混沌の先へ


「いやああああああああああ!」

 二階の寝室から、大きな悲鳴が城内に響き渡った。呪いの槍の破片を埋めたネズミを観察していたアステカ・トナティウスは、すぐに地下室を飛び出して、階段を駆け上がる。

「アリシア!」

 寝室に飛び込むアステカ。泣き叫ぶアリシア・ローズの隣で、背の高い老人が必死に彼女を宥めていた。やがて落ち着きを取り戻したアリシアは、嗚咽を始める。

「クライン様、まだご無理をされてはいけませんよ」

 アリシアを寝かしつけたアステカは、まだ呪いの傷が癒えていないクライン・アンベルクの身体を支えると、隣の部屋のベットまで付き添った。

 柔らかいベットに腰掛けたクラインは暗い表情で自分の手を見つめる。

「あの子を連れていくべきでは無かった」

 クラインは毎日のようにその言葉を繰り返していた。

 ひと月ほど前の憤怒の魔女との戦いで、重傷を負ったクライン。傷自体はすぐに回復したものの、体内に入り込んだ魔女の呪いは中々抜けなかった。クラインは、今も苦しそうに、玉粒の汗を額に浮かばせている。

「クライン様、アリシアなら大丈夫ですよ。なんたって彼女は大天才ですからね」

 白いローブを身につけたアステカは、落ち込む老人を慰めようと元気な声を上げた。少し微笑むクライン。

「そうだな、あの子は天才だ。だが、まだ子供だ。誰よりも清らかな心を持った、優しい子なのだ。……ああ、本当に私は取り返しのつかない事をしてしまった」

 アステカにはそれ以上かける言葉が見つからなかった。

 実際、アリシアは天才だった。齢九つで上級魔術師に選ばれたアリシア・ローズは、クライン・アンベルクの弟子となる。彼女はそれまで通常教育というものを受けたことが無かった。孤児院で幼い頃から家事仕事をさせられ、その合間に本を読みながら独学で魔法を学んだのである。

 わずか十一歳で最上級魔術師に選ばれると、国を上げて祭典が開かれた。そして今年、十四歳となる彼女は、エスカランテ王国の四騎士の一人に選ばれるのではないかと噂されている。あまりの才能に、影では〈化け物〉と揶揄された。

 子供の居ないクラインは、アリシアを自分の子のように想っており、愛弟子の成長を心の底から喜んだ。ただ、急成長する力の反面、まだ幼い精神に強い不安も感じていた。日頃、アリシアに対して厳しく当たっていたのはその為だ。

「なぁ、アステカ。私はアリシアの魔術師の資格を剥奪したいと思っている」

「えっ!?」

 手持ち無沙汰に薬を混ぜていたアステカは、思わずビーカーを落としそうになる。

「アリシアが大人になるまで、普通に学校へと通わせたいと思っているんだ」

「そ、それは……」

 アステカはクラインの意図していることが分かった。だが、それは無理だろうと唇を結ぶ。

 現在、ユートリア大陸各地で大混乱が起きていた。

 先の憤怒の魔女の失踪に加え、このひと月の間に更に二人の魔女の行方が分からなくなっていたのだ。

 大陸の北に位置する極寒の城塞都市ラルカ。そこを守護していた最上級魔術師ミネア・ロイドバックが、強欲の魔女と共に殺されていた。すぐさま、魔女が現れるという洞窟に兵を派遣したが、既にもぬけの殻だった。

 南東の城塞都市シルバでは、ニ十ニ年間幽閉されていた怠惰の魔女が消えていた。その責任をとって、シルバを守っていた最上級魔術師"黒豹"エヴァンゲレス・マチルダは最上級魔術師の資格を剥奪されている。本来ならば幽閉される身だったが、彼の力を持て余すのはあまりに惜しいということで、戦争が起きうるであろうキルランカ大陸の前線に送られた。

 対外情勢も危険な状態だった。

 キルランカ大陸南方のルーシャ地方で行われた大虐殺。哀れな森の民に〈ヒト〉以外の国々が怒りの声を上げた。特に大陸西方のド・ゴルド帝国の〈ドワーフ〉たちは怒り狂い、大陸唯一の〈ヒト〉の王国サマルディアに軍を派遣した。

 危うく種族間戦争となりかけが〈ゴブリン〉の仲裁で戦争は回避されたのだった。だが、それがまた〈ヒト〉にとっては不気味だった。〈ゴブリン〉は戦争屋と言われるほど戦を好む種族だったからだ。

 魔女の失踪は全て〈ゴブリン〉の仕業か? いや〈エルフ〉どもに決まっている! まさか、ルーア連邦共和国の魔女が黒幕では?

 エスカランテ王国では連日、国の重臣たちによる会合が開かれていた。

 クラインは、愛弟子のアリシアをこれから起こりうる戦争に巻き込みたくないのだろう。だから魔術師の資格を剥奪して学校に送るなどと言い始めたのだ。

 師は弟子の魔術師の剥奪権を持っている。通常ならば簡単にアリシアを除名出来たはずだった。だが、最上級魔術師の一人を失うのは万の兵力を失うのに等しい。この情勢で王国がそれを許すとは思えなかった。

「そうですね、それは良い考えだと思います」

 アステカは静かにそう言った。無理だろうとは思った。だが、尊敬するクラインの意思は尊重したかった。

「ああ、そう思うだろう? 今のあの子には平穏が必要なんだ」

「ええ、わたくしもそう思います」


 山奥の崩れかけた小屋。春人はそこで死人のように暮らしていた。

 髪は垢で汚れて、体からは異臭を放っている。痩せ細った体をなんとか動かしながら、彼は、毎日を死なない為に生きていた。

 死なない理由は二つあった。

 一つは〈ヒト〉への復讐。もう一つは未だに目を覚さないアリスの世話の為だった。

 春人は枯れ葉の上に横たわるアリスの白い髪を撫でる。妹か娘のように愛おしく思えた。今や、この異世界において、アリスは春人の唯一の味方だった。

 春人は大きな葉に貯めた水を、アリスの薄いピンクの唇に垂らした。アリスの口から溢れ落ちる水滴。残った水を飲んだ春人は、足の六つあるカエルのような生き物を無理やり口に入れる。生臭さと苦味。固いゴムの様な食感。我慢して飲み込んだ春人の胃に捩じ切れそうな激痛が走る。ゴボゴボと手のひらに汚物を吐き出した春人は、懸命にそれを飲み込もうと努力した。

 あいつらを皆殺しにするまでは死ねない。

 春人は汚物を飲み込むと横になった。ここが一体どこなのか分からなかった。気がつくと自分に覆い被さるアリスとこの場にいて、以来、三ヶ月近くこの森で暮らしている。その間、アリスは一度も目を覚さなかった。

 目を瞑る春人。だが、眠れない。春人は、ほとんど睡眠をとっていなかった。目を瞑ったまま横になると、春人の頭に、否応なしに昔の思い出が浮かんでくる。酒飲みの父親に、いくら殴られても春人は怒らなかった。母親がいなくなった時も春人は泣かなかった。死ぬ寸前でさえ、自分をリンチした若者たちを恨むことはなかった。

 呪いだ。

 春人は骨と皮ばかりになった体を丸めると、湧き上がり続ける感情の渦と戦った。

「起きなさい」

 声が聞こえた。また幻聴だと、春人は無視をする。

「起きなさい」

 少女の声だった。高く細い音。

「君は今、何を望んでいる?」

「アリス!?」

 春人はガバッと顔を上げた。雪のような少女の、ほんのりと桃色に染まった頬。アリス・アスターシナは表情のない瞳で、春人の瞳を見つめた。

「君は今、何を望んでいる?」

 春人は恐る恐る、アリスの白い頬に触れた。暖かい。幻覚でも幻聴でも無さそうだった。

「君は……」

 アリスの小さな身体に抱きつく春人。そのまま、声を上げて泣き始める。

 少し戸惑ったように腕を上げるアリス。泣き喚く春人の頭を見下ろしたアリスは、そっと、その頭に手を乗せた。

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