勇者と魔王は報われない

稲荷 古丹

勇者と魔王は報われない

 あるところに、わるいまおうがいました。

 まおうは、とてもおそろしいちからで、せかいをしはいしようとしました。

 しかし、ゆうしゃがあらわれ、やがてまおうをうちたおしました。

 こうして、ゆうしゃのおかげで、せかいはへいわになったのでした。

 めでたし、めでたし―。


「―ぐ―い、ぐ―」

 闇の中、遠くから微かに声が聞こえる。

 喉の奥から何とか音を絞り出そうとしているような、どこか必死さを伴った悲鳴のような声だった。

「いぃぐ、―しぃぃぐ」

 それが自分を呼ぶものだと分かった所でシグは瞼を開き、上半身を起こした。

 ベッドの上で、寝汗で張り付いた前髪を掻き揚げ、耳を澄ます。


 寝室の扉の向こうから、まるで餌をねだる猫のような声が縋り付いてくる。

 短く嘆息し、ベッドから降りると、シグは寝間着のまま寝室を出て、階下へと降りていった。

 徐々に声が大きくはっきりと聞こえるようになり、キッチンで声の主と相対した時、シグはさらに大きく嘆息した。


 床にはパンや切りかけの野菜、千切れた加工肉などが散乱し、包丁やバターナイフなどといった道具も転がっていた。

 それらを膝立ちのまま踏みつけ、おぼつかない手つきで拾い上げようとしては、また落っことしている。

 必死に舌足らずな声を発しながら、もそもそと動く『彼』にシグは呆れた様子で問いただした。

「何してるの、ベルフェ」


 血染めの反逆王子、魔王ベルフェ。

 自らに逆らうものは同じ魔に属する者どころか血縁者であろうとも容赦しない苛烈ぶりは敵味方問わず恐れられた。

 そも魔王の称号も、欲しかったからという理由だけで叔父から奪い取ったものであり、代々受け継がれてきた王冠も自らの小さな頭に合わせて作り直させるほど、歴史にも血脈にもまるで敬意を払わぬ傍若無人っぷりであった。


 少女のような小柄の体躯を大きく見せる為に派手に広がる衣服を身に纏い、王冠を被ったまま自ら戦場を駆け抜ける程の目立ちたがり屋。

 赤い瞳は炎の如く揺らめき、赤い眉は棘のように鋭く、赤い髪は翼のように背中を包み、そして赤い角は見る者をひれ伏させる程の威圧を放った。


 返り血を浴びて、より赤く染まる彼の姿は、ある者には恐怖となり、ある者には至高の美と映った。

 それが魔王ベルフェであったが―


「ああ―、あうあ―」

 シグを見上げるベルフェの目が見開かれ、喘ぎ声のようなものが口から洩れる。

 美しく長い赤髪は床の埃を巻き込みながらひきずられ、爪の先が削れていた。

 恐らく拾おうとして何度も床を引っ掻いたせいだろう。

 ちらとテーブルに目をやると幸いにも調味料の類は幾つかが横倒しになっているだけだったが、今にも床に落ちてきそうだった。


 何事かベルフェが説明したがっているようだが取り敢えず無視し、まずテーブルの上の調味料を定位置に戻した。

 次に手掴みで落ちた食材をゴミ箱に次々と投げ入れてから、濡れ雑巾で落ちていた場所を拭く。

 その間、ベルフェは黙ってうな垂れていた。

 色々と上手くいかなかったことを悪く感じているのだろう。


(あのベルフェが『』と思うのか)


 シグにとってはそれだけで未だに驚愕を覚える程の変わりわりぶりだった。

 かつて戦場にて互いに血に染まりながら命を奪わんと戦いあった両雄、勇者シグと魔王ベルフェ。

 それが今ではこうして隣り合っているという事実。

 同じ戦場にいた敵も味方もこんな光景を見てしまえば悪夢だと頭を抱えるか、あるいは憤慨するか、さもなくば自害すらしてしまうかもしれない。


 ふと、ベルフェの頭が目に入る。

 かつて全ての者を恐怖させる程の角があった場所には、切株のような痕が残っているだけだった。

 魔族としての象徴を失い、それでも人間には決してあり得ないその『痕』は勇者に負けた魔王という屈辱の証でしかないだろう。

 それでもシグは、心の中ではそんなベルフェを羨ましいとすら思っていた。


 負けたことで全てを捻じ曲げられ、壊され、失った彼は強制的ではあるが変わることを許されたのだ。

 勝利を手にしてもなお『勇者であること』を求められた自分と違って。


「ベルフェ」

 片付けが終わり、へたり込んだままの元魔王を立ったまま覗き込むと、おずおずとすまなさそうな顔でベルフェが見上げてきた。

「口、あーってして」

 シグの申し出にベルフェは針のような眉を少しだけしかめさせたが、

「手ならちゃんと石鹸で洗ったよ」

 そう言うと、しぶしぶベルフェは口を開き舌を出した。


 ぬらぬらと濡れる紅色の舌には、ドス黒い紋章がへばりつくように刻まれている。

 災厄を催す言葉を二度と発することが無いように仕込まれた呪いだ。

 彼の体には同じようなものが手首や足首などの体の数か所に刻まれており、自由を縛り、また種を残せぬように機能している。


 シグがそっとベルフェの舌を両手の人差し指と親指で摘まむと、紋章が少しばかり蠢くように躍動した。

 そうすることで一時的にだが、呪いが勇者の力で『弛む』のだ。

 指を離すと、舌と指の間で涎がと糸を引いた。

 ベルフェが舌を引っ込め『んー』と唸ると、


「あ、あのっ、な。きゃっ、きゅっ、今日っ、今日は朝っ、調子、良かったのじゃっ、だからっ、なっ?朝ごはんをっ、いつも、作って貰ってはっ、少しっ、驚かせようとっ、そしたら急に、動かなくっ」


 呼吸が間に合ってないのではないかと思う程、矢継ぎ早に喋るベルフェを制するようにシグはぴしゃりと言い放った。

「朝は一番呪いが重い。どんなに調子が良く思えてもね。何かしたい時はまず僕に言う。そういう約束だったでしょ?」

「あ、あ、でもっ、寝てたから」

「それなら起きるまで待ってればいい。というか、そもそも僕を驚かせようとか、そういうのいらないから」

「で、でも、よ、ろこんで貰いっ、たくて」

「喜ぶだって?」


 シグの目がきゅうっと細くなり、ベルフェは息を呑んだ。

「僕が喜ぶとしたら君が言う通りにしてくれた時だけだ。いいかい?僕と君は、兄弟でも、友達でも、恋人でもないんだ。僕は勇者で君は魔王、そして―」


「君は僕に負けたんだ」


 シグの言葉に、ベルフェの顔が一瞬だけ固まり、そして大きく歪み、

「あ…あ…あああああああああああっ!」

 手足を碌に動かせぬ元魔王は後ろ向きにひっくり返って泣き叫んだ。

「やだっ、やだっ、やだあああああっ!負けっ、負けてっ、ないぃっ!われっ、負けっ、やだぁ!ごめんなさいっ!ごめんなさいぃぃっ」

 ずりずりと仰向けに這うように暴れようとするが、その動きは緩慢で怒りや悲しみを発散させる事は決してできなかった。


 その様子をシグは無表情で見下ろしていた。

 無双と謳われた気高き魔族が力なき幼子のようにただ喚くしか出来ない姿に、やはりシグはどこか憧憬に近い感情を抱いていた。

 負けた者は全てを失うが裏を返せば重荷からの解放でもある。

 勝った者は背負わされる、好む好まざるに限らず敗者の重荷を。


 天井を見上げると、やけにキッチンが狭く思えてまるで檻の中にいるような錯覚に陥った。


 実際そうなのだ。

 国の為、民の為と信じて戦い続けて得られたものは、

『生涯をかけた魔王の監視』


 全種族の安寧の為に無闇に処刑するより生かしておいた方が抑止力になり得ると判断した諸国の思惑が合致した結果、勇者と魔王という二人の厄介者は表舞台から遠ざけられた。

 それでもシグは従った。

 彼にだって人並みに不平や不満、疑念はあったが勇者として生まれてしまったシグには与えられた使命以外で生きることは許されなかった。


 そしてベルフェは過去の栄光と没落に苛まれ、

 シグは与えられた今だけに気持ちを注ぎ込むしかなかった。


 不意に、シグは自分の指に目を移す。

 ベルフェの涎がついたそれをそっと一舐めすると、今度は安堵の感情が去来した。

 自分がいなければベルフェは満足に動く事も好きな事も自由に出来ない。

 それは自分が勝ったからだ。


「いいよ、君のことは一生をかけて背負ってあげる。だって」

 泣き叫ぶベルフェには決して聞こえない低い声でシグが呻く。

「僕は君に勝ったんだ」

 勇者という運命に縛られた少年は、ただ一つの報酬を前に、うっすらとした笑みを浮かべた。

 魔王無しでは自分を勇者だと信じ続けられない事実を、知ってか知らずか。


 勇者シグは勇者として、

 魔王ベルフェは魔王として、

 何一つ違わぬ生き方をしても、

 勇者と魔王は報われない。

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