第6話 キャンパスライフ

 人間は老化して身体が衰えていき、脳も衰えていきます。異常なこととわかっておりますが、わたくしは身体も脳も衰えません。

 もちろん人並みはずれたすぐれた脳を持っているわけではありませんから、千年の記憶を蔵することはできません。多くを忘れます。定子様と過ごした宮中の日々はもう霞のようでございます。あの頃、わたくしは老化しないことを懸命に隠しておりました。定子様が亡くなって哀しかった一方、これで宮中を離れられるとほっとしたことを憶えております。

 話はキャンパスライフのことに戻ります。

 三段の君とはときどきお茶をしております。わたくしも棋界のことを少しはわかるようになってまいりました。

 毎年二回三段リーグが催され、リーグの上位二人だけが四段に昇進できるそうです。三段の方々は三十人。若き将棋の俊才たちがプロをめざして狭き門を争うわけですから、熾烈を極める戦いとなります。

 我が三段の君は好調に勝ち続けていると言います。きみと会ってから調子がいいなどと言われると、悪い気はいたしません。

 しかしこの朴念仁、いっこうに告白をしませんし、手を握ることもありません。ひたすらに清くおしゃべりをしております。まぁよいでしょう。お話を聞くのは大好きです。棋界の話を興味深く伺っております。

 問題は栗原教授です。学部も違うというのに、再会してから後、たびたび話しかけられるようになりました。

 食事に誘われたりして、お断りするのがたいへんです。

 かなりわたくしにご執心のようです。

 結婚しているくせに。

 栗原教授とは同じ大学にいるのですから、まったく無視し続けるのもむずかしい。教授はまずまずわたくし好みの男性です。今は四十代前半ぐらいで、知性がお顔ににじみ出ています。表情が少し憂いを帯びているのも好ましい。中年太りすることもなく、痩せています。

 何度も誘われて断り切れず、ついにわたくしは彼と食事に行くことにしました。

 かなり高そうな料亭に連れていってくださいました。

 懐石料理をいただき、お酒を飲みながら、話をしました。

「僕は若い頃、きみと瓜二つの人と、自給自足をして暮らしている団体で知り合ったんだ」

 知っています。それ、わたくしのことですから。おくびにも出しませんけれど。

「その人は僕の恋人だったんだ」

 知っています。神妙に聞いているふりをしておりますが、栗原教授の顔が立派な大人の男性とは思えないほど恥ずかしげで、可笑しくて笑ってしまいそうです。

「それで、先生はわたくしをその人の代わりにでもしようとしているのですか」と意地悪を言いました。

「いや、そんな」先生は一瞬言い淀みましたが、「いや、そういうことだな」と言いました。

「僕は真美子さんにふられたんだ。自給自足の会の主催者が僕の父親で、折り合いが悪く、僕は出て行かざるを得なかった。真美子さんは残ることを選んだ」

 知っていますとも。でも知らないふりをして聞くしかありません。

「真美子さんとやり直したかった」

「でもわたしはその真美子さんではありません」

「それはわかっている。きみは二十年前の真美子さんとそっくりで、今は真美子さんはもっと老けているだろうからね。しかしだからこそ、僕の心は二十年前に引き戻されて、火がついてしまった」

「先生はご結婚されているのでしょう?」

「ああ、妻は元気で、子どもが一人いる。小学生の女の子だよ」

「ではわたくしとつきあうわけにはいかないのでは」

「恋愛感情なんて抱いたのは本当に久しぶりだよ。この気持ちはどうしようもない」

「残念ですが、わたくしは先生に恋してはおりません」

「本当に残念だよ」

 先生はくいっとおちょこを干されました。わたくしはお酌をしました。お酒は純米吟醸で、芳醇な香りが立ち昇ります。

「きみは美味しいものは好きじゃないか?」

「美味しいものを嫌いな人などいるでしょうか」

「この店の味はどうだ」

「とても美味しいと思います。お刺身は絶品でした」

「天ぷらもいいだろう」

「ええ」

「ときどき僕とごはんを食べないか」

 栗原教授と美味しいものを食べるのは楽しそうです。現に今わたくしは悪くない気分です。わたくしは快楽には弱いのです。

「恋愛抜きでなら」

「それでいい」

 若い頃の栗原聡様ならしなかったずるい笑みをなさりました。

 ずるさではわたくしも負けません。せいぜい美味しいものをいただくことといたしましょう。

 二次会は地下の酒蔵のようなバーに行きました。オンザロックを飲みながら、教授はわたくしのプライバシーを聞きたがりました。わたくしははぐらかし続けて、住んでいるところも、生い立ちも教えませんでした。文学と歴史が好きなことぐらいを話しました。

「では今度は文学談義でもしよう。自給自足の会には図書室があってね。僕はそこの本をほとんど読破していたんだ」

 知っていますって。

 でもわたくしは知らないふりをして、ふふっと微笑みました。本当になつかしい。

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