第5話 さくら自給自足の会

 二十年前、わたくしは「さくら自給自足の会」という団体に所属しておりました。栗原聡様のお父様がその団体を主宰しておりました。高度資本主義社会に適応できない人たちが肩を寄せ合って、農業や畜産をやって自給自足の生活を営んでいるといった団体でした。

 わたくしは「父と母と死に別れ、途方に暮れているのです」と言って、さくら自給自足の会の方と接触しました。もちろん同情を得るための嘘です。ここならわたくしでも潜り込んで生きていけるのではないか、と目をつけたのです。さくらの会には弱者にやさしい雰囲気があり、迎え入れてくれました。わたくしはさくらの会が所有するそこそこ広い土地で畑仕事や鶏の世話などをするようになりました。

 栗原聡様は大学院で経済学を研究しながら、農作業にも熱心に取り組んでいました。理知的でやさしくて、わたくし好みの男性でした。いつの間にか、わたくしたちは親しく話す仲になっていました。彼と話すようになってすぐに、お父様と彼の間に対立があるのがわかりました。

「父は資本主義に疑問を感じて、さくら自給自足の会を設立したんだ。こういう会があってもいいとは思うけれど、僕はいつまでもここにはいたくない」

「わたくしは資本主義に疑問など抱いてはおりませんが、天涯孤独の身ですから、さくらの会に入れていただいて、たいへん助かっております」

 わたくしたちの周りには、トマト、いんげん、かぼちゃ、きゅうりなどの夏の野菜を植えた畑が広がっていました。草取りをする手を休めて、土の上に腰を下ろし、わたくしは彼のことばに耳を傾けました。

「父は無限に拡大し続ける資本主義は弊害が大きすぎると言うんだけど、僕は現代社会にとっては必要な制度だと思う。さくらの会みたいな小さな団体は自給自足で生きていけるけれど、ほとんどの人は自給自足なんてできないからね。環境破壊とか格差とかの問題はあるにしても、資本主義を否定はできない」

 わたくしは経済や社会問題などにはさして興味がありませんでしたが、彼の理知的な瞳には惹かれました。

「僕は経済学者になって、破綻しない資本主義を研究したいんだ。小さな団体の構成員を救うのもいいけれど、社会全体に役立つことをしたい」

 彼は雑草を抜き始め、わたくしも作業を再開しました。

 さくらの会で暮らしていると、彼とお父様が口論しているのをたびたび見かけました。彼が学べば学ぶほど、その対立は深まるようでした。

 悩む彼を励ましました。彼から愛してると告白されました。わたくしには軽い好意程度のものがあっただけで、愛してなどいませんでしたが、男性の庇護下にあるのは都合がよい。わたくしたちは付き合い始めました。

 残念ながら、交際期間は短かったです。彼とお父様との対立は激しくなるばかりで、ついに彼は追放を言い渡されました。

 彼はわたくしに一緒に抜けようと言いましたが、さくらの会はその頃のわたくしの生活基盤でしたから、抜けるわけにはいきませんでした。わたくしにとってはいつ別れるかわからない恋人よりも、今ある安全な場所の方が、ずっと優先順位が高かったのです。躊躇なく彼をふりました。

 しかし、栗原聡様が出て行った後、お父様は情緒不安定になり、うまくさくらの会を運営できなくなっていきました。やがてさくら自給自足の会は潰れ、わたくしは住処を変えたのです。

 なつかしい。さくらの会での暮らしは悪いものではありませんでした。美味しいお米と肉と野菜がありました。食堂と小さな図書室を備えた宿舎もありました。もう数年間ぐらいはあそこで暮らしていたかった。

 しばらく感傷に浸ってから、わたくしは冷たくなった紅茶に口をつけ、サンドイッチを食べました。

 夏は夜。

 月のころはさらなり。

 やみもなほ、ほたるの多く飛びちがいたる。

 また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。

 雨など降るもをかし。

 蛍など、田舎に行かなければ見ることもなくなりました。これも高度資本主義の弊害というものでしょうか。さくらの会の敷地では、初夏に蛍が飛んでいたものです。

 人の世の移り変わりをわたくしはずっと見てまいりました。資本主義がよいものか悪しきものかはわかりませんし、考えるつもりもありません。わたくしはただ、観察者でありたいのです。人の世が続く限り、その有り様を見ていたいと思っております。

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