狩猟本能

悠井すみれ

第1話

「あ、駄目!」


 ネロが部屋の隅で頭を上下させているのを見て、私は慌てて駆け寄った。何か黒っぽいものを咀嚼しているところだと思ったのだ。


「ちょっと今、何食べてたの!?」


 大声に驚いて暴れる黒い毛玉を必死に取り押さえて、小さな三角の顎を摑まえる。落ちていた髪や埃を呑み込んでしまっただけなら、まだ良い。万が一、ネギ系の切れ端とか味のついた肉の欠片とか、猫に害になるものを落してしまっていたのだったら、怖い。ううん、それよりも──ネロが咥えていたのは、黒っぽくて細長いものに見えた。猫というのは、厄介なことに黒光りする例の害虫が大好きなのだ。素早く動く、そこそこの大きさの玩具に見えるだろうから仕方ないのだろうけど。の脚を噛み砕いた口で舐められるなんて耐えられない。可愛いネロのお腹でが消化されるのも。だから、一刻も早く吐き出させないと、と思ったのだけど──


「何、これ……」


 ネロがぺっと吐き出したのは、確かにだった。黒いと思ったのも、見間違いじゃない。でも、形は思い描いていたのとまるで違う。


 腿、膝、ふくらはぎ、踝、踵、爪先──小さな人間の右脚、だった。人形と思い込むには精巧すぎるし、そもそも私はこんな人形を持っていない。というか、こんな不気味な人形なんてあるだろうか。樹脂の黒でもない、実在する人種の肌とも似ていない、ひたすらに黒い──それは、私が見つめる中で、ミイラみたいにみるみる萎びて崩れ落ちた。


「やだ……ねえ、どこから持って来たのよ……?」


 ネロは、いかにもひどい目に遭わされた、とでも言いたげな表情で毛繕いに励んでいる。そう、猫は何もしなかった。私も、触れるのは気持ち悪いから凝視していただけだった。黒いはひとりでに粉々になって舞い散ったように見えたけど、フローリングにもラグにも、黒い粉が飛んだ様子はない。

 窓に目を向けても、もちろん閉まっている。マンションの五階は、たとえ猫でも落ちたら助からないだろうから。私は窓を開け放したりしない。だから──黒いが風に乗って飛び込んでくるなんてあり得ないのだ。それと見間違えるような虫だって、入る隙間はないはずなのに。


 見慣れたはずの、安心できるはずの自室を見渡してみても、いつもと変わらないのがかえって不気味だった。でも、何ものはどうしようもないから、私は目の錯覚だと思って忘れようとした。


 でも、できなかった。




 気が付くとネロがを咀嚼している、あるいは弄んでいる、ということが増えていった。それか、身体を低くして尻尾とお尻をふりふりと振っていたりとか。そして、金色の目がかっと開くと、弾丸が発射されるみたいに虚空に飛び掛かるのだ。猫の狩猟本能が刺激されているのだろう、最近のネロはとても楽しそうだ。

 でも、私は微笑ましく見守ることなんてできない。


 ネロの牙が爪が虚空──私にはそうとしか見えない──を襲うと、黒いを捕らえている。黒い腕とか脚とか、胴の一部っぽいものとか。小さな指の先には鋭い爪が生えていたり、皮膚の一部が鱗や羽毛のようになっていたりするのにも気づいてしまった。それくらいしょっちゅう、ネロは見えないの狩りに夢中になっている。こそまだ見てないけど、どの部分が何個あったかなんて覚えてないけど、分でないことくらいは分かる。だから、は何匹も何匹も私の部屋に現れて、そのうちの幾らかがネロの獲物になっている。


 たちがこの部屋に住んでいるのではないらしいことだけが唯一の救いだった。ネロの動きを見ていれば分かる。期待に目を輝かせて、テレビの近くの角で座り込んでいるのは、待ち伏せだ。は、そこから出てくるのだ。そして、ネロが飛び掛かる方向からして、部屋を対角線に横切ってマンションの廊下側へと消える──らしい。壁に頭をぶつける勢いで突進したネロが、悔しそうに尻尾をぱたぱたさせているということは、そこまで行けば逃げられてしまった、ということなのだろうと思う。


 逃げた、というか私の部屋を通り過ぎた先で、たちがどこまで行くのか、何をしようとしているのかは分からない。

 この部屋が鬼門に当たる、とかだったらまだ理屈がつきそうなのに。悪いモノの通り道になっているとか、そういうの。でも、調べてみても何もなかった。土地がいわくつきだとか、たちが向かう方向に何かあるとか、そんなことは、何も。あの方向に住んでいる誰かを目指しているのかもしれないけど、それはなおさら調べようがない。私はただ、愛猫が訳の分からないモノを捕食するのを見守ることしかできなかった。止めようにも私だって仕事があるし、本気を出した猫のスピードにのろまな人間は勝てやしない。


 だから──どうしようもなくて、私は引っ越すことにした。ペット可物件は貴重で、物件探しの間もネロは黒いを襲っては齧っていたけれど。この子がいなくなることでは多分減らなくなるはずで、それが何を引き起こすのか、怖いと思わなかった訳ではないけれど。でも、私は自分と自分の猫のことを考えるので精一杯だった。あんなのに触れて──食べてしまって大丈夫なのか、不安で仕方なかったから。


 そしてどうにか見つけた新しい部屋にはが出ない。ネロがそう教えてくれている。引っ越してからは退屈そうに寝そべることが多くなって、少し太ったから。だから、できるだけ時間を作って遊んであげるようにしている。

 






 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狩猟本能 悠井すみれ @Veilchen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ