小説を書くことと、生きること

和辻義一

小説を書くことと、生きること

 小説を書くということは、生きることに似ているのかも知れない。小説を書きながら、僕はそんなことを思う。


 小説を書き始めてすぐの頃には、オリジナリティなどというものはなかなか確立させることは難しい。まずは手本となる先人の作品を真似ながら試行錯誤を繰り返すという点において、小説を書くことと生きることはとても良く似ている。


 とはいえ、全くの他人の真似事だけでは、決して自分の作品が完成しないという点も、小説を書くことと生きることは良く似ている。小説を書くことに比べると生きることは、もう少し他人の真似をする余地が許されている世界なのかも知れない。でも、他人と同じことをしたからといって、必ずしもその人と同じ結果を得られる訳でもない。


 流行りを真似れば、「その流行りが続く間は」注目を得られる可能性が高いという点においても、小説を書くことと生きることは似ているように思う。ただし、流行りの中に身を置くということは、個性を失い大勢の中に飲み込まれる可能性が限りなく高い。その中で他人よりも一歩抜きんでようとするには、並々ならぬ努力と、よほどの「光るもの」を持っていなければならない。


 他人と違う方法を取ろうとすると、最初の頃は奇異の目で見られたり、そもそも注目を得られないこともままあったりする点においても、小説を書くことと生きることは同じであるように思える。この時、「ただ他人と違う」というだけではもちろん駄目で、押さえておくべき基本となるポイントは押さえつつ、他人と違うことを恐れず、他人と違うことにある種の信念を持つ必要があることも、小説を書くことと生きることは似ている。


 何かちょっとした失敗をした時に、指を差されて笑われたり、厳しい糾弾を受けたりする可能性がある点も、小説を書くことと生きることはとてもよく似ている。世の中のすべての人から注目や称賛を浴びることは出来ず、むしろ流行に背を向けることで注目や称賛を浴びにくくなることも、小説を書くことと生きることは全く同じだ。


 そして、「見てくれている人は、ちゃんと見てくれている」という点も、両者はきっと同じなのだと思う。「捨てる神あれば、拾う神あり」だ。小説の読者は自分の人生の読者と同じで、どれだけの数がいるのかは人によって様々だが、絶対にゼロということはあり得ない。たとえその数は少なくても、何事も全身全霊をもって取り組めば、自分の作り出した「作品」を見てくれた一部の人達の心に刺さるものが必ずあるはずだという点において、小説を書くことと生きることはやはり良く似ている。


 自分の代わりを務めてくれる者はいないが、互いに切磋琢磨し合う仲間がいるという点においても、小説を書くことと生きることは同じだろう。場合によっては敵味方に分かれることもあるのだろうが、お互いの領域を不必要に犯さない限りにおいては、きっと仲間同士でいられるはずだ。


 ここまでつらつらと、小説を書くことと生きることの類似点を挙げてみたが、最後に僕が何を言いたいのかというと、この文章を読んでいる貴方が小説家であろうがなかろうが、貴方の人生という作品を作り上げることが出来るのは貴方だけであること、貴方が作り上げた作品には必ず「読者」がいること、そして貴方が作品を作り上げる時、必ずどこかに「仲間」がいることの三つだ。


 小説を書くことが生きることの一部である以上、両者の類似点が非常に多いことは言うまでもないことなのかも知れない。だが、小説を書く場合でも、自分自身の人生を生きる場合でも、貴方の手には貴方だけの作品を作り出すためのペンが握られている。ゆめそのことを忘れずに、ぜひ貴方だけの唯一無二の素晴らしい作品を作り出して欲しいと、貴方の読者になる可能性があり、きっと貴方の仲間であるだろう僕は思う。

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