小牧原美心はいただきますが言えない 11

 教室『2-B』の掃除道具入れ。

 悪霊のクビキリさんがハサミを構えて勢いよく扉を開く。


「吉祥寺君!!」


 悪霊は雪輝に次のターゲットの名前を呼ぶ間を与えないよう、扉を開くと同時に大きなハサミを差し込んだ。

 その一瞬を見ていた來華が思わず目をつむる。


「……」


 しかし不思議な程に教室は静かなまま。

 來華は恐る恐る目を開き、掃除道具入れの中にハサミを入れたまま動かない悪霊を見つめた。


「……吉祥寺君……?」


 悪霊はゆっくりとハサミを下ろし、そのまま再び動き始める。來華は掃除道具入れの元まで駆け寄り、中を確認した。

 その中には誰もいななった。


「ここに隠れていたんじゃなかったの……」


 力が抜けた様にへたり込み、ほっと胸を撫でおろす。

 しかし、ここにいないのならどこに隠れているのだろうか。來華は顔を上げて教室の様子を今一度確認する。しかしやはり隠れられそうなところは見当たらない。しばらくすると悪霊は廊下に出て行った。


「どうなってるの……?」


 きょとんとして立ち尽くしていると、教室前方の扉の前に雪輝が立っているのが見えた。

「吉祥――」「しー」

 來華が声を上げようとすると、雪輝が慌てたように自分の口元に指をあててそれを遮った。

 そしてそのまま廊下の様子を気にしつつ來華の元まで腰を低くして駆け寄る。


「どこにいたの?」

「教室の扉の陰に隠れてた。さっきまでは教卓の下にいたけど」

「そう、よかった……掃除道具入れの中かと思ってたから死んだかと……」

「いやゲームなんだから死なねぇよ。それに掃除道具入れなんかに隠れてたらアイツの動き見えないだろ」

 雪輝は常に悪霊の動きを見ながら死角に身を隠して行動していた。


「で、あの紙はどうなった? 何が書かれていた?」

「あれは手紙だったわ。一応謎を解いて、鍵を隠したのが山岸ハナという生徒だったというとこまでは分かったけど、肝心の花とか花瓶とかが見当たらないの」

「向こうの教室にも?」

「今小牧原さんがいろいろ探してくれているけど、私が見る限りは無かったわね」

「そうか……」

「もしかしたら、私の推理が間違っていたのかもしれないわ……」

「いや、東雲の事だからきっと合ってるだろう。何か他で見落としがあるはずだ」

「見落とし……」

「隠した生徒の名前、もう一度教えてくれないか」

「山岸ハナさんよ」

「だから花か……まてよ、その人名前は漢字の花なのか?」

「……! いいえ、カタカナだったわ」

「それ変じゃないか? メタっぽい考え方だけど、ゲームの進行上分かりやすいように普通に漢字の花だったり華って名前にしておくだろ。わざわざカタカナにしてあるって事は何か理由がありそうだが」

「という事は別の変換……?」

「鼻とかは?」

 雪輝は自分の鼻を指さして言った。

「でも鼻に隠すって一体……」


 來華はそこまで言って何かを思い出したように目を見開いた。


「あるかも。ありがとう、吉祥寺君」

「お、おう。何か気付いたのか」

「ええ、あなたはそのまま隠れてて」


 來華は急いで廊下に出る。すると2-Aの教室から出てきた美心と出くわした。


「あ、來華ちゃん。今向こうにクビキリさんが」

「ええ知ってるわ。それより付いてきて」


 二人はそのまま『2-A』前の廊下に飾られている拙い似顔絵の前に向かった。


「この絵がどうかしたの?」

「山岸ハナという名前を見て、何の疑いもせず『花』を連想していたけど、恐らくそれはミスリード。答えはきっとこっち」

 來華は先ほどの雪輝と同じように自分の鼻を指さす。すると美心も言いたいことを理解したように頷いた。


 二人の目の前にある絵は全部で十六枚。全て額縁に入っている。恐らくこのクラスの生徒の似顔絵だろう。中央には「お兄ちゃんお姉ちゃん遊んでくれてありがとう」と書かれた画用紙も飾られていて、その下に「附属幼稚園一同」と文字が入っていた。


「多分職業体験か何かで訪れた幼稚園の園児が描いたものね。見て、ほとんど顔に鼻が描かれていないわ」

「ほんとだ! だとすると……」

 美心が一枚の絵の前で止まる。

「來華ちゃん、この絵だけちゃんと鼻まで描かれてるよ」

「一枚だけ?」

「……うん!」

 來華はその絵を手に取って外す。すると額縁の裏にセロハンテープで留められた小さな鍵が見つかった。


「……あった」

「やった!」


 鍵を手に取って安堵する來華と喜ぶ美心。


「小牧原さん、さっきの日記帳持ってる?」

「うん。鍵貸して」


 來華が鍵を手渡すとそのまま日記帳に差し込んだ。カチッと音が鳴って開かれる。


「中にはなんて……?」


―――――――――――――――

〇月〇日

今日は加藤さんが僕の髪をハサミで切った。

みんながそれを見て笑っている。

殺したい。



〇月〇日

今日は竹中くんに後ろから殴られた。

凄く痛かった。

殺したい。



〇月〇日

今日は本田さんに顔をはたかれた。

顔が手のひらの形で赤くなって恥ずかしかった。

殺したい。



〇月〇日

今日は和田君にサンドバックにさせられた。

お腹を何度も何度も殴られて吐いてしまった。

殺したい。



〇月〇日

今日は誰かが家から南京錠を持ってきて、みんなそれで遊んでいた。

嫌な予感がしていたら、やっぱり最後に僕の腕に、手錠の様に鍵をしやがった。

鍵を探すのに丸一日かかった……。

鍵と南京錠は隠しておいたから、いつか必ず復讐してやる。



〇月〇日

鍵を隠した。

場所はここにメモを残しておくことにする。

『成金への道』

ここ置いてある。

―――――――――――――――


「受けたいじめを日記に書いていたのね。読んでるだけで胸糞悪いわ」

「この南京錠ってもしかして」

「えぇ……多分あそこに使っているのと同じものでしょうね」

 來華は閉ざされた防火扉を見つめる。


「このフロア最後の問題かな」

「だといいわね」


 來華は美心から日記を受け取って観察する。書かれているのは最初の数ページだけで他は白紙だったが、数枚破り取られたような形跡があった。


「破れているページがあるわね……恐らく五ページ分」

「どこかに隠されているのかな?」

「さぁ……でもとりあえずはこの『成金への道』というヒントを解かないと始まりそうにないわ」

「成金かぁ、お金持ちの生徒がいるのかな?」

「現状のヒントでは生徒の細かい設定が分からないし、もしかしたら別の意味かも」

「ひらがなにしてみる? なりきん。うぅん……」


 目を固くつむり、うねりを上げながら考える美心だったが、突然ぽんと手を打った。

「将棋かも! ほら、相手陣地に入って成る事を成金っていうでしょ」

「なるほど……えっと、成れる駒って、歩と香車と銀と桂馬と……」

「飛車と角! でもその中でも成金って呼ばれているのは、歩がと金になる場合の事だったと思うよ」

「詳しいわね」

「うん。将棋とかチェスとかのゲームに憧れてた時があったから」

「分かるわ。私も憧れてルールを覚えたけど、ネット対戦しかしたこと無いからすぐ飽きちゃった。遊んでくれる人いなかったし。ふふっ」

 自虐的な笑みを浮かべる。

「……えっと、なんかごめん……」


「……まぁとりあえずその路線で考えてみましょうか」

「歩が金……。ふがきん。ふがと。ふがときん。それっぽい言葉にはならないかぁ」

「そんな簡単な話ではないんじゃない? さっきの問題も、言葉遊びとかでは無かったし」

「そもそも『への道』の部分がまだ謎だもんね」

「名前はどう? 歩という文字の入った生徒はいなかった?」


 二人は名簿を確認するが、該当する名前は無かった。


「うーん。難しい。ていうかヒント少なすぎるよ」

 來華は時計を確認した。ゲームが始まってから二十分ほど経過している。

「あと十分……。吉祥寺君にも手伝ってもらいたいところだけど……」

「私がクビキリさんのターゲットになろうか?」

「いいえ。彼想像以上に上手く逃げてるから、このまま私たちで解決させましょう」

「……うん」


 二人は廊下で考え込む。成金、将棋、と呟いていると、教室から悪霊が出てきた。

「……っ!」

 悪霊はさっきよりも速い速度で動いている。もう小走りと言える速度だった。そのまま隣の、雪輝が隠れている教室に入って行った。


「え……ちょっとクビキリさん速くなってない?」

「時間が経つにつれて動きが速くなるのね……残り時間十分とは言ったけど、その前に吉祥寺君が見つかってしまうわ」


 教室に悪霊が入ると、向かいの出入り口から入れ替わりで雪輝が出てくる。しかし、その瞬間に悪霊の方も再び廊下に顔を出した。

 來華達は一瞬ヒヤっとしたが、悪霊が雪輝に視線を向ける前に彼は腰を低くしてまた教室に身を隠した。


「來華ちゃん、早く何とかしないと……!」

「えぇ……。将棋、成金……道……」

 來華が頭を抱える。すると美心がその肩を叩いた。

「そういえば向こうの教室は何かなかったの?」

 美心はまだ『2-B』の教室には入っていなかった。

「2-Aと同じ感じだったけど……」

「テルキチも心配だし、私見に行ってみるよ」


 美心はそう言って隣の教室に入っていった。來華もその後を追う。


 教室『2-B』

 机の配置などは『2-A』同じだったが、改めて眺めていると、來華は少し違和感を覚えた。

「……何か違う。でも何が違うんだろう」

「來華ちゃんこれ!」

 美心が床を指さして叫ぶ。

「見てここ。あっちの教室と床のタイルが違ってる」

「タイル……?」


 來華は床を見る。美心の言う通り『2-A』の教室は縦長のフロアタイルが敷き詰められていたが、ここは大きめな正方形の木目タイルが市松張りされている。

 教室が薄暗かったうえに、机の中や配置ばかりに気がとられていて、來華はその事に全く気がつかなかった。


「これが将棋盤なんじゃない?」

 美心がそう言ってタイルの数を数える。

「うん、九×九マスになってる!」

 來華も目を見開いた。同じ教室で悪霊が走り回って雪輝の事を探しているが、もうそれも気にならなくなっていた。

「それだわ。でもだからと言って一体どこに……」

「金に成れるのはえっと……自分の陣地と相手の陣地の三マス×九マスで……五十四マスだよね。タイルの裏とかに隠されているにしても、時間内に全部ひっぺがすのは無理かも……」

「総当たりしなくてもきっと何かヒントがあるはずよ。そもそも『道』という部分がまだ分かっていないし」


 辺りをぐるっと見回す。気がつくと悪霊はもうこの教室から出て行っていた。前の方の扉から顔を出して、廊下を見つめている雪輝がいる。この教室は廊下側に少し机が寄せられており、雪輝はその影をうまく使って、廊下と教室を見つからないように行き来していた。

 その様子を見て來華がハッと何かに気づいた顔をした。

「……この机の置き方」

 來華は教壇の中央に立ち、少し背伸びをして教室を見渡す。この位置からだと全ての机の位置関係が良く見えた。

「どうしたの來華ちゃん?」

「分かったわ。この将棋盤の上で、歩は私達なのかもしれない」

「私たちが歩?」

「えぇ。歩いているのは私達でしょ?」

「確かにそうだけど……」

「そして『成金への道』がここからならよく見えるわ」

 來華がそう言うと美心も急いで教壇に上がる。そして彼女と同じ景色を見るが、首を傾げた。

「道? どういう事?」

「ここの机は少し廊下側に寄せて配置されているの。そしてタイルのマス目を見て頂戴」

 指示通りに美心は床を見た。するとある事に気づく。

「机がマスを跨いでる……?」

「そう。タイルが将棋のマス目だとすると『成金への道』と言うのは、歩が成れる一直線の道を指しているという事。横九マスのタイルに机が四列あって、机はマスを跨いでいるから、八マス分は道として潰れてしまっているわ」

 來華の言う通り、マス目の上に机の乗っている廊下側からの八マス分は、もちろん人が歩けはするが、マスに沿った道とは言い難かった。そもそもこの教壇の上から俯瞰的な視点でこの教室を見渡した場合、廊下側に寄せられた机、マスを潰すような配置、そして右側に空けられた一マス分の綺麗な道、その全てが作為的なものに見えて仕方がなかった。


「……ホントだ。右側に道がある」

 美心は教壇を降りて教室の右端に向かった。棚のある隅から二段分を除き、美心の立つ、将棋において初めに歩が置かれている三段目から教室奥に向かって、マスの上には一切道を遮るものが置かれていなかった。


「小牧原さん、そのまま歩いてみて」

「うん……」


 指示通りゆっくりと歩みを進める美心。少しずつ教室後方に近づき、将棋のマスで言うと敵陣地となるマス目で美心は何かに気づいて止まった。


「どうしたの?」


「來華ちゃん、ここ! ここなんかちょっと違う……!」

 美心は少し怯えたように言った。來華はすぐに彼女の元に駆け寄り、様子をうかがう。

「何が違うの?」

「ゆっくり歩いたから気づいたんだけど、ここのタイルだけ、ちょと浮いている感じがする」

 來華もそのマスの上に乗って確かめてみた。ほんの少しだが、他とは違って沈むような感覚がした。美心の言う通り、ゆっくりと確かめる様に歩かないと気がつかない程度だったが、確かに違いと呼べる変化があった。


「ここで歩は金に成る。つまり駒を裏返す……。このタイルの裏に鍵があるのかもしれないわ」


 二人はしゃがみ込み、タイルを剥がそうと試みる。しかしタイルは結構な大きさがあるため、隙間に爪を入れた程度で持ち上がりそうな気配は無かった。


「吉祥寺くん……!」


 來華は教室の隅で廊下の様子を伺い続けていた雪輝を小声で呼んだ。彼はその声に気づき、今一度廊下に悪霊が出てきていないか確認して二人の元に駆け寄る。

「問題か?」

「恐らくこの下に鍵があるのだけど、タイルが持ち上がらなくて」

「貸して」


 美心に代わって隙間に指を入れる。美心の方は雪輝の代わりに廊下へ走って向かい、外の様子を伺った。『2-A』にいる悪霊がいつこちらに向かってきても雪輝にすぐ知らせられるようにする為だ。

 雪輝が力を込めて持ち上げようとするが、やはり小さな隙間に滑り込ませた指だけで持ち上げるのは無理な様だった。


「無理だな……何か道具があれば」

「道具……」「クビキリさん廊下に出てきた! 走ってるよ!!」


 廊下の美心が叫ぶ。彼女の焦りが示す通り悪霊の動きは更に早くなっており、最早最初に遭遇した時の、美心の元へ向かったのと同じ速度でターゲットを探していた。


「やべっ!」

「吉祥寺君、こっち!」

 來華は雪輝の手を引いて、目の前にある掃除道具入れの中に飛び込んだ。その一瞬の後に悪霊は教室の中に入り、誰もいなくなった部屋にぐるりと視線を這わした。


「……どうして東雲まで入ってきたんだよ!」

「……ごめんなさい、必死だったから」

「まぁ仕方ない……とりあえず助かった、ありがとな」

「……えぇ」


 二人は掃除道具入れの中で小声で話す。

 体が密着し、空気を介した音ではなく、振動でお互いの声が伝わっている感じがした。


「……っ」

「……んっ」


 バレないように声を出せないというだけではなく、この密着した空間の中では、お互いにその呼吸の仕方すらも意識せざるを得ない。雪輝も口ぶりは平静を装ってはいたが、その頭の中では混乱を極めていた。



(東雲、良い匂いするな……いや駄目だ、意識すんな! つか、息が荒いと後で変態扱いされちまう……なるべく呼吸の数を減らして……音も消して……全集中っ!)


「……スぅぅー」


(無理だ……! 今の鼻息絶対聞かれたっ。恥ずかしっ)


 考えれば考えるほど呼吸の仕方が分からなくなる。そのうえ体から伝わって来る妙な柔らかさと温かさ。暗闇の中で無駄に研ぎ澄まされてしまった触覚嗅覚聴覚は、その入力の全てが東雲來華によるもので埋め尽くされていた。つまり脳に与えられる刺激と信号は、來華一色になるのだった。そうなるともう、彼女以外の事を考えるのは不可能だろう。必死に冷静さを保とうとするが、その心音はこれ以上ないほど高鳴っていた。



(吉祥寺君……凄い心音。まぁ、人の事言えないけど)


 來華も同じような状態だった。彼の胸に顔を埋めた状態で、彼の温度を感じ、音を聞き、匂いに包まれていた。

 人の温もりに触れたのはいつぶりだろうか。ふとそんな事を考えては小さく頭を振り、思考を追い払う。おでこが彼の胸を擦る様に動き、頭上で息の漏れる音が聞こえた。同時に頭皮にこそばゆさを感じたが、不思議と嫌な気はしていなかった。

 抱擁によって脳内ではオキシトシンが分泌されるとは言われている。幸せホルモンとも呼ばれるその脳内物質は、強いリラックス効果と多幸感をもたらすらしい。來華もその話をネットで見たことがあった。カタカナを使えばいいと思っている意識だけ高い似非科学ブログの眉唾な話だと、その時は鼻で笑っていたが、今彼女はその話を身をもって体感し、心の中で馬鹿にしたことを謝罪した。

 すると來華は背中に妙な寂しさを覚え始める。正面は顔も胸もお腹も太股も、全てで彼の温度を感じられているが、背中はとても涼しかった。このまま腕を回してくれたらという思いが一瞬頭をよぎったが、何を考えているのと自分に驚いた。その驚きが彼女に冷静さを取り戻させる。


「……少し離れるわ」


 來華は小声で言った。雪輝も「おぉ」とだけ小さく返し、彼女の動きに合わせて身を後ろに引く。二人の間に僅かながらの隙間が生まれた。雪輝に触れていて温かかった頬と胸とお腹と太股が一瞬にして冷えてゆき、言いようのない寂しさが來華を襲った。人の温もりというものは不思議な中毒性を持っている。離れて間もないのにも関わらず、彼女は目の前に映る雪輝の胸に、不思議とまた吸い込まれそうになった。しかしその時、掃除道具入れの外から、美心の声が二人の虚ろな思考を現実に引き戻した。


「黒板にかかってたステンレスの定規! それ使ってタイルを裏返せたよ!」


 美心の欣喜する声に、來華と雪輝は顔を見合わせて笑みを浮かべた。体を少し離した事もあってか、二人は冷静さをある程度取り戻していた。


「ちゃんと裏に鍵があったよ! 今防火扉開けるから、合図したら二人とも一気に走ってきて!」


 そう言われ、先程とは別の意味の緊張が走った。向き合っていた二人だったが、來華は扉の方に向き直り、いつでも出れるように腰を構えた。口をへの字に固く結び、二人は息を飲んで美心の合図を待つ。


「今だよ!!」


 美心の声が響き、來華は力強く扉を開く。

 すると目の前に悪霊が立っていた。

「あっ……!」

 予想していなかった光景に声が漏れて動きが止まる。しかしそれが返って良かった。今のターゲットは雪輝だったが、彼と悪霊の間に來華が挟まる事になったおかげで、一瞬の猶予が出来た。雪輝はその猶予を見逃さなかった。


「美心だ! 小牧原美心!!」


 雪輝が叫ぶ。するとハサミを持ち上げた悪霊は振り返り、廊下の方をみる。ターゲットが代わった。

「え、私!?」

 開けた防火扉の前に立っていた美心が自分を指さして驚く。


「行こう……!」


 雪輝は來華の手を取って走り出した。数舜遅れて悪霊も追いかける様に走り出す。

 廊下に出ると、防火扉の向こうで美心が顔を青ざめて立っていた。雪輝と來華のすぐ後ろで、悪霊がハサミを構えて自分に向かって走ってきているのだ。美心はたまらず扉を閉める準備をする。


「美心! 閉めろォ!」


 來華を引き連れた雪輝が叫びながら扉の向こうに走り込む。言われるまでもないと、美心は勢いよく扉を閉めた。

 鈍い金属の音が響いたのを最後に、階段には静けさが訪れた。


「はぁ……はぁ……大丈夫か、東雲」

「……ハァ……ハァ……ちょっと……休みたい……」


 もともと体力もない來華にとって、数メートルと言えどもダッシュなんて人生で数度しかない経験だった。床にへたり込み、壁にもたれて息を整える。


「ギリギリだったね」

 美心が安堵の笑みを浮かべて言った。

「あぁ、ほんと助かったよ」

「最後急に私に回すんだからびっくりしちゃったよ」

「すまんすまん。まぁ次のフロアでまたオレに回してくれ」

「ううん。ちょっとは私も逃げて時間を稼いでみる」

「大丈夫か?」

「うん。というか、逃げるのもちょっと楽しそうかも」

 美心はそう言って笑った。

 その頃には來華の息も少し整い始めていた。

「小牧原さん、定規を使うのよく思いついたわね」

「ね! 私天才だったかも! ……というのはまぁ冗談で、ホントに偶然だったの。クビキリさんが教室に入った時にね、私も二人がどこに消えたか分かんなくて、パニック気味に辺りを見回してたんだけど、そしたら黒板にぶら下がってた定規にたまたま目が行って閃いたわけ」

「いいえ。そこで閃けたなら天才よ」

「今日のMVPは決定だな」

 來華と雪輝がそう言うと美心は気恥ずかしそうに笑った。


「さて、階段を降りるか。東雲ももう大丈夫か?」

「……えぇ。ごめんなさいね」

 來華は立ち上がった。その瞬間フラっと一瞬よろめいたが、それに気付いた雪輝が彼女の腕を掴んで支えた。

 掴まれた腕の温かさに、掃除道具入れの中での出来事を思い出す來華。ふと顔が熱くなるのを感じた。


「大丈夫か?」

 雪輝が尋ねる。來華は顔を見せないように背け「えぇ」とだけ答えた。

 支えていた雪輝の手が離れる。腕に残る温かさに、またもや一抹の寂しさを覚えた來華だったが、今度はその手を美心が取った。

「行こ、來華ちゃん」

 優しい笑顔を見せる美心。つられて來華も微笑む。

「……えぇ」


 三人は階段を下り始めた。



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