思い出の墓石

子規まきし

思い出の墓石

酷く暑い、どこを歩いても蝉の声が聞こえる夏だった。

数日間雨が降っていないので、道端の花は萎れて、こうべを垂れていた。

ガソリンのタンクをブチ撒けて、人の夢を燃やすような暑さだった。

側溝に大きな虫が仰向けになって死んでいた。

ぼくはその日、Kと一緒に神戸周辺を巡って歩いた。


梅雨が終わっても、自分の気持ちに整理が付けられずにいた。

心にジトジトしたものがずっと張り付いていた。

散らかった部屋で、エアコンを付けて、ただ天井を眺めている時間が増えた。

何日かぶりに窓を開けると、嫌な熱気と蝉の声が部屋になだれ込んできた。

外の陽射しに顔をしかめていると、後ろでスマホが鳴った。

Kからの着信だった。

「すまない。本当はもっと早くかけたかったんだがな」


Kと出会ったのは大学1回生のとき、もうかれこれ8年近い付き合いになる。

ぼくたちの大学は兵庫県の西宮市にある。

ちょうど大阪と神戸の中間辺りに位置し、海と川の境目で、海水と淡水が混じるように大阪出身者と神戸出身者が混在しており、在学生の色は二分されていた。

しかし、Kはそのどちらにも属さなかった。

まず喋り方が独特だった。

Kの出身地は静岡で、小学生のときに大阪へ引っ越してきたらしい。

10年以上大阪に住んでいるが、関西弁を使わず、かといって共通語でもない、独特な訛り方をしている。

軽度の吃音をごまかすように、いつもジェスチャーを交えて、ゆっくりと喋った。

水の上に一滴落とされた油みたいだなあ、と、思った。

どこにも混ざらずに、水面をユラユラ揺れるように、Kはいつも大学のキャンパスをうろうろしていて、いつもどこかで本を読んでいた。


外に出ると、真っ白な陽射しが肌に突き刺さった。

何かの裁きみたいだった。

「何も悪いことはしてないのにな」と、思った。

どっと汗が湧き出てきて、シャツが身体に張り付く。

最寄り駅までは少し距離がある。

ジリジリと全身を焼かれながら、おぼつかない足取りで歩いた。

となりを自転車や車、子供たちが通り過ぎた。

そういえば、今は夏休みなんだと気付いた。

街は確かに息をしていた。


ある時、大学の授業で短い映画を撮った。

ぼくはカメラを担当した。

病弱の妹を救うために、悪事を働く悪の組織のリーダー役がKだった。

Kの演技は迫真の演技だった。

それからKと親しくなって思うのだが、Kは舞台に立ったり何かを演じるときには、いつもの少し吃った喋り方や、挙動不審な様子がなくなる。

天性の表現者気質を持っていると思う。


「何かの裁きみたいな日照りだよな」と、Kは言った。「裁かるは善人のみとはよく言ったもんだ」

「ほんとに、そうだね」と、ぼくは言った。側溝に仰向けになって死んでいる虫が見えた。

太陽が街全体を焼いて、小さな生き物から順番に殺していくようだった。

ぼくらの夢が燃え尽きる前に何かを残さなければいけないと思った。

「おれたちに何ができるかな」とKが言った。

「どうしたの?」少し、心臓が早くなる感じがした。

「分からんか? 京都アニメーションの放火事件さ。きみも映像作家のはしくれとして、思うところがあったんじゃないのか? ほら、今だってそんなに悲しそうな顔をして。それにきみ、少し痩せたんじゃないか?」

「もちろんショックだったよ。正直あんまり食べ物も喉を通らなくてね。部屋に引き籠って、何も手に付かず、ずっと天井を眺めてたんだ。今朝数日ぶりに部屋の窓を開けたら、ちょうどきみから電話がかかってきたんだよ」

「おれも、きみとはまるっきり逆かもしれないが、思うところがあったよ。ああいう事件が起こる度に思うけど、次は自分なんじゃないかってね。それにしても今回の事件は胸にくるものがあった」

「ああ、なるほどね」Kは重度の精神病患者で、過去に2度精神科に入院している。

「あの犯人もおれとおなじ統合失調症の患者だ! これでまた狂人の肩身が狭くなったっていうもんだ! おれたち精神病患者は犯罪者予備軍、永遠に精神病院の隔離部屋に閉じ込めておけってのが今の世の中の流れさ」

「でも、きみは何も悪いことはしてないじゃないか」

「裁かるは善人のみというわけさ」


阪急梅田駅の紀伊国屋前で落ち合ったぼくたちは、鈍行の列車に乗って神戸方面へ向かった。

「ヘンリー・ダーガーって知ってる?」とKが言った。

「誰?」

「世界一長い長編小説を書いた作家でね。60年間ひとりで小説を書き続けたんだ。どこに発表するでもなく、誰に見せる訳でもなくね。死の半年前になって、初めて、部屋を掃除しに来た人によってその小説が発見されたんだ。彼は『捨ててくれ』と言ったそうだよ。芸術家たるものかくあるべし、と、ある人が言っていたんだよ。でも、果たしてそうだろうか? 芸術を創ることそれ自体が、創作の理由であるべきだって? おれはそうは思わない。すべての小説は、誰かに宛てた手紙なんだよ。そうあるべきなんだ。おれが小説と呼ぶに値すると思う作品は、すべて、『この人に読んで欲しい』という誰かに、その一心で書かれているんだ。おれの書く小説もおなじさ。『この人に読んで欲しい』という一心で書いているんだ」

「シュロスさんだね」

ああ、とだけ、Kは言った。

そこで、列車の窓の外に、墓地が見えた。

「思い出の墓石を巡ろう」

とKが言った。

Kの横顔は、泣いてるみたいに悲しそうだった。

ぼくは何も言えなかった。


蝉が鳴いている。

鳥が群れになって空を飛ぶ。

川は海に向かって、ユックリと流れ、多種多様な生き物たちの住み家となっている。

しばらく歩くと、砂浜が見える。

「淡水と海水が混じる場所さ」と、Kは戯けた調子で言った。

いつの間にか、蝉の鳴き声が潮騒の音に変わっている。

おせじにも綺麗とは言えない海だ。

空のペットボトルが波に浚われていく。

陽射しは依然としてぼくらの肌に突き刺さったが、海面に近付くと、風が吹いて不思議と涼しかった。


「ここをあっちに向かって、ずっと歩いたんだ」とKが言った。

「一人で?」とぼくが訊ねると、Kは「いやいや、シュロスとだよ」と言った。

「色々話したよ。おれが、産まれてから、今に至るまでの話を全部したんだ」

今みたいに、ひたすらにジッと話を聞いていたんだなと思うと、いたたまれない気になってくる。


引き潮で出来た小さな道を、Kは海に向かって歩いていった。

道の両端に、小さな貝がビッシリといて、ユックリとうごめいていた。

水面が太陽を反射して、Kの背中を光が包むように照らしていた。

その景色が美しくて、ぼくはカメラのシャッターを切った。


荒井由実の『瞳を閉じて』をくちずさみながら、Kがこちらへ歩いてくる。

Kは言う。

「メッセージボトルなんて、海に流すやつの気が知れないよ。誰かの手に届くのだって望み薄なのに、それが伝えたい人に届くことなんてありえないじゃないか。その上、いちばん理解できないのはな、メッセージボトルを流す本人は、それが相手に届くことを確信してるもんだってことだよ。狂ってると思わんか?」

「小説を書くのも、それと同じなんだね」と、ぼくは言った。

Kはまた、悲しそうな顔をして、そうかもな、と言った。

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