第11話 剣死舞


 身体が火照っている。


 臍の奥の方から、ほんのりと温もりが広がっていた。

 まるで春の日差しのような山南の温もりが、そこに残っているようだった。


 玉音は下腹部にそっと手をやった。

 その手は、山南の術のおかげで、下の白い地肌が見えるまでに獣毛が少なくなっている。


「山南啓助――」


 思わず、玉音は呟いた。


「おかん、なんか言うた?」


 囲炉裏にかかった鍋に、キノコを放り込んでいた凛音が顔を上げた。

 味噌の煮える匂いが、なんとも香ばしく鼻腔をくすぐった。


「な、なんも、言うてへんよ」

「嘘や。山南はんて、言うてたやない」

「凛音――親をからかうもんやない」


 無邪気に笑う凛音に、玉音が頬を染める。


「また明日来る言うてたな」


 凛音の声も、どこか嬉しそうだった。


「なぁ凛音。お母ん治るやろか?」


 まだ毛深い手で、歪にひきつる頬を撫でながら、玉音が不安そうに呟いた。


「どもない。山南のおっちゃん、治る言うてたやん」


 凛音が、自信たっぷりに眼を輝かせた。


「そう、そうやね。こないに良くなったんやから、どもないなぁ」

「そやっ」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 こんな風に笑ったのは、いつ以来のことだったろう。

 外は雪が残ると言うのに、暗く沈み切っていたこの家に、温かな日差しが射したようだった。


 その時だった。


 どん。どん。


 木戸を叩く音がした。

 思わず、ふたりは顔を見合わせた。


 どんどん。


「だ、誰やろ」


 玉音が身を竦ませる。

 すでに陽は沈んでいる。他人の家を訪ねる刻限ではない。なにより、今では村の人間がここに来ることはない。


「あっ、山南のおっちゃんや。きっと暗くならはって、思いなおしい戻ってきたんや」


 凛音が木戸に向かって駆けていく。

 確かに。それが一番筋が通る。

 と言うよりも、そうであって欲しいと願う自分がいる。


 だが――なぜだろう。


 玉音の背をざわざわとした不安が這い上がる。


「凛音、ちょっと待ちぃ――」


 つっかえ棒を外し、木戸に手を掛ける凛音を止めようと手を伸ばす。

 だが――凛音が手を掛けるより先に、木戸が開いた。


「山南のおっちゃ……」


 凛音の声が、萎んでいく。


「久しぶいじゃの」


 夜の闇から湧き出したように姿を現したのは、黒装束の男だった。

 山南ではない。

 色素が欠落したかのような、肌の白い美丈夫。

 その顔の造作とあまりにも不似合いな、逞しい体躯が、木戸を押し広げるようにして入り込んできた。


「は、半次郎はん――」

「待たせもんしたの。迎えに来うたぞ――」


 玉音――と、あの日と同じ顔で中村半次郎が嗤った。

 その笑みは山南のそれとは違い、冬の空に浮かぶ虚ろな三日月のようだった。


「――な、なんで――なんで今頃、来やはったん……」


 玉音の声も震えていた。


「頃合いを、待っちょったんじゃ」

「――頃合い?」

「おかしかなぁ。まだそいしか変わうておらんとは」

「えっ?」


 半次郎が玉音の左半身を、舐めまわすように見つめた。

 反射的に身を捻り、半次郎の視線から逃げようとした。


「凛音――」


 戸口に立っていた凛音を呼び戻そうと声を上げたが、踵を返しかけた凛音の腕は、半次郎の岩のような掌に掴まれてしまった。


「凛音を離して――」

「なんじゃ、おかしかの……」


 半次郎が鼻をひくつかせる。


「ははぁ――おまさあ、男でん出来よったじゃやな」


 玉音の言葉など意に反さず、何とも下卑た笑いを浮かべた。


「くつっ。さすが巫女は巫女でも淫売じゃの。亭主が死んで間も無きに――」


 他の男で咥えこむだけはあるの――と、玉音が見たことのない醜悪な笑みを浮かべた。


「は、半次郎はん」


 かつて情を交わした男の名を呼びながら、玉音はまるで別人を見ている思いだった。


 この男は誰なのだ。


「半次郎はん。あ、あんた、ウチになにしはったん?」


 凛音の腕を捻りあげているこの男は――誰なのだ。

 武骨だが優しく微笑み、凛音を愛おしそうに抱きしめてくれた男ではなかったか。


「なんでなん? 教えて。なんでウチを、なんでこんな姿にしたんや――なんで、そないに怖い貌(かお)で嗤うん? なんで凛音にそない酷い事……なんで――なんでなん?なんで……ウチの前から――」


 消えたんや――と、玉音の瞳が半次郎を見据える。


「煩わしか」

「――えっ」

「病ば治してやったじゃろ」


 能面のような眼で、半次郎が吐き捨てた。


「労咳で死にかかっちょったおまさぁを治してやったんじゃ。なにを文句いうとる」

「は、半次郎はん――」


 半次郎が声を荒げて笑った。


「鈍かの玉音。霊験あらたかな巫女いうても所詮は女子。亭主を亡くし、男日照りの後家にゃ、おいんような、こげん色男をば前にすれば、にわか霊力も役には立たんと、色にべきょるか」


 半次郎は己の頬をぺちぺちと叩きながら、げらげらと笑った。

 それに揺さぶられて、凛音が苦しそうに顔を歪める。


「そ、そない酷かこと――」


 玉音が屈辱と羞恥に、唇を噛む。


「そげん浅ましか性根が、身に沁みでたんじゃ。ぬしのその姿はその表れじゃ」


 半次郎の笑い声が、玉音を容赦なく鞭打つ。

 玉音は唇を噛みしめ嗚咽し、凛音は声を上げて泣きじゃくる。


かしらぁ、まだ遊んどるのか」


 戸口の向こうから、半次郎と同じような黒装束の男が、ぬらりと顔を出した。


「久三か」

「頭ぁ、久しゅうて乳繰り合おうたを思い出したか」


 顔の右半分が火傷疵でひきつれた男が、蛇のように嗤った。

 半次郎が左に身を避けると、久三と呼ばれた火傷の男を先頭に、四人の男が戸口を潜った。

 いずれもが、血に濡れた獣のような空気を纏っている。その獣臭のような気配に周囲が歪んで見えるかのごとく錯覚する。


 家の空気が、血生臭い獣臭に侵されていく。

 ひりつくような空気に、泣きじゃくる凛音が息を詰まらせる。


「こいが、獣巫女か」


 一番最後に入ってきた、ずんぐりとした熊のような男が、玉音を舐めつけ舌なめずりする。


「権左は、穴ばあれば犬でん猿でんおかまい無しじゃからの」


 横に居た、蓬髪の若い男が揶揄した。


「亥吉。ぬしゃ黙っとれ」


 久三に窘められ、亥吉が舌を出す。


「は、半次郎はん――」


 黒装束の男たちを見つめる玉音の瞳が、怯えに揺らぐ。


「獣巫女、ホンに鈍かの。わいらのかしらを、まだそん名でん呼ぶか」

「えっ?」


 久三の言葉に、玉音が眼を見張る。


「中村半次郎どんは、こげな所に来るようなお人でんなか。今頃は藩主様を警護しておるじゃぞ」

「な、なんを言うて――」

「こんお方は、わいらのかしらじゃ。かしら白鯰しろなまずさぁじゃ」


 四人が声を上げて笑った。


「半次郎どんの名をば借りれば、どこへ行っても通りが良かでん」


 半次郎――白鯰がにやりと笑った。


「なんでなん。なんでこないことを――」

「ないごてじゃと?」


 不思議そうな顔で白鯰が首を傾けた。


「天下の為じゃ」

「天下の……ため?」

「徳川の世をひっくり返すには、人の力だけでは足りんからの。人外の化けもんでん使っわにゃならんのじゃと。そん為んお試しじゃ」


 まるで虫けらでも見るように、白鯰が冷たく言い放つ。


「えげれすから仕入れた、化けもんの精を煎じて作ぉた秘薬じゃ。女子(おなご)ん腹ン中で溶けて身体を獣に作り変っとじゃと」

「そ、そんな怖ろしかもの、なんでうちに?」

「こん山んなかで、ひっそり暮らしちょるもんが、居なくなろうが誰も気にせんじゃろ」


 白鯰の顔が、にやりと歪む。


「それが……それが、こない姿にすることなん!」


 玉音の声が悲痛に響く。


「そげなぬしでん、天下の為に役立てちゃろうと、ありがたか秘薬をくれてやり、女子としての愉悦までくれてやったんじゃ、喜ばんか。ほれ喜ばんか」


 にやりと、白鯰が口元を引きつらせる。


「……い、いや――――いやや――――やめて……」


 耳をふさぎ、かぶりを振る玉音に、男たちの下卑た笑いが容赦なく降り注ぐ。

 堪りかねた凛音が再び鳴き声をあげた。


「ふん、うるさか童っぱじゃ」


 白鯰が腕を振ると、凛音が木端のように吹き飛んだ。


「りんね!」


 水汲み用のたらいにぶつかり、凛音の小さな身体が跳ねて転がった。


「ぎゃふっ」


 背中を打ち付けた凛音が、身を丸めて呻く。

 慌てて駆け寄ろうとした玉音の前に、白鯰が立ち塞がった。


「まだ死んじょらん」

「許さへん」

「あん?」

「あんたを許さへん」


 ぎり――と、白鯰を睨みつける玉音に変化が起こった。


 怒りに呼応するかのように髪が湧き上がり、玉音の裡で物凄い勢いで氣が高まっていく。

 腕に生えた獣毛が、ざわざわと逆立っていく。


「ほう――」


 左半身だけだった毛が太さをまし、全身に広がってゆく。


「なんじゃ、怒れば姿ば変わるでんなかか。良か良か」


 おい久三――と、頭の声に、久三がぎらりと白刃を抜いた。


「殺れ」

「承知」


 土間に転がった凛音に、白刃が突きつけられる。


「いやぁぁ――」


 その瞬間、玉音の氣が爆発的に膨れ上がり、全身を純白の獣毛が覆った。

 瞳は紅い隈をともない吊り上り、牙と化した犬歯がぞろりと姿を現した。


「こいが『うぇあうるぶ』ちゅうやつか」


 白鯰の口元が吊り上る。

 その時、戸口から黒い影が飛び込んできた。


「なんじゃ!」

「むう」


 墨を塗り固めたような艶やかな塊が四つ。それが背後から久三らに襲い掛かった。

 それは闇夜を千切りとったような、四羽の鴉だった。


 だが、四人の反応も尋常ではなかった。

 四人は蜘蛛の子を散らすように広がると、白刃を抜き迎え撃つ。


「いけない、玉音さん!」


 混乱の真っただ中に山南啓助が躍り出た。

 身を低くし、腰の剣を抜くと白鯰に向かい逆袈裟に斬りあげる。


「なんじゃ、ぬしゃ?」


 だが、白鯰が振り向きざま抜き放った剣が、それをいとも容易く弾いた。

 しかし山南はその力に逆らわず、勢いのまま身を翻すと、玉音と白鯰の間に立ち塞がった。 


「――凛音」


 一瞬のうちに視線を走らせ、山南は凛音の姿を確認する。

 胸の上下――出血の有無。


「女童相手に、加減も知らぬが薩摩武士の流儀なのか」


 その声音は淡々とし、落ち着き払って聞こえる。

 だが、その目元に浮かぶはいつもの柔和な笑みではない。

 白鯰を睨むその瞳に宿るは、明王の如き憤怒。


「武士の流儀なんぞ知らんなぁ」

「なに?」

「わいら『山くぐり』のやり方は、捨てがまり。使えるもんは身内でん使うんじゃ」

「山くぐりだと? 薩摩の忍びか」


 かつての戦国の世。山くぐりと呼ばれる忍び衆が薩摩にいたと聞いたことがある。


「その女子になに言われたか知らんが、半次郎なぞがこげな場所に来るわけなかろう」


 わいらも捨てがまりじゃ――と、山南を嘲笑う白鯰に、山南の放った鴉を斬り伏せた四人の笑い声が重なる。


「主こそ何者じゃ?刀振り回しちょるが――」  


 久三が半分に斬れた札を突きつけた。

 それは山南の放った鴉――の正体。五芒星の描かれた式鬼の呪符だった。


「ふん。術師崩れか」


 それを見た白鯰が、つまらなそうに呟いた。


を、邪法でたぶらかしよったか」


 と、下卑た笑い声をあげた。


「黙れ」

「なんじゃ?」

「黙れと言ったのだ!」


 山南が声を荒げた。


「罪なき母子を陥れ、穢れた呪薬で獣に堕とそうなど鬼畜外道の所業。断じて許せん」


 山南の剣が青眼に構えられた。


「ほぉ、よう分かったの。主ぁなかなか物知りじゃの」


 白鯰の眼がすっと細められた。


「じゃっどん、許せんかったらどすると?」

「知れたこと。その身を持って償って貰おう」


 山南の剣先が、波打つように小刻みに震えだした。


「なんじゃ、威勢のよか言うても優男でん、震えちょるぞ」


 山南を指さし、亥吉が嘲笑った。


「亥吉!」


 白鯰の叱咤に思わず視線を泳がせた亥吉の指先が、ぽとりと音をたて落ちた。


「阿呆が、そいは北辰一刀流じゃ!」

「えっ?」


 己の指を斬られた事にも気が付かない亥吉に向かって、山南の剣が再び煌めいた。

 青眼の構えを波のように揺らめかせ、独特の拍子を刻む北辰一刀流の剣を、臆病風に震えていると嘲笑った己の醜態に、亥吉が顔を赤くする間もなかった。

 山南の剣が、亥吉の頭頂部から真向に振り下ろされる。


「ひぃぃ――」


 腰の刀に手を伸ばすも掴むはずの指は無く、虚しく宙を掴む。だが山南の剣は横手から差し出された、巨大な鉈のような権左の剣に弾かれた。


「ひぁあぁぁぁ――肝ば冷やした」


 気を取り直した亥吉が、小指で引っ掛けるようにして剣を引き抜いた。

 同時に、ギラリと殺気を解き放ち、久三らも刀を抜く。

 その光景に、ごく自然に白鯰が一歩下がり、その前に立ちはだかるように四人が並ぶ。


「ぬしゃ、よくもやってくれたな」


 亥吉の眼が羞恥と怒りに赤く染まる。


「おまえが鈍かとじゃ」


 久三の叱咤に亥吉を除く全員が嘲笑するが、殺気のこもる眼は山南から一瞬たりとも離さない。

 山南は自分の背後に玉音を置き、視界の隅に凛音をいれる。


「玉音さん。心をしっかり持つのだ。氣を鎮めて息を整えなさい」


 獣のように苦しそうな呻きを上げる玉音に声を掛けるも、視線は山くぐりの男たちに据えたままである。

 僅かばかりの気の乱れも、この張り詰めた緊張を破るだろう。

 だが、背中越しに感じる玉音の状態に、嫌が応でも山南の気がはやる。


「……お母かん」


 緊張を破ったのは、震える幼い声だった。

 身体の痛みにすすり泣き、凛音が母を求める。


「――――りぃ……んえ。――――りん、ぬぇ!」


 娘の名を呼ぶ玉音の不明瞭な声は、最も危惧していたことが現実となった事を意味していた。


「ちぃ!」


 最早、一刻の猶予もない。

 その時、白鯰が音もなく凛音に向かい動いた。


「そいな事かぃ」


 白鯰が口の端を持ち上げる。


「やらせん!」


 山南が凛音に向かい走り出そうとするのを、権左の剣が許さなかった。


「邪魔をするな」


 唸りを上げ襲い来る権左の大鉈を躱し、山南の剣が手首を切り上げる。


「けひゃ!」


 だが、復讐に駆られる亥吉の剣がそれを阻む。


「きひぃ!」


 亥吉の剣が、毒蛇の如く山南に迫る。


「退け!」


 しかし、山南とて、それを容易く許しはしない。

 山南は滑るように前に出ると、一気に胴を薙ぐ。


「――ひぃっ」


 復讐の狂気に憑かれた亥吉の顔が、恐怖に引きつる。

 亥吉の胴を両断する寸前で、またもや権左の大鉈が山南の剣の腹を叩いた。

 斬撃の軌道は逸れ、その隙に亥吉はましらのように蜻蛉をきって後退する。


「懲りん奴じゃの」


 権左が呆れたように呟く。


「や、やかましい」


 冷や汗を拭いながら亥吉が強がる。


「認めんか。此奴できよる」


 久三と終始押し黙っていたもう一人の男も、山南を取り囲むように前に出た。

 白鯰を除く山くぐりの四人が、山南を押し包むように立ち塞がる。血臭にも似た異様な殺気が、両者の間の空気を歪ませてゆく。

 久三の言葉で冷静さを取り戻した亥吉を含め、四人は山南の剣の腕を認めていた。


 既に山くぐりの者たちは、山南を一流の剣客と認識している。

 術師崩れの似非剣術などでは無く、天下に名だたる北辰一刀流の剣士として対峙していた。


 一対四


 数の上では一方的だが、互いの状態は五分と五分の拮抗にあった。

 双方動くことが出来ない。

 だがその均衡を破ったのは、またしても凛音の声だった。


「――嫌や!」


 凛音の小さな腕を白鯰が鷲掴み、宙に持ち上げた。


「娘ば殺されるを見れば、鈍かぬしも化けっとじゃろ」


 捕らえた獲物を晒すように、玉音に見せつけた。


「こんまま、ずぶりといくかの」


 刀の切っ先が、凛音の華奢な脇腹に突きつけられている。


「あわぁぁぁ――」


 凛音の身体が恐怖に硬直する。


「……痛っ」


 その僅かな震えで、切っ先が浅く凛音の腹を突き、じんわりと朱い染みが広がった。


「りぃいいぃんえぇ!」


 その瞬間――山南の背後で、玉音の氣が弾けた。


 りぃぃ――ん


 澄んだ金属が打ち鳴らされるような音が、空気を震わせ、その場にいた全員の耳朶を揺さぶった。


「耐えるんだ玉音さん!」


 山南が眼前の敵も構わず振り返る。

 そこには、緋袴に身を包んだ、純白の獣がいた。


 鼻先から顎は緩やかに前に突出し、めくれ上がった唇からは刃物のような牙が覗く。

 炯と輝く瞳は金色に染まり紅い隈が縁を彩る。指先には鎌のように鋭い爪が鈍く輝く。


 その姿は人と獣の境界に立つ妖――いや神獣と言うべきか。

 玉音は純白の毛をなびかせ、獣のようにしなやかに跳躍した。


「むぅ」


 さしもの山南も反応が出来ない。


「なんじゃ――」


 それは山くぐりの男たちも同様であった。

 男らを間を風のようにすり抜けると、玉音は一瞬で白鯰の前に立った。


「玉音ぇ――っ!」


 玉音が刃物のような爪を振ると、白鯰の腕が掴んでいた凛音ごと地に落ちた。


「――お、お母ん……」


 眼の前の出来事に痛みも忘れ、凛音が変わり果てた母を見つめる。

 その視線に、金色の瞳に憐憫の色が浮かんだ。

 それは紛れも無く、子を想う母の瞳――だがそれも刹那のこと。

 一瞬の隙に、白鯰が外に飛び出す。

 直後、金属を響かせるような咆哮を上げ、玉音がそれを追う。

 呆気にとられる山くぐり達を尻目に、山南が凛音の元に駆けよる。


「大丈夫か?」


 凛音が頷く。


「で、でも、お、おかんが……」


 大丈夫だ――と、凛音の頭を撫でながら、脇の傷を確認する。

 血は滲んでいるが深くはない。

 そこへ、亥吉の剣が突き出された。

 山南はそれを薙ぎ払うと、凛音を抱え距離を取った。


「貴様たちの頭目だろう。追わなくて良いのか」

「その前に、ぬしには、指の借りを返してもらわんといかん。ぬしのも切り刻んで犬の餌じゃ」


 亥吉の瞳が狂気に揺れる。


「その餓鬼にはまだ使いでがあるでん、こちに貰おうか」


 久三が火傷でひきつった顔を歪め手を伸ばす。


「なんでん良かど。貴様は殺し、そん娘は慰みもんじゃ」


 権左が大きな身体を揺らして笑う。


「外道め――」


 ぽつりと呟くと、山南がゆらりと立ち上がる。

 凛音を背後に匿うように下がらせると、


「母上は必ず私が助ける。だからもう暫く辛抱してくれるかな?」


 背後の凛音を優しく諭す。

 頷く代わりに、凛音は山南の袴を一寸引くと、そっと離れた。


「約束だ」


 山南の眼尻に一瞬だけ柔和な皺が浮かんだ。

 が、一転――山くぐりを見据える瞳に憤怒の色が湧き上がる。


「死ねぃ!」


 突如、権左が大鉈で突きかかってきた。

 巨大な熊が襲い掛かってきたような迫力だ。

 だが山南は慌てることなく、絶妙の拍子で弾いた。


「なんだ?」


 刹那、剣より伝わる僅かな違和感に、山南の眉間に皺が寄る。

 だが、いぶかしむ余裕はなかった。

 山南に弾かれ大きく身体を流した権三の足元から、亥吉の剣が毒蛇の鎌首のように湧き上がってきた。


 権左の大きな身体に隠れ、亥吉は地を這うように山南に迫った。

 山南は自ら大きく跳ぶと同時に、剣の柄で亥吉の肩口を叩いた。

 だが跳んだ先では、上段と八双の中間に剣を構えた久三がいた。


「ちぃぃぃぇぇぇすとぉぉぉぉ!」


 示現流――『二ノ太刀要らず』ともいわれる必殺の剛剣に逃げ場はない。

 裂帛の気合と共に撃ち下ろされる剣を、山南は真っ向から受けるしかなかった。


 ぎぃん!


 鈍い金属音とともに、宙を舞う刃は壁の板に突き刺さった。


「ぐむっ」


 右腕から鮮血が上がり、山南は床に膝をついた。

 それでも青眼に構えられたその剣は、刀身の中ごろから半分を綺麗に失っていた。

 先程の違和感の正体はこれだったのだ。権左の大鉈を剣の腹で受けたのがいけなかった。

 あの時すでに山南の剣は死に体だったのだ。


「あげな体勢からよくぞ受けもんしたな」


 久三が敵に対し感嘆の溜息を漏らす。


「じゃっどん、こいで終いじゃ」


 久三が山南の真正面。戸口を背にして、再び蜻蛉とんぼの構えを取る。山南を確実に仕留めてから、凛音を抑えるつもりなのだろう。


 左側には権左。右側には亥吉が剣を構える。

 凛音は山南の背後――部屋の隅で小さくなり、じっと成り行きを見つめている。


 どうする――折れた剣では久三の示現流は受け切れない。

 それに、もし受け切れたとしても、亥吉と権左の攻撃は躱せない。

 懐から呪符を取り出し隙も、印を組むような間もない。


「ちぃぃぃぃぃぃぃ――ぇぇ――――」


 こうしている間にも久三の気が練り上げられていく。

 びりびりと帯電したように空気が震えた。

 狂気に裏返ったような久三の気合が、突き抜けるように昂ぶってゆく。


「――――ぇぇええええすとぉ――――」


 山南が覚悟を決めた刹那――

 久三の背後――開け放たれたままの戸口から、猛烈な勢いで殺気の塊が飛び込んできた。


「――ぉぉぉぉ!」


 突如出現した強烈な殺気に、久三が否応なく反応した。

 剛槍の質量を持った殺気を、身を捻りながら受けたのでは、さしもの示現流も分が悪かった。


 ぎぃいいん


 激しく金属のぶつかり合う音を残し、弾き飛ばされたのは久三の方だった。


「さ、斎藤くん」


 そこには刃を水平に突き出した、斉藤一の姿があった。


「山南さん、お迎えに上がりました」


 無表情の斉藤のだが、微かに口元を持ち上げた。


「な、なぜここに?」

「大阪で奇妙な男と会いまして」

「奇妙な男?」

「山南さんが伏見の山奥で困っているから――と、才谷と名乗る蓬髪の大男が教えてくれました」


 斉藤の冷徹な眼が、亥吉と権左の動きを封じている。まるで獲物を狙う餓狼のように進み出ると、山南に肩を貸して立たせた。


「さいだに?」


 聞き覚えのない名前だった。だが、その男が誰であるか、山南には確信があった。


「貴様んっ」


 壁板を突き破った久三が、のっそりと立ち上がった。

 殺気に燃える瞳で斉藤を睨みつけている。


「先ほど、この連中と似たようなの男たちと、緋袴を身に付けた白狐が走っていきましたが?」


 驚く風でも無くさらりと言う。


「斉藤君、詳しい説明は後でする。私は急ぎ奴らの後を追いたい。力を貸してくれるか」

「承知」


 一瞬。山くぐりの三人と、背後の凛音を見やると斉藤は即答する。


「ありがとう」


 だが、そんなやり取りを黙って見過ごす連中ではなかった。少なくとも、権左を除く二人はそれぞれ怨みを晴らすべき相手がいるのだ。


 久三が剛剣を振りかぶり斉藤に襲いかかる。

 負けじと、踏み込んでそれを受ける斉藤。

 剛剣と剛剣がぶつかり、剣舞を舞うように激しく打ち合う。

 二人は鍔迫り合いのまま縺れるように壁際まで走った。


「斉藤くん!」


 山南の心配をよそに、斉藤の口元が持ち上がっているのが見えた。

 心配ない――斉藤はこの闘いを欲していた。

 なにより人の心配をしている場合ではない。


「けひやぁぁ!」


 山南に復讐を誓う亥吉が襲いかかる。

 折れた剣でそれを弾く山南の横を、羆のような影が駆け抜けていく。


「凛音逃げるんだ!」


 その声に、どこかへ行こうとしていた凛音が振り返った。

 自分に迫る狂獣に、凛音の動きが止まる。


「――急々如律令!」


 山南は懐から呪符を取り出すと、権左に放った。

 投じられた五枚の呪符は、闇鴉と化し権左に襲い掛かる。


 次の瞬間――


「ぬっ――」


 山南の頬から鮮血が噴き出す。


「余裕じゃのぉぉ」


 加虐の笑みに顔を歪めた亥吉が、切っ先についた山南の血を舐めとる。

 呪符を放つ一瞬の隙を見逃すほど、亥吉は甘くなかった。


「あなたこそ余裕のつもりですか」

「なんじゃ?」

「私を斬るなら最後の機会を失したと言っているのです」

「ほざくな!」


 山南の挑発に亥吉が激昂する。

 毒蛇のように執拗な動きで、亥吉の剣が繰り出されていく。


「ちぇぇぇぇぇぃい――」


 亥吉が低い体勢から切っ先を突きだした。

 充分に引き付けておいて、山南が体を躱す。


 ちゃりん――と、刃を返した。


 亥吉がそれに反応し、折れた刀身の長さを見切り跳んだ。

 その瞬間――山南の刀身が消えた。


「なにぃ!?」


 亥吉の反応は素早く、五尺は跳んだ。例え山南の剣が折れてなかったとしても、余裕を持った距離を取った筈だった。


 だが、亥吉の右首の付け根から左腋にかけて、血が噴き出した。

 亥吉は自分の身に何が起こったのか理解できぬまま、床に伏した。


「『空寂くうじゃく』は躱せまい」


 山南が呟いた技はどのようなものなのか。

 中程から折れた剣では、山南の踏み込みを持ってしても決して届かぬ間合い。だが、山南の折れた剣の先は亥吉の血脂に濡れている。


 山南は息つく間もなく踵を返すと、凛音を探す。

 すると凛音は、壁際にある神棚の下で、権左に追い詰められていた。

 咄嗟に放った式鬼など、気休めにしかならぬことは重々承知。

 獲物を捕食せんとする羆の如き権左と凛音の間に、山南は割って入り、跳びこみ様に、折れた剣を振るう。


 だが僅かに肉を抉るも所詮はそこまで。意にも返さぬ権左の大鉈に、今度こそ山南の刀は根元から叩き折られた。

 山南は咄嗟に柄から手を離すとそのまま凛音を抱え、転がるように間合いを取った。


「大丈夫か?」


 頷く凛音の瞳には、凛とした強い光が宿っていた。


「ごぉあぁぁ!」


 権左の大鉈は、刹那の慰めも許さなかった。

 山南は凛音を突き飛ばし、自らは逆方向に身を転がす。

 起き上がりざま小太刀を抜くと、頭上から打ち下ろされる大鉈を受けた。

 その衝撃は凄まじい。小太刀では保って二合か三合――剣が持つまい。

 万策尽きる山南の視界に、神棚に手を掛ける凛音の姿が映った。


「何をしているのだ、早く逃げるんだ!」


 その一瞬を、権左は見逃さなかった。

 唸りを上げて振り降ろされる大鉈に対し、山南は前に踏み込むと、小太刀を絡めるように受けた。


 権左の膂力を受け流すようにして己のたいを躱し、左側面に回り込みつつ権左の肘関節を極める。権左が山南を振り払おうとするが、己の膂力が自らの肘を縛り上げる痛みに、苦悶の声を漏らす。


「今のうちに外に逃げ――」


 権左の怪力が山南の技を強引に打ち破った。力任せに振りほどかれた山南の身体が、神棚の壁に叩きつけられた。

 その衝撃で、凛音が手にした紫色の棒状の物が転がった。


「――凛音!」


 壁に背中から叩きつけられ、呼吸がままならない。

 よろりと立ち上がった山南に、狂獣と化した権左の渾身の一撃が迫る。

 これまでか――死を覚悟した山南の視界に、紫の布にくるまれた棒を必死で差し出す凛音の姿が映った。


 布はだけ、そこに除くは――剣の柄だった。

 山南は躊躇わなかった。

 転がるように飛び出し、剣の柄を握る。

 その瞬間――全身に氣が翔け廻った。


 白虎が四肢に漲り、玄武が心を鎮め――

 ――朱雀が血をたぎらせる。

 そして青竜が迸った。


「ぜぇぇぇっ!」


 山南の口から裂帛の気合が迸る。

 白銀の煌めきを放つ刀身は、大鉈ごとその巨体を両断した。

 床に落ちた権左の首が、にたりと嗤った。

 だが次の瞬間、その笑みを張りつかせたまま権左は絶命した。


「――山南のおっちゃん」


 凛音が山南に抱きついてきた。


「助かった、ありがとう」


 山南は凛音の頭を優しく撫でた。


「しかし、この剣は?」


 凛音の差し出した剣に救われた。これが無ければ今ごろ床に転がっていたのは山南の方だったろう。なんとも不思議な剣だった。

 柄を握っただけで、全身に氣が満ち溢れてくる。

 それに、まるで長い事使い込んだかのように手に馴染む。


「お父んの剣。ほうのうとうの影うちだって」

「奉納刀?」


 見れば鍔には四神相応――すなわち、白虎・青龍・玄武・朱雀があしらわれている。


「成程……」


 山南は納得した。


「凛音、君の父上の残してくれたこの剣が、私と君の命を救った。次は君の母上を助ける為に、今一度貸してもらえるかな?」

「うん。お母んを助けて」


 凛音が涙を堪えて頷く。


「ありがとう」


 山南が立ち上がる。


「斉藤君――」


 斉藤と久三は激しい鍔迫り合いから、弾かれたように間合いをとった。

 薄氷のように張り詰めた殺気を放ち、対峙する。


「直ぐに片が付きます。心配無用」


 過信でも自惚れでもない。


「その童のことも――」


 寡黙で愛想はないが、斉藤の言葉に微塵の不安もない。


「分かった」


 言うや、凛音の頭をぽんと、叩いた。

 凛音が頷く。


「――頼む」


 四神刀を携え山南が走った。

 開け放たれたままの木戸を山南が駆け抜けるのを、久三は見過ごす。


「馬鹿では無いな」


 淡々と斉藤が呟く。

 例え僅かでも、山南が出ていくことに気を動かしたならば、斉藤の剣は容赦なく久三を斬り捨てていただろう。


「貴様を斬り捨ててから、餓鬼を引きずって行けば済むことでん」


 久三もそれが分かっている。

 逆に、斉藤が微塵でも隙を見せれば、久三の剛剣が同様に襲いかかる。


「終いにせんとじゃの」


 大上段に構えられた久三の剣が、真っ直ぐに天を指す。

 みちみちと音をたてながら、柄尻が久三のこめかみの横に下りてくる。


「ちぃぇぇぇぇぇぇぇ――――――――」


 溶けた鉄のような熱気が久三の身体の内側から湧き上がる。

 迸る熱気で斉藤の皮膚が焦げ付きそうだった。


「やってみろ――――」


 斉藤の口元が、くいと持ち上がる。

 切先を久三に向け、刃を天に返していた斉藤の剣が、青眼に変化した。

 斉藤の全身に、研ぎ澄まされた刃のような氣が満ちていく。

 それが刀身を奔り切っ先まで満たされていくようだった。

 一身刀体――斉藤一は全身を一個の刀剣と化してそこにあった。


 諸手突き――


 まるで針の穴を穿つように、斉藤の切っ先が久三の喉元に狙いを定める。

 二人の間で硬質化した空気が、痛いほど張り詰めていく。


 勝負は一瞬だった。

 息を止め勝負の行方を見つめていた凛音が、耐え切れなくなって息を吸ったそれが合図だった。


「――――――――――すとぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」


 床を踏み抜くような勢いで、渾身の魂を込めた一撃を放った。

 血も骨肉も――魂さえも全て練込めた雲耀の剣撃が、切り裂く空気すら擦過させ斉藤の頭頂に襲い掛かった。

 それは恐らく久三にとって、生涯最高の打ち込みだった。

 切っ先が最短距離で奔る斉藤の諸手突きでも、久三の斬撃には及ばなかった。

 久三は、頭蓋から恥骨まで一息に両断された斉藤の姿を想い、勝利を確信した。


 だが――斉藤の技が加速した。


 斉藤が諸手突きから身を捩じり、右手を離すと剣先が加速した。

 身を捩じり込んだ加速に、全重心を傾けた片手突き。

 諸手から片手に変化したことによって急激に変化した間合いは、久三の最高の打ち込みを凌駕した。


 超高速の鉄鋼弾と化した斉藤の剣は、剛剣の軌道を弾き、久三の咽喉突き破り脊椎を深々と貫いた。


太子流たいしりゅう『餓狼』……」

「……ごゅっ――」


 久三の眼が斉藤を見つめる。


「ふん」


 斉藤が剣を引き抜くと、久三は大の字に倒れた。


「悪くなかったぞ」


 斉藤が見下ろす久三の顔は、どこか嗤って見えた。


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