小牧原美心はいただきますが言えない 5

「吉祥寺くん、上の方お願いしていいかな」

 昼休みの掃除が恒例になり始めた四日目。商業棟の一階は見違えるほどに綺麗になっていた。

 基本的に高い所の掃除は雪輝の仕事だ。今も漆野に頼まれて、雑巾を片手に机に乗り、廊下側の高い窓の桟を拭いている。

 漆野も初めは雪輝にものを頼むことに遠慮を感じていたが、今では気兼ねなく、普通の友達の様に物事をお願いするようになった。雪輝の方もそのちょっとした関係の変化を快く思っており、この掃除の時間も楽しく感じていた。


「そういえば漆野、すまんが明日はちょっと来れそうにないんだわ」

「え、そうなんですか?」

「あぁ、冴島先生に体育倉庫の整理を頼まれててな」

「じゃあ私も明日はそっちを手伝いましょうか?」

「お前はいい奴だなぁ……でもいいや。結構重いモノばっかりだし、前に女の子にやってもらって危険な目にあったことがあるから……」

 球技大会の時の來華との出来事を思い出して苦笑いを浮かべる。

「そうですか、でも近々吉祥寺君にはちゃんとお礼がしたいですね」

「おっ。そりゃ楽しみだわ」

「もぉあんまり期待しないでくださいよ」

「冗談だよ。じゃあ今度ノートでも見せてくれ」

「ノートですか?」

「あぁ、しばらく授業に出てなかったからな」

「そう言えばずっと相談室登校なんですもんね。単位とか大丈夫なの?」

「そろそろヤバいかも……最近は東雲と一緒に遠隔授業始めたから、出席日数はギリギリ大丈夫そうだけど、こんな事で成績落としたくないし、テスト前は遅れた分勉強するよ」

「じゃあその時は頼ってくださいね! これでもノートの綺麗さは先生にも褒められてるんですから!」

「マジか! そりゃ助かるぜ」

 そう言うと漆野も嬉しそうにして掃除に戻った。基本的にお互い黙々と自分の担当場所を掃除していて、たまにこういった会話が挟まれる。会話が多いわけではないのだが、どこか心地の良い時間が流れていた。拭く音、掃く音、水の音が、交互にリズミカルに響いて、漆野にとっては時間を忘れるほど幸せな空間だった。


「あっ! もうこんな時間になっちゃってた」

 時計を見て漆野が慌てて言った。昼休みの終わりまで残り五分もない。

「片付けはやっておくから、先戻りなよ」

「ごめんね。あぁその前に」

 そう言ってポケットからスマホを取り出す。

「えっと、カメラカメラ……」

 漆野はカメラを起動して、慌て気味に部屋の写真を撮る。雪輝は悪戯っぽい笑顔を見せて、そのカメラを向けた先に潜り込んだ。

「ぴーす」

「もぉ、撮ってるのはお部屋だよ?」

「いいじゃんいいじゃん。ここはワシが綺麗にしました」

「ふふっ。もぉ」

 笑いながら漆野は雪輝の写真も撮る。

「毎日撮ってるな」

「うん。せっかくだから、綺麗になっていく様子を残したくて」

「前に言ってたやつか? 頑張ったっていう実感的な」

「私ね、お掃除以外に出来ること少ないから、何か頑張らないといけないって時に、この写真を見て励みにするの。私はここをこんなに綺麗にする事が出来たんだって。その思うと何でも頑張れる気がするから」

 大切な思い出を見る様に、漆野は今まで撮ったこの部屋の写真をスクロールする。汚かった部屋がちょっとずつ綺麗になっていって、最後は今撮った雪輝の写真で終わる。それを見て彼女は微笑んだ。

「漆野は凄いな」

「えぇ、そんな。むしろ逆だよ。これがないと頑張れないんだから……」

「でも頑張ろうと思えてるんだろ。それが凄いんだよ。大抵の奴は『そこそこで』って言って何も考えずに生きてるんだし」

「そんな事無いと思うよ。多分見えないところでみんな沢山頑張ってるんだと思う」

「そういうもんかね」

 するとチャイムが鳴り響いた。

「いけない! 私戻らなきゃ!」

「おう。授業頑張れよ」

「吉祥寺君ごめんね。後お願いします……!」

 そう言って漆野は慌てて部屋を後にした。


「みんな頑張ってる、か……俺もなんとかしないとなぁ」

 そうぼやいた雪輝の頭の中には、あの日殴ってしまった友人の顔が浮かんでいた。

 大宮タケルと、笠原リョウ。

 雪輝とその二人は、高校生活が始まってからずっと一緒にいた友人だった。入学してすぐ仲良くなって、夏休みもほぼ毎日一緒に過ごして、今後死ぬまで一生友達しているんだろうなと、何となくそう思えるような関係だった。

 でもあの日の雪輝の拳によって、それは壊れてしまった。

 事件以来二人とは全く会っていない。学校側が勝手に和解という形で片付けたが、自分からはまだ謝罪の言葉もかけられていないし、雪輝は向こうからも聞きたい言葉があったのだ。

 しかしその踏ん切りがつかないでいる。仲直りをしたいという気持ちと、なんて言えばいいのか分からない気持ちと、向こうからどう思われているのかという不安でいっぱいだったのだ。


「彼女とずいぶんと仲が良くなったようね」


 背後から聞こえてきたその声に振り向くと、部屋の入口に來華が立っているのが目に入った。

「東雲? どうしたんだこんな所に」

「別に。進捗が気になったから見に来たのよ。そしたらやたら楽しそうに撮影会をしてたから、彼女が出てくときに思わず隠れてしまったわ」

「いや遊んでたわけじゃないからな」

「それは分かってるわ」

 そう言って部屋をぐるりと見渡す。

「大分綺麗になってるわね」

「あぁ。漆野のやつ、流石って感じだよ。めっちゃ手際がいいからすげぇサクサク進むだわ」

「ふーん」

 すると來華は雪輝に近づき、スネに軽く蹴りを入れた。

「いてっ! えぇ何で!?」

「別に。なんとなく」

 するとくるっと回って、扉の方に帰っていく。

「ねぇ、あの部屋ってまだ触ってない?」

 あの部屋とは、漆野がお経を聞いたというここの向かいの部屋の事だろう。

「あぁ、とりあえず一部屋ずつやっていってるからな」

「そう。じゃあ丁度いいわ。少し見させてもらうわね」

 そう言って部屋を出ていく來華。不思議に思って雪輝も後を追う。

「どうしたんだ?」

「少し気になる事があって」


 二人は件の部屋に入った。そこは数日前に見たのと同じ、埃の被った机が後ろに寄せられているままの部屋だ。

「やっぱり変ね」

「どうしたんだ?」

「前に来た時も違和感があったのだけど、ここの床あまりに綺麗すぎるのよ」

「人が入った形跡だろ? まぁ誰かがいたんだろうけど、あれ以来誰も来ていないし、もういいんじゃないのか?」

「まぁそうね。でも少し気になったの。ここ、これだけ綺麗だと、一日二日不良生徒がたむろってたって言うにしても違和感があるわ。それにどうやって入ったのかも気になるし」

「確かに。それに普通、飯食ったり隠れてゲームとかで遊んでたって言うなら、綺麗にしておくのは床より机の方だもんな」

「……確かに。考えてみれば単純な話だけど、その観点に気がつかなかったわ。流石学年十位」

「馬鹿にしてんだろ」

「今のは普通に褒めたつもりよ」

 そう言って來華は窓を調べる。

「鍵は、閉まってるわね。しかも凄いサビ。桟もかなり汚れているし、開けた形跡はなさそう」

「じゃあ普通に玄関から入ったのか?」

「そのようね」

「ますます謎だな」

「つまり犯人は、ここを自由に出入り出来て、机よりも床を綺麗にする必要があった人。っていうか私は普通に小牧原さんが怪しいって思ってるのだけど」

「小牧原?」

「えぇ、だってこないだここで会ったのでしょ?」

「まぁ確かにそうだけど。その時はたまたまここで本を読んでいただけだって」

「でもここに来た。という事は入れるって知っていたという事よね。あなた達が掃除をしているのは知らなかったようだし。それって変じゃないかしら」

「……確かに」

「ちょっと入り口を見るわ」


 二人は廊下に出て入り口を確認しに向かった。

「掃除の時、鍵は?」

「してないよ。内側からかけたことは無かったな」

「そう。これ見て」

 東雲はそう言ってドアの鍵を指さす。内側はつまみを上下にスライドさせて施錠するタイプの引戸錠となっていた。

「誰も触っていないにしてはここも綺麗よね」

「そうだな。って事は誰かが入った時、内側から鍵をかけていたという事か?」

「そう。あなたと漆野さんがここで作業をしていた時も、鍵が開いていたら流石に小牧原さんも変に思うでしょ。だから恐らく、あなた達が来る前に彼女はこの棟内に入っていて、内側から鍵をかけた。その後にあなた達が鍵を開けて入った。という事じゃないかしら」

「あぁ。ま、その線がかなり妥当かな」

「残りの謎はここで何をしていたかと、どうやってここの鍵を開けたかだけど。まぁ深くは詮索しないわ」

「そうだな。本人の言う通り、本当に静かに本を読みたかっただけかもしれないしな。鍵は謎だけど」

「じゃあスッキリしたところで、私は部屋に戻るわね」

「おいおい。せっかくだから掃除の片づけも手伝っていきなさいな」

「嫌よ。掃除は二人の神聖な共同作業でしょ。邪魔者は介入しないわ」

 腕を組んでツンとそっぽを向く來華。その様子を見て雪輝は悪戯な笑顔を浮かべる。

「もしかしてさ、なんか嫉妬してる?」

 するとそっぽを向いていた來華は勢いよく振り返り、またもスネに蹴りを入れた。

「なんでっ!」

「嫉妬? 誰が? 馬鹿馬鹿しい」

「じゃあ蹴るなよ……」

「あなたが変な事言うからよ。じゃあ先戻るから。あなたも五限終わるまでに戻らないと、流石にレポート出せないわよ」

「へいへい……」

 じゃあ手伝ってくれよと思ったが、雪輝は言うのをやめた。





 翌日。

 昼休みが始まると、雪輝は職員室に向かった。

 職員室の扉は前と後ろとに二か所あったが、前の方の扉は、開くとすぐ目の前に生徒指導教師の机があり、入ってくる生徒を強烈な視線で向かい入れる為、基本的にみんな後方の扉から入っていた。雪輝も無意識に一つ目の扉を素通りし、奥にある扉から入室する。するとその前には、そんな雪輝の行動が分かっていたかのように冴島が待ち構えていた。

「や。来てくれてありがとね」

「よく言いますよ。いつも拒否権無いじゃないですか」

「何? もしかして怒っちゃってる?」

「いえ別に」

「ならいいじゃん。さ、付いてきて」


 そう言われて雪輝は冴島と一緒に廊下に出た。体育倉庫の整理と聞かされていたのだが、向かった先は中庭だった。

「校庭には行かないんですか?」

「後でね。とりあえずそこのベンチに座って、ちょっと話そっか」

「ん?」

 雪輝は首をかしげた。その間にも冴島は先にベンチに腰掛け、空いた隣をとんとんと叩いて着席を促している。雪輝は意図を理解出来ずにいたが、とりあえず断るわけにもいかず、疑問を浮かべたまま隣に座った。

 すると彼女はポケットからコンビニのサンドイッチを取り出して、そのまま封を切った。

「お昼は?」

「もう食べましたよ」

「早弁か? 不良生徒め」

「いや、昼休みに作業があるって聞いてたからで」

「あははは、ごめんごめん。体育倉庫にはもうちょっとしたら行ってもらうよ」

 冴島は手元の腕時計を確認してそう言った。

「一つ食べる?」

「貰ったらまた面倒な事頼まれそうなんで遠慮しときます」

「えぇ、なんかあたし信頼なくない?」

「当たり前じゃないすか」

 そう言うと冴島はサンドイッチを口に運ぶ。シャキっとレタスの音が聞こえ、雪輝はふと彼女の唇に視線が向かった。ピンク寄りのマゼンタで、縦ジワの目立たないマットな唇に、渇いたパンとみずみずしい野菜が飲み込まれていく。普段の彼女の言動の軽さから、雪輝はたまに、彼女がまるで同じ生徒のような感覚に陥る事があったのだが、その唇を見ると、あぁ大人の女性なんだなと思わされた。

「ねぇ、漆野ちゃんの件どうなった?」

「あぁ、あれから一緒に掃除してますよ。特に変わったことも起こってないから、多分問題無さそうですね」

「それは良かったわ。前に掃除から戻る漆野ちゃんとすれ違ったけど、とても楽しそうな顔してたし、吉祥寺君に頼んで正解だったわね」

「俺は何もしてないですよ。彼女、掃除がホントに好きみたいですから」

「ふふっ、それだけかしら」

「へ?」

「何でもなーいわ」

 冴島は楽しそうにそう言った。その笑顔に雪輝はまた首をかしげる。

「ところで、東雲ちゃんとはどうよ? 最近よく話してるところ見るけど?」

「どうって言われても……。まぁ確かに会った頃よりは会話してますよ。よく蹴られるけど悪い奴じゃないし」

「へぇ、蹴るんだ。あの東雲來華が」

「蹴らないんすか?」

「私は蹴られたことないなぁ」

「そりゃそうですよ」

「あはははは。そっかそっか、流石に教師は蹴っ飛ばさないか」

 そう笑う冴島はこう続けた。

「でもあたしね、あの子とは入学当日からの付き合いなの。誰にも心を開こうとせず、ただただヘイトの中で、自分を保つ事に精一杯だった彼女を見てきたから、そうやって憎からず思ってる人を蹴っ飛ばす姿なんて、想像も出来ないわ」

「憎からずって、ホントにそうですかね……。毎回結構馬鹿にされてますけど」

 雪輝は自嘲の笑みを浮かべて言った。

「少なくとも敵とは認知していないと思うわよ」

「あはは、敵って」

「あの子はそういう人生を送ってきたの。あたしにはちょっと分かるなぁ」

「え……?」

「ま、この話はおしまい。で、ずっと聞きたかった事があるんだけどさ」

「なんすか?」

「あの話はしたの? 東雲ちゃんに」


「……あの話?」


 雪輝は眉間にシワを寄せる。

 冴島から視線を逸らし、遠くを見る様にして記憶を探った。

 数秒の硬直後、雪輝の脳内から絞り出された言葉は『何を言ってるんだこの人は』だった。


「あれ? 分かんないって顔してる」

「いやちょっと待ってください! あー……。アレですよね、あの話ですよね! えーと……。そうだ! こないだ先生の椅子に敷いたブーブークッションが鳴った時、東雲の奴、気まずくなって相談室出て行っちゃったから、まだネタバラシ出来て無くて誤解したままってやつですよね! まだ話して無いです! すんません!」

 深々と頭を下げる雪輝。

 冴島は顔を赤くしてその頭をすぱこーんと叩いた。

「いって!」

「その事じゃないけど、その話は今すぐに誤解を解きなさい!!」

「えっ、これじゃないんですか!?」

「それはもう話してくれてるものだと思ってたわ。ホント信じられない……」

「いや、すんません。でもじゃあ一体何なんですか?」

 冴島は「はぁ……」と深いため息をついた。


「あなたが相談室生活になった原因よ」


「え、事件の話は東雲も知って――」

「でも理由は知らないでしょ。あなたが二人に怪我を負わせた理由は」

「あーなるほど」

「軽そうに言うのね」

「先生の言いたいこと分かりましたけど、別に言う事じゃないでしょ」

「それは優しさ?」

「別に。ただ俺は、あの時の事は俺とタケルとリョウの問題だと思ってるから、正直東雲は関係ないんですよ」

「そう。まぁいいわ。でも、一つだけいいかしら」

「なんですか?」

「あなたが今過ごしている場所は生徒相談室で、あたしの仕事は生徒の悩みを一緒に悩みぬくこと。だから何か悩んだ時は、いつでも頼って頂戴ね」

 冴島は微笑み、立ち上がった。腕時計をチラッと見てそろそろねと呟き、手に持っていたサンドイッチの残りを口に詰め込む。

「じゃあ話は終わり。校庭の体育倉庫の奥にあるボールを、今度体育館に持っていくらしいから、それを綺麗にしておいてね。それが終わったら今日の奉仕活動は終了って事で。よろしく」

 そう告げて彼女は去っていく。

 どうして時間を気にしていたのかとか、今の話は何だったのだろうかとか、雪輝は少し不思議に思ったが、とりあえず彼も立ち上がり、指示通りに体育倉庫へ向った。


 校庭を超えた先、学校の敷地の一番奥に体育倉庫が置かれてある。昼休みはもとより、部活の時間であってもそこに立ち入るのは、倉庫に用事のある生徒のみという程の端っこだ。向かう途中も雪輝は他の生徒とすれ違うことは無かった。

「相変わらずボロイ倉庫だな」

 田舎くさいトタンの建物を目の前に、雪輝は渡された鍵を取り出そうとポケットに手を入れる。すると薄っすらと中から声が聞こえてきた。

「……ん? 誰かいるのか……?」

 雪輝は扉に耳を近づけて、中から聞こえてくるボソボソとした声に集中する。


「……ショニカ、ディウタ……マンキダニヤカ、サンスハパニカ……クリペヤムジ、マフカリ……」


 聞こえてきた謎の言葉に、雪輝は完全に硬直する。

「え、何?」

 中からは呪文のような言葉が流れ続け、雪輝は一気に血の気が引いた。

 それと同時に彼の頭の中では、漆野が話していた、商業棟で聞いた「お経」の話と、扉の向こうから聞こえる呪文が重なったのだった。

「……まさか」

 すると鍵が開いていることに気がついた。少し不気味だったが、彼は意を決してその扉に手をかけ、恐る恐るゆっくりと開いた。


 扉の向こうから、埃と土と汗の臭いと共に、さっきよりもハッキリと呪文が流れてくる。


 その真ん中には、地面に伏して、深々と頭を下げている『小牧原美心』の背中があった――

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