スマホなんていらない恋がしたい

T.KANEKO

第1話

 新宿駅南口の喫茶店で、沢井恵梨は男を待っていた。

 男の名前は西田剛史。

 二人は同じ大学のテニスサークルで出会い、付き合い始めた。

 今から二十年も前のことだ。

 九州の高校を卒業して、上京してきた剛史は、下北沢にアパートを借りて住み、北海道から上京した恵梨は、自分で借りていたマンションを解約して、剛史の元へ転がり込んだ。

 二人は同棲生活をしていたが、社会人になって二年目に別れた。

 一応、恵梨が剛史を振ったという事になっている。

 その二人が十五年ぶりに偶然出会った。

 先週の土曜日、映画館で……


 恵梨が、隣の席に座っていた剛史に気づいた。

 剛史は、恵梨に気づかない。

 恵梨は、剛史のわき腹を、丸めた映画のパンフレットで突いた。

 剛史は、怪訝な目つきで隣席の女を睨み、それが恵梨だと気づく。

 「気づいてよ……」 恵梨が不満そうに頬っぺたを膨らませて言う。

 「気づかないよ、スクリーンを観てたんだから」 剛史は頬を引きつらせながら話す。

 「香水の匂いとかで分かるでしょ」 恵梨が含み笑いを浮かべて言うと、

 「分かるわけないだろ……」と剛史は苦笑いを浮かべた。

 この日、二人は映画を観終わったあと、各々の家へ帰った。

 二人は共に既婚者だ。別れてからの十五年間、お互いに違う人生を歩んできた。

 二人とも子どもは居ないが、夫婦二人でそれなりに幸せな生活を送っている。

 久しぶりに会った昔の恋人と、どうにかなるとは、お互い思っていなかった。


 しかし出会った日の夜、恵梨は、剛史に電話をして、次の週末に会いたいと言い出した。

 剛史も、恵梨の事が気になっていた。

 しかし、妻がいる手前、手放しで……という訳にはいかない。

 会えない理由をいくつか並べた。

 それでも、結局のところ会いたいのか、会いたくないのか、という本質を突かれて落ちた。剛史は、戸惑いながらも、渋々受け入れたのだ。


 喫茶店のカラン、コロンという音が鳴り、剛史がやって来た。

 二人は窓際の席で向かい合った。

 剛史はポケットからスマホを取り出し、テーブルの上に置く。

 すると、恵梨はその上に自分のスマホを重ねて、その上からハンカチを被せた。

 恵梨の奇妙な行いに、剛史は首を傾げたくなったが、何も言わなかった。

 「ねぇ、高級な鉄板料理の店を予約しているから行こうよ」

 恵梨が突然、言い出した。

 「えっ、いつ?」

 剛史は眉を潜めながら聞く。答えはわかっていたが、念のためだ。

 「今からだよ!」

 「いいけど、相変わらずだな……」

 恵梨は、聞くまでもないでしょ! というような口ぶりで言い、剛史は呆れ顔で受け止めた。

 交際しているときも、二人はこんな感じだった。

 剛史はいつも振り回されていた。恵梨の言いなりになっていたのに、剛史は振られた。

 二人はコーヒーを一杯ずつ飲んで店を出た。

 恵梨がハンカチと自分のスマホを仕舞い、剛史は自分のスマホを懐のポケットに入れた。


 鉄板料理の店は、カウンター席の目の前でシェフが調理をしてくれるところだった。

 席に通されると、剛史はスマホをカウンターの上に置いた。

 恵梨は、自分と反対側に置かれた剛史のスマホを二人の間へ移動させ、その上に自分のスマホを乗せて、ハンカチで覆った。

 剛史は恵梨の顔をじっと見つめる。

 今、行われた行為に関して、何らかの説明がある事を期待した。

 でも、恵梨は何も言わなかった。

 「なんで、旦那さんと来ないんだ?」

 剛史が素朴な疑問を投げかけた。

 「うちの旦那、こういうところ似合わないんだよね」

 剛史は心の中で滅茶苦茶な理由だな、と思ったが口には出さず、「旦那さんと、うまくいっているのか?」と、少しからかうような言い方をした。

 「うまくいってるよ……だって好きだもん……二番目だけどね」

 恵梨は口を尖らせながら言った。

 剛史は恵梨の言っている意味がよく分からなかった。

 二番目……の部分だ。

 「二番目ってどういう意味?」

 剛史は聞き流そうと思ったが、恵梨の目つきが、そこの部分を突っ込んで欲しそうだったので、仕方なく口にした。

 「私は、夫の事が二番目に好きなの……」

 きっと恵梨は、『じゃぁ、一番は誰?』という問いかけを待っている。剛史はそれを分かっていながら聞いた。

 「一番好きなのは、剛史だよ」

 剛史は動揺した。動揺して、言葉の箍が外れてしまう。

 二人の会話はピンポン球が飛び交うように弾んだ。

 「えっ……それは問題発言だなぁ……」

 「正直に言っただけだよ……」

 「じゃぁ、何で俺の事、振ったの?」

 「なんでだろうね…… でも一番好きな人とは結婚しないの。好きじゃなくなっちゃうから」

 「良くわかんないよ……」

 「じゃぁ、剛史にとって、私は何番目に好き?」

 「うーん、4番目くらいかな」

 「なにそれ…… すっごく中途半端なんだけど…… 3番目は誰なのよ?」

 「北川景子!」

 「はぁー…… じゃぁ2番目は?」

 「広瀬すず!」

 「若すぎるでしょ…… それで、1番好きなのは奥さんって事?」

 「1番はガッキー、奥さんは5番目……」

 「それ、問題発言じゃん」

 「人生なんて、そんなもんでしょ」

 「そんなもんだよね……」

 ようやく会話が鎮まった。

 食事を終えて、グラスに残っていたワインを飲み干した恵梨がポツリと言った。

 「私たち、付き合ってみない」

 その目は少しトロンとしていて、酔っている様にも見えるが、恵梨は酒が強い。

 剛史は、過去に酔っていると思って軽はずみの約束をして、何度も痛い目にあっていた。

 「もう、止まった時計は動き出さないよ」

 剛史は、搾り出した名文句に酔った。

 「別れたところからやり直すんじゃないの…… 最初から新しい関係を築くの……」

 恵梨のしっとりとした喋り方に、剛史は胸の中をかきむしられているような感じがした。

 「それって危険な匂いがするなぁ……」

 剛史は、精一杯、気取った言葉を繕った。

 「まぁ、いいわ……もう一軒行きましょう。ここは私が支払うわ」

 恵梨はハンカチと自分のスマホをカバンに仕舞い、もう一つのスマホを剛史が着ているジャケットの懐のポケットに差し込んだ。


 サザンテラスにある高層ビルのラウンジで、二人は夜景を見つめながら座っている。

 恵梨はグラスホッパー、剛史はモヒートを飲んでいる。

 ここでも、剛史のスマホの上に、恵梨のスマホが乗せられ、その上をハンカチが覆っていた。

 剛史が、ずっと気になっていた事を口にした。

 「あのさ、さっきからずっとスマホをハンカチで覆っているけど、これって何のおまじない?」

 ちょっとおどけたような口ぶりで問いかけたが、恵梨の反応は物静かだった。

 「スマホって、凄く無粋な気がするんだよね」

 剛史は、恵梨の口から、無粋、と言う言葉が出てきたことに驚いた。

 「無粋かもしれないけど、便利だぜ」

 恵梨は、剛史の事を上目遣いで見つめた。

 「便利だけど、幸せじゃないよね。便利な事と不便な事、幸せな事と不幸せな事は別物だから」

 恵梨の瞳が憂いを帯びている気がした。

 「私たちの学生時代には、こんなの無かったじゃない。だから、いつも向き合っていられた気がするの……周りを見て! みんなスマホばっかり気にしている。目の前に大切な人がいるのに……」

 「たしかにそうだけど……」

 「私も、剛史も、これに縛られているのよ。どこにいるか、誰といるか、ずっと監視されているの…… だからせめて、一番好きな人といる時くらいは、目隠ししておこうかなって……」

 剛史は恵梨の顔をじっと見つめる。

 物憂げな表情が、艶めいて見えた。

 剛史は視線を、恵梨のグラスへ向けた。

 鮮やかな緑色の液体が、まだ半分ほど残っている。

 「それって、美味しいの?」

 「美味しいよ、甘いけどね……飲む?」

 恵梨はグラスを、剛史の方へ少しずらした。

 「いや、やめとく」

 グラスの淵についた口紅の跡が、恵梨の存在を大きくしている気がした。

 「遠慮しなくていいよ……ここは剛史の支払いだから」

 恵梨は、意地悪そうな笑顔を浮かべた。

 剛史は苦笑する。


 剛史が会計を済ませて、席から立ち上がると、恵梨はハンカチと自分のスマホを仕舞い、剛史のスマホの画面を指でなでた。

 そして、剛史のジャケットの襟を開くと、うっとりとした目で口を開く。

 「私たちの新しい関係、考えておいてね。これに頼らない、粋な関係にしましょう……」

 恵梨は、剛史のスマホを懐のポケットに入れながら、胸に顔をうずめた。

 恵梨の香水が、剛史の鼻腔をくすぐった。

 不意に交際していたときの思い出が蘇り、胸に顔をうずめている恵梨が馴染んでいる気がした。


(完)

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