第14話 白狐舞


 朝から雲ひとつない蒼い空は、ひたすらに爽やかであった。だがそれは、身を切るような冷気を際立たせてもいる。


「もう、行くん?」


 木戸の外に立つ山南に向かい、寒さに頬を紅く染めた凛音が瞳を潤ませた。

 言葉と共に吐き出される息が、視界を白く曇らせる。

 既に斉藤は家から離れた杉の老木に背を預け、山南を待っている。


「あぁ。今夜には壬生まで戻らねばならないからね」


 お役目が待っているのだ――と、山南はどこか困ったように微笑んだ。



 昨夜――


 山南たちが家に戻ると、権三ら山くぐりの姿はどこにも無かった。

 誰一人として命のある者はいなかったはずだ。それは斉藤が確認している。

 なれば、他の何者かが遺体を持ち去ったと考えるのが妥当である。

 薩摩の仕業だろうか。或いは別の何ものか――山南は一抹の不安を感じずにはいられなかった。


 だが、連中が薩摩の手の者であるのならば、山南の正体新選組を知れば、表立ってこの親子への干渉は考えにくかった。

 それに本気で口を塞ぎたくば、山南を狙うしかない。

 口の端に不敵な笑みを浮かばせた山南を、眼を潤ませた凛音が見上げていた。


 ぽん――と、凛音の頭を優しく叩いた。


「凛音。これからは君が頑張らねばならないのだ。このような悲しい時代は必ず終わりが来る。いや、必ず終わらせる。だから君は強く生き抜くことを忘れるな。そして新たな時代を迎えるのだ。君の父上も――もちろん母上もそれを望んでいるはずだ」


 少し早口で難しい山南の言葉に、それでも凛音は涙を堪えて頷いた。


「なにか困った事が有ったら、壬生の新撰組を尋ねるといい。私の名か、あそこに居る斉藤君の名を出せば通じる様にしておく」


 そう言って山南は、樹に背を預けている斉藤を示した。

 こちらの話など聞こえていない風を呈しているが、斉藤はその言葉に応える様に鼻を啜った。

 山南は膝を着き、凛音を抱きしめた。


「凛音」


 眼尻に皺をよせ、山南が微笑んだ。


「――や、山南のおっちゃん……」


 凛音が山南の胸に顔を埋め、しゃくり上げるように嗚咽した。

 どれだけそうしていたのだろう。

 四半刻のようでもあるが、実際は僅か一瞬のことであった。

 だが少なくとも、凛音の中に山南の温もりが溶け込んでいた。


「息災でな」

「うん!」


 凛音は顔を上げ、にっこりと笑った。

 その眼にはもう涙はなかった。

 山南は頷くと背を向け――忘れていたと、慌てて振り返った。


「――これを返さなくてはいけなかった」


 照れ隠しに頭を掻くと、山南は腰から剣を降ろした。

 借り物だという事を忘れるほど、この剣は山南の手に馴染んでいた。


女子おなごだから必要ではないかもしれないが、父上の残してくれた大切な守り刀だ。これの御蔭で私も命を救われた」


 大事にするんだ――と、山南が剣を渡した。


「――んっ」


 一瞬、凛音の手が反応する。だが、躊躇いつつもその手を出さない。


「どうしたのだ?さぁ……」


 山南がその手に剣を渡そうとしたとき、


「――待ってください」


 家の奥からか細い声が聞こえた。


「おかん!」


 凛音が振り向くと、家の中から足元のおぼつかない玉音が姿を現した。


「玉音さん」


 白い寝間着姿の胸元から覗くさらしが、ひどく痛々しい。

 だがそこには白銀の獣毛は微塵も無い。

 頬がこけ、眼の下には隈を浮かべど、やつれた顔に笑顔を浮かべるその様子は、儚くも美しい母の姿であった。


 昨夜――山南の召喚した護法童子『玄武翁げんぶおう』によって、玉音の体内に凝っていた呪薬の穢れは祓われた。


 山南の使う将門流まさかどりゅう陰陽術おんみょうじゅつの真髄は、荒ぶる御霊を打ち祓うところにある。

 その奥義を持ってすれば、体内から邪気や穢れを祓うなど難しい事では無かった。

 だが本来、荒御霊あらみたまをもって荒御霊あらみたまを破する呪である。しかるべき触媒と呪をもって、初めて成せる術なのだ。それに、人ひとりに使うにしては、その力はあまりにも強大である。一歩間違えれば、玉音の命そのものを奪いかねなかった。


 本来であれば、昼間施したように陰陽五行の理にのっとり、時間をかけて邪気を祓うべきである。しかし、あのように急激に力が暴走してしまっては、玉音の身体が危険である。長く続けば二度と元に戻れなくなる。

 山南にしてみれば、一か八かの賭けでもあった。

 だが結果、玉音の体内に巣食う邪気を、玄武翁が喰らい尽くし打ち祓った。


「それはなんのお礼もでけへん、ウチらからのせめてもの気持ちです。どうぞ受け取ってください」


 途中、言葉は何度も途切れながらも、玉音は懸命に伝えた。


から娘ともども助けてもらった、せめてものお礼です」


 なにかを訴える様に自分を見上げる凛音に、山南は静かに頷いた。

 幸いなことに白鯰――陰と陽によって傷つけられた玉音の傷は、ほとんど残らなかった。

 呪薬の効果である驚異的な回復力が、身体の傷を残させなかった。


 だがしかし――


「ほんま、野盗に襲われてたところに、山南はんが来いひんかったら、今頃はどうなっていたか……」


 山南は、そっと凛音の髪を撫でる。


 玉音の記憶が書き換わっていた。

 どうやら玉音の中では、自分の身体が呪薬に侵され獣化していたことも、昨夜の山くぐりとの死闘のこと、それら全てが別の記憶として認識されていた。


 それは上条宗景が死した後、半次郎――白鯰・陽との逢瀬も、そしてその命を殺めたことも全て含めて。

 それが良い事なのか、そうではないのか、山南には判断がつかない。現に、凛音はその全てを憶えているのだから。

 だが少なくとも、この先二人が生きていくには決して悪い事ではない――山南はそう思っている。


「お礼を言われるほどのことでもありませんよ」


 山南は不安そうに自分を見つめる凛音に向かって、微笑んだ。

 大丈夫――山南の笑みに、凛音は頷いた。


「凛音、どうかしたん?」


 そんな二人の無言のやり取りに、玉音が首をかしげる。


「兎に角、それはほんの気持ちです。命を救ってもろうて……きっと、主人も草葉の陰で喜んでる思います。どうかお受け取りください」

「分かりました。お二人の守り刀を譲ってもらうのでは心苦しいですが、私も自分の剣を無くし困っていた所存。この四神刀、謹んで頂戴したく思います」 


 山南が頭を下げた。


「ししん……?そんなけったいな名前と違います。その剣は『麒麟皇きりんこう』言います」

麒麟皇きりんこう――だって?」

「凛音が生まれてすぐのころ、ある神社から奉納刀として頼まれたんです。剣に五つの聖獣をあしろぅてくれ言われて。せやけど、結局とりに来ぃへんかったんです」

「その神社の名前は分かりますか?」

「さぁ……宗景は知ってましたが、ウチは――」


 玉音が御申し訳なさそうに首を傾げた。


「いや、分かりました。そういう事であれば、この剣ありがたく使わせていただきます」


 山南は何か納得したように、力強く頷いた。



 その時――


 りぃぃぃ――――ん


 鍔が鳴った。


 それはまるで、山南の想いに応え剣――宗景が応えたかのようだった。


「それでは我々はこれで」


 眼尻に深い皺を刻んで、山南が微笑んだ。


「滋養をとってしばらく無理をしなければ、身体のことも心配はいらないでしょう。が、万が一の時には壬生の新撰組を尋ねてください」

「はい」


 山南と斉藤の背を見送る母子は、朝焼けの中いつまでも頭を下げ続けた。




          ※





 これで宜しいのですか――と、香尾が呟いた。


「ええちゃ、ええちゃ。上出来じゃち」


 満面の笑みを浮かべ、龍馬が頷いた。

 大打螺神社を見下ろす崖の上に二人はいた。


「後で問題になっても知りませんよ」

「構わんぜよ。わしゃな、どうにも此度の連中のやりようが気に入らんがじゃ」


 龍馬が子供のように頬を膨らませた。


「女子供を泣かすなんぞ、卑怯もええところじゃ。薩摩隼人が泣きゆうぜ」

「あら。坂本さまから卑怯なんて言葉出てくるとは、晴天の霹靂です」

「なにを言うとるがじゃ。ワシはの、お天道さんに顔向けできんことなんぞしたことがないきに」

「どの口が仰います」


 香尾が呆れたように溜息を吐く。


「そんなに気に入らないのならば、坂本さまが直に、大久保様に談判すれば宜しかったではありませんか」

「そげな事したら、薩摩と関係がこじれるじゃろが。そしたら困るんは――」


 こん日本じゃ――と、龍馬は嗤った。


「ワシはな、目的を果たすのに手段は選ばんのじゃ」


 まったく――と、香尾は肩を落とす。


「あの連れの男に、この場所を教えたのも坂本さまなのですよね。ご丁寧に頃合いを見計らって到着するように仕向けて」

「なんじゃ。知っちょったのか」


 坂本は困ったように頭を掻いた。


「あの男も、なにやら山南さんを探っちょったようじゃしの。ええもんが見れて良かったろう。山南さんも剣を手に入れ、ワシも目的を果たせて、三方一挙丸く収まり万々歳じゃ」


 子供のような顔で、龍馬が天を仰いだ。


「本当に、狡い御方――」


 そう呟くと、香尾はそそくさと、その場を後にした。


「おい、ワシを置いていかんでくれ――」


 その背を追うように、龍馬は慌てて駆けだした。



          ※




 昨夜の事だが――と、話を切り出したのは山南からだった。


 雪を被る竹林を抜け、朝日に照らされた朱塗りの千本鳥居に差し掛かったころだ。

 このまま鳥居を潜りながら山を下り、伏見街道を北へ上れば、昼過ぎには壬生村の屯所へ着くだろう。


「はい」

「やはり薩摩の動向は――近藤局長の耳に入れておいた方が良いだろうな」


 自分で切りだして置いて、山南の言葉はどこか歯切れが悪い。これは山南にしては珍しい事である。


「昨夜の事ですね」


 だが、斉藤にはその理由に察しがついていた。


「――うむ」


 どこか困ったように、山南が頭を掻いた。

 今回の一件、いくら非番中の出来事であるとはいえ報告せぬわけにはいくまい。 

 小さいとはいえ、一つの村の住人が皆殺しにあっているのである。

 会津を通して、伏見奉行所にも知らせねばなるまい。その際、薩摩が絡んでいることまで伝えるか否か。


 しかし、山南の問題としているところは、そこではないことは分かる。


「あの母親の言っていたこと――それが真実で良いのではありませんか」


 斉藤は言った。


「斉藤君――そうだな。そうだ」


 山南が自分に言い聞かせるように頷いた。


「すまない」


 一瞬、安堵したように息をつくと、山南は深々と頭を下げた。


「それともう一つ――」

「はい」

「私の使った術について隠すつもりは無いのだ。だが新撰組が組織として漸くまとまりかけてきたこの時期、余計な混乱を与えたくないのだ」

「はい」

「時期が来れば自らの口で必ず話す。だが、今はまだその時期ではない」


 真面目な顔をして、どこか困ったように訴える山南。これだけでも眼福である。

 そもそも、この度の件を土方に報告する気は斉藤にはなかった。

 怪力乱神を語らずを信とする土方に、このような事をどうやって説明すればよいのか、斉藤には見当がつかなかった。

 それに、この山南敬助と言う男を、自分なりに見極めてみたいとも思うのだった。


「承知」


 言葉少なく、斉藤は朴訥に応えた。


「ですが――高いですよ」


 と、斉藤が自分の口元に指を立てる。

 山南にしてみれば、斉藤を巻き込んでしまい、怪我まで負わせたのである。


「もっともだ」

 

口止めの見返りを求められても当然と思ったのだろう。申し訳なさそうに頷いた。


「帰る前に、旨い蕎麦をご馳走してくれるのですよね」


 鳥居の下を潜りながら、斉藤が念を押す。


「あ、ああ。もちろんだ」

「昨夜冷えましたからね」

「んっ?」

「熱燗もお願いします」


 と、ぼそりと呟き、斉藤がそっと口角を上げた。


「分かった。この先にいい店があるらしい。シャモも馳走しよう」

「高くつきますよ」


 二人は声を上げて笑った。


 その時――


「……っちゃ――――ん」


 遠く背後で、誰かを呼ぶ声がした。

 その声に、山南と斉藤が脚を止めた。


「――――おおきに。ほんま、おおきにな!」


 振り返るとそこには、鳥居の間を駆け抜ける凛音の姿があった。

 山南らの後を追い、ここまで見送りに来たのだ。


「凛音、元気でな」


 山南が声を上げ、大きく手を振る。

 さして興味もなさそうに手を上げる斉藤も、心なしかその眼尻が緩んでいる。


「おおきに――おおきに――」


 朱い鳥居の間から二人を見送る凛音は、子狐のように飛び跳ね、いつまでも手を振った。





                                 了

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幕末陰陽傳 白狐舞 猛士 @takeshi999

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