明治時代の三六式無線機

井上みなと

第1話 明治時代の三六式無線機

 5回目お題が「スマホ」のため、今回は明治日本の通信の話をしたいと思います。


 明治になったとき、日本だけが世界の通信から取り残されていました。


 慶應2年。

 日本では薩長同盟が成立したとか、坂本龍馬が寺田屋で襲撃されたとか、幕末真っただ中の頃。

 世界では海底ケーブルが大西洋を横断します。


 欧州、アジア、アフリカ、南北アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、東南アジアの各大陸が電信で繋がりました。

 日本だけが電信網がなく、取り残されていたのです。


 明治になる前にも、1849年に松代藩士・佐久間象山が西洋の本を参考に日本で初めて電信機を作ったり、ペリーが電信機を幕府と天皇陛下に献上したり、佐賀藩精錬方が電信機の製作をしましたが、幕末の混乱の中、研究や普及をする暇もなく、明治まで日本の電信は発達しませんでした。


 なお、この佐賀藩の作った電信機が、現存する国産最古の電信機と言われています。


 明治2年になり、明治政府は急いで通信網の整備を始め、東京・横浜間で電報の取り扱いが始まります。

 国内通信網は数年で全国に張り巡らされました。

 

「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」

 

 これは明治9年の神風連の乱で、種田政明熊本鎮台司令官の愛妾・小勝が東京に発信した電報です。

 

 後に朝野新聞で紹介され、仮名垣魯文が脚色したものが広まり、電報というものが知られるようになるのですが、この前から士族反乱の鎮圧に、通信はとても役立っていました。


 明治最後にして最大の内乱、西南戦争でも通信網は活躍し、政府軍を勝利に導きます。

 西南戦争というと、武器の優劣があげられることが多いですが、装備の優劣の中には通信の優劣も大いに含まれていたのです。


 また、海外との通信網も、明治になって一気に発達しました。

 

 明治4年の岩倉使節団では、留守政府と岩倉使節団との間で国際電報が利用されています。


 また、台湾出兵、樺太千島交換交渉の際にも、暗号電報が使われました。

 

 さて、少し時代を進めて『三六式無線機』のお話です。


 これまで、日本の通信が明治に入って飛躍的に発展した様子を書きましたが、それにはお雇い外国人の力が大きく、また、日本国内で使っている通信機は海外から買っているとても高い輸入品でした。


 明治22年、日本は後に日露戦争で活躍する『戦艦三笠』をイギリスに発注します。


 その三笠が建設されている間の明治28年。

 イタリアの発明家、グリエルモ・マルコーニが無線電信の開発に成功します。


 今のスマホの始祖ともいえる存在です。


 それまでの軍艦は手旗信号やライトの点滅で連絡を取っていましたが、無線が出来たことで一気に状況が変わります。


 無線で連絡をして連携を取れるか。

 それは勝敗と生死を決める大きな鍵となったのです。


 日本はマルコーニ社に無線通信機の購入を打診しますが、あまりに高額なため、国産で独自に開発することにしました。


 そこで登場するのが、松代松之助です。

 

 京都出身の松代は、明治19年に東京に出て、工学を学び、逓信省通信技師になります。

 電気試験所に入った松代は、そのまま通信技師の道を進みます。


 蓄音機に関する仕事などもしていた松代でしたが、その松代に国産無線機開発の白羽の矢が立ちます。

 逓信省内に無線電信研究部を設けられ、そこで松代は研究を始めることになったのです。


 外国の新聞や雑誌にマルコーニの無線電信実験成功が載ってはいたものの、マルコーニの発明の詳細は秘密にされていたため、松代は必死で理論の研究や機器の実権を繰り返し、実験用部品まですべて自作しました。


 松代という技術者の努力により、明治30年には品川沖で無線実験に成功します。


 明治33年。

 海軍は無線電信調査委員会を設置し、松代と、帝国大学理科大学物理学科を出てイェール大学に留学した経験を木村俊吉教授を、海軍に招きました。


 海軍は松代と木村の開発のために、通信技術者たちを海軍工廠に集め、無線機開発に取り組んでもらいます。

 松代と木村は寝食を忘れて、ひたすら国産無線機の開発に尽力します。


 その結果、明治36年に『三六式無線機』が誕生しました。


 日露戦争が始まる、まさに前年です。

 

 全艦船に搭載するため、海軍は無線機工場を設置し、昼も夜も無線機を製造し続けました。


 明治38年5月。


 日露戦争中の最大規模の艦隊決戦、日本海海戦が起きます。


 連合艦隊特務艦隊仮装巡洋艦「信濃丸」が敵影を発見し「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」と通報します。


 この通報が可能だったのも、松代と木村が国産無線機を開発したからです。


 技術者たちが無線機を開発し、全艦船に無線機を搭載するため、工員たちが頑張ったからこそ、日本海海戦中も艦船の間で情報交換が出来たのです。


 後の世になると、軍人は軍人以外の職業の人を軽んじたり、直接に敵を殺す武器以外を軽んじたりするようになります。


 また、戦後は通信機器や通信手段を外国資本に依存することに危機感を覚えない人も増えてきました。


 今一度、三六式無線機を作った頃に考え方を戻し、国産のものを作ること、技術者を大切にすることを、一考してみたほうがいいのかもしれません。

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