしね」

 あははと小さく笑った。


「なぁテル。タケっちはどうしようもないバカだけど……僕はまた三人で前みたいに過ごしたいんだ。何とかしてやってくれないかな」

「タケルと話せるか? その、二人で」

「テルには会いたくないっぽいからどうだろう……。僕が誘い出そうとしてもすぐバレると思うしなぁ」

 すると雪輝顎に手を当てて唇を曲げた。

 しばらくするとその口角が上がり、ニヤッと怪しげな笑みを作る。


「考えがある」

 そう言って雪輝はスマホを取り出した――





 時間は経ち、二限目の授業が終わる教室。

 休み時間の喧騒の中、リョウは落ち着かない様子で窓の外を眺めていた。

(テル。考えがあるとは言ってたけど、あれから何も起こらないし、一体何をするつもりなんだろう……)

 と少し不安そうにしていると、その背後に大きな影が迫りくる。


「おいリョウ……」

 振り返るとそこにいたのはタケルだった。大きな体を丸め、何かを隠すように小声で声をかけてくる。

「ど、どうした?」

「ちょっと出れるか?」

「うん」

 不思議そうに立ち上がり、周りの目を気にするように教室を出るタケルの後ろをついていく。

 そのまま二人は、人のいない空き教室に入っていった。


「一体どうしたっての」

「こ、これを見てくれ……」

 そう言ってタケルは一枚の手紙をリョウに差し出す。

「手紙?」


―――――――――――――――

拝啓 大宮タケル様


突然のお手紙すみません。

初めてお会いした時から、そのたくましいお体が素敵だと思っておりました。

本日の昼休み、屋上で伝えたいことがあります。

待ってますので、どうか来て下さる事を願っております。

敬具

―――――――――――――――


「こ、これってラブレ――」

「声がでけぇ!!」

「いやタケっちの方がデカいから……」

 タケルは包帯越しでも分かる程顔を赤らめている。リョウはその手紙をまじまじと見た。

(名前は書かれていないけど、この字って……小牧原さんの? もしかしてテルの言ってた考えって……これ?)

 こんな包帯大男にラブレターが来るはずがないしと、リョウは確信した。すると笑いが込み上げてくる。

「……くふっ」

「な、なんだよ、何が面白いんだ? あぁん」

「いや、その。何でもない。何でもないけど……くふっ」

「バカにしやがって。……で、お、お、オレはどうすればいいんだ……?」

 真っ赤な顔のタケルは体を縮こまらせる。

「受けるの? 断るの?」

「誰かも分からねぇのに決められるかよ!」

 タケルが叫んだ。

 とりあえず美心の字であることには気付いていないようで、リョウは少し安心した。

「気が立ってるなぁ。どちらにせよ昼休みは屋上に行かないとね」

「だ、だよな」

「緊張してるの?」

「し、してねぇし!」

 照れたり怒ったり、いっぱいいっぱいな様子を見てまた笑いが込み上げてくるが、なんとか顔には出さずに済んだ。


「な、なぁ。き、き、キスする事になるかもしれないし、包帯替えといたいいよな」

「ぶほぉっ」

 

 たまらず吹き出すリョウ。


「何笑ってんだてめぇ!!」

「そんな無茶なぁ……流石に笑うって、くははははっ」

 もう我慢の限界と言った感じに、隠す気も無く笑い始める。

「てめぇ。……いいぜ見とけよ。彼女持ちになってぎゃふんと言わせてやる」

「ぎゃふんって……」

「見とけよリョウ。春が来たぜ。がはははははっ」


 タケルは高笑いを浮かべながら空き教室を出て、廊下を闊歩する。リョウがその後ろ姿に憐みの視線を送っていると、タケルとすれ違うように美心が廊下を通った。彼女に視線を送ると、美心はぺろっと舌を出して、少し申し訳なさそうな笑みをリョウに送るのだった。




 そして昼休み。

 授業が終わると同時に、がたっと音を立ててタケルが席を立つ。

「大丈夫?」

 笑いを堪えながらリョウがタケルに声をかけた。

「い、いいい、行ってくる」

 タケルは硬直した体をなんとか動かし、廊下に出て行った。

 手紙の差出人はというと、その後ろでまだ教科書を机の中に閉まっている段階だ。行ってもそこに小牧原さんはいないぞっと、リョウは心の中でまた笑った。


「にしてもテルキチも結構酷い事するね」


 リョウの背後から美心がそう声をかける。

「いや、これでいいんだよ。僕らは元々お互いに、こういう冗談が出来る仲だったんだ。テルはそれをタケっちに思い出して欲しくてこうしたんだと思う」

「……なんか、ちょっと羨ましいかも」

「そう? ……でもそう言ってもらえると、今は嬉しいかな」

 リョウはタケルの背中を見つめながらそう呟いた。


「さ、覗きに行こう。小牧原さんはどうする?」

「行く……! 二人がちゃんと仲直り出来るか見届けないと」


 二人は十数メートル離れて、タケルの後を追った。






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