⑥
ヤンの兄弟はとにかく、人数が多い。ここ数か月で笑美が確認しただけでも、五十人は下らないと思われた。とにかく毎回顔ぶれが違うので、本当は何人いるのかも分からない。
年齢も性別もばらばらで、中には老人にしか見えない人もいたので、全員が彼の血縁者だとはとても思えなかった。しかし、そのことを何度聞いてもはぐらかされるだけだった。
兄弟は兄弟。
ヤンはいつもそう言う。
さらにヤンは、「あなたは兄弟とは呼ばないでくださいね」と言った。一回しか言われなかったが、いつになく厳しい口調だったのでよく覚えている。そのとき、輪の中から外されたような、ひどく寂しい気持ちになったことも。
しかし、それを言うとまたヤンは、自傷してしまうかもしれない。自傷しなくとも――とにかく、少しでもヤンを不快にさせたくなかった。
いつもどおり、ヤンに手を引かれて、笑美は百合の温室を歩いた。相変わらず、強烈な甘い香りで脳が焼けそうだった。ヤンはこの場所は笑美のための場所だと言った。百合はまさに、笑美を示すものであるとも言った。最初は、この派手で香りも強い花のどこが笑美なのだろうと思っていたが、最近はたしかに、百合は自分のためにあり、自分を示すものだと思い始めていた。理由は笑美自身にも説明ができない。
脳に浮かんだメロディを口ずさむと、ヤンもそれに合わせてくる。ヤンは、笑美のことをすべて分かっているようだった。笑美も、ヤンのことをすべて分かりたいと願った。
つないだ手の暖かさにぼうっとなっていると、いつの間にか放送室に着いていた。
ヤンはここに来ると機材の準備をするために、笑美の手を離してしまう。笑美にはそれがひどく悲しかった。
『それでは兄弟の皆さん、作業を始めてください』
ヤンがマイクに向かってそう言うと、講堂の人々がのろのろと歩き出す。
ケエコオ、と誰かが三回鳴く。
白、赤、青、黒の服を着た男女が、突貫で建てられた塔のようなオブジェの周りに四つん這いになる。
儀式は毎回、これから始まった。
相変わらず笑美は、兄弟たちを見ると少し気持ちが悪くなってしまう。それでも、全く近付けもしなかった初日よりはましで、この間は手渡しでお茶を配ったりもした。
兄弟たちは皆笑顔で優しく、笑美のことをいじめ、無視してきた人たちとは全く違った。なぜ、こんなに優しい兄弟たちのことを気持ち悪く感じてしまうのだろう。笑美は申し訳ない気持ちになった。早くこの人たちを気持ち悪く思わないようになって、そして彼らと仲良くしたい。ヤンは徐々に慣れていけばいいと言ったが、自分だけ輪の中に入れないのは嫌だった。
「よく見て下さい」
ハッとして顔を上げると、ヤンがすぐ隣に座っていた。
ごめんなさい、と謝ろうとして、ヤンは笑美が謝ること自体嫌うのだと思い出す。
「あなたは何も見なくても、あの場所までたどり着いたわけですから、もしかして見なくても――いいえ、でも、基本的に見なくてはどうしようもないですからね」
ヤンは笑美の目をじっと見て、微笑んだ。
「見ずに信じられる人は素晴らしい」
ヤンの声は甘く、柔らかい。耳を通り抜けるだけでこれまで起こった全ての嫌なことを忘れられそうになる。
笑美が会って間もない、ずっと年下かもしれない彼に深い情愛を抱いてしまっているのは、この声のせいかもしれない。いや、分からなかった。
笑美はもはや彼の全てを好ましく思っていた。ヤンは万が一にもそのようなことは言わないであろうが、もし「私のどこが好きですか?」と聞かれても笑美には答える自信がない。どこと言われても、全てが好きなのだ。
高校の時の派手なグループの女子が、「好きになるのに時間は関係ない」と言っていた。笑美は、内心、彼女の惚れっぽさを馬鹿にしていたのだが、今ならそれも本当かもしれないと思えた。笑美にはこれまで兄以外、大切な人はいなかったのだが――
いけない。これではまた、「よく見てください」と注意されてしまう。
気を取り直して、笑美は儀式に集中する。
儀式はやはり理解しがたいものだった。
そもそもまったく「作物の収穫」ではない。しかしこれはいつものことで、前回の「漁をする」やその前の「木を枯らす」……とにかく笑美が見たすべての儀式で言葉通りのことなど行われなかった。
儀式はいつも、塔の周りに四人の男女――毎回変わる兄弟たちの中で、この男女だけは変わらなかった――彼らが四つん這いになっているところに、白い作業着を着た男たちが何かを運んでくる。笑美が最初見た儀式以降、塔を建てるなど派手なアクションはなかった。
儀式の最中の兄弟たちの表情からは、笑美と談笑していたときの彼らと違って、何の感情も読み取れない。目はどこか空を見つめて、動きもぎくしゃくしている。誰かに動かされているようだ、と笑美は思う。
そうこうしているうちに作業は進み、あらかたの作物が搬入されたようだった。
束になった、遠目からは穀物のように見えるものが塔の前に積み上げられている。
『お疲れさまでした。お帰りください』
ヤンの声で、兄弟たちはまたばらばらと散り、講堂を出て行く。
「これで終わりなんですか?」
笑美がやや拍子抜けして聞くと、ヤンは頷いた。
「今日は二人でやることがありますから」
「やることって……?」
「次に進むということですよ」
ヤンはそう言って指を三本立てた。そしてそれをゆっくり唇に当てる。
彼は時折、兄弟たちと話すときこのような仕草をする。笑美はきょろきょろと辺りを見回したが、ヤンと笑美の他に誰もいなかった。
「て、お、と、こ、す」
ヤンは一音一音、はっきり聞こえるように言った。
その途端、笑美の全身に鳥肌が立った。水を吸ったように体が重い。それなのに頭は電気を流されたように、異様に覚醒していて、はるか遠くまで見えそうなほど視界が明るかった。ヤンの唇の皮膚が一枚めくれているのさえ見える。
「て、お、と、こ、す」
バケツの中の水を床にぶちまけたような音がする。床に目線を向けると、それは自分の体から滴り落ちているものだと分かる。笑美は吐いていた。絶望的な不快感とともに、汚泥のような汚い吐瀉物が床に流れる。こんなに食べた記憶はなかった。
いつもなら――咳一つしようものならヤンが飛んできて、大丈夫ですか、休んでください、などと言って笑美を抱きかかえた。それなのに、今の彼は笑美の方を見てさえいない。
どうして。助けて。
そう言いたくても吐瀉物で窒息しないように鼻で呼吸するのが精一杯だった。
「て、お、と、こ、す」
もう笑美の胃の中には何も残っていない。それなのに、先ほどまでの吐き気などかわいいものだったと思えるくらいの不快感が押し寄せる。自分が立っているのか、床に座り込んでいるのかも分からない。脳が揺れ、目の奥に火花が散っている。目が潰れてしまったのかもしれない、こめかみが痛くなるほど、明るく、眩しく光り輝いている。
ヤンの顔を遮るように、アレがいる。
あの、女。
巨大な顔貌の大半を占める眼窩。おまけ程度に付いたひどく小さい鼻と口。頼りない手足がふらふらと揺れている。
眩いばかりの光は、間違いなくそれから発されていた。
ふと、恐ろしいことに気付いた。
女はおぼつかない足取りで笑美の方にゆっくり、ゆっくりと近付いてきている。
こないで、と口に出そうとしても、笑美の口はぱくぱくと鯉のように動くだけだった。腕の力を使ってなんとか後退しようとすると、床に広がったヘドロのような吐瀉物が笑美の全身にまとわりついた。
死んでしまいたいと思った。この女が見えないところに行けるならどこでも構わない。死んでしまいたい、今の笑美の願いはそれだけだった。
「そんな風に思わないで」
ヤンの声だった。ひどく落ち着いているのが笑美を余計に不安にさせた。
「どうしてそんな風に思うんですか」
心底不思議そうな顔で笑美に尋ねた。
「あなたが彼女を見て、不快に思ったり死にたくなったりするのはおかしいです」
「お、か、しいって……な、に」
ヤンが話しかけてきた、その安堵感からか、笑美はなんとか声を出すことができる。しかし、情けないほど震えた声だった。
「彼女を見出したのはあなただからです」
もう女は笑美の眼前まで迫っていた。
「さあ、言って下さい」
「なに、を……?」
「言って下さい」
真後ろから声が聞こえた。
「言って下さい」
頭上からも聞こえた。
「言って下さい」
ヤンの声ではない。
「言って下さい」
女の声だ。
「言って下さい」
男の声だ。
「言って下さい」
若者の声だ。
「言って下さい」
老人の声だ。
「言って下さい」
誰もが。
「言って下さい」
この女を。
「言って下さい」
祝っている。
「言って下さい」
――あ■ぐら■■あ■れ■――
口が勝手に動いた。
目の前の女は微笑んでいた。巨大な眼窩から幾筋も血が流れている。
――あ■ぐら■■あ■れ■――
女の眼窩が蠢いた。
腸壁のような複雑な色の肉が蛇腹に編み込まれた薄桃だったり赤だったりはたまた青い桑の実の色であったりとにかく極彩色で壮観なんだ誰もが見るべき真理善性愛がそこには広がっていた何が■まれようというのか笑美には分からないしかしそれはひたすら尊く女として一等恵まれた幸せであることは皆さまご存知でしょう幸せの基準はつまりあの方が男と女を作りましたのでひとつしかないのでご存知でしょう
あ■ ぐら■■あ ■れ■ あなたは幸せな女 あ■ ぐら■■あ ■れ■ あなたは幸せな女 大いなるものいと高きものそれを■もうというのだから あなたは幸せな女 あ■ ぐら■■あ ■れ■
あなたは幸せな女
異端の祝祭 芦花公園 @kinokoinusuki
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