絵の中の窓6 顔


 瀬名くんは言った。


 ―教室には誰もいないよ。


 そんなはずはない。だってわたしはついさっき、あの堪えがたいほどに生活音に満ちた教室を飛び出してここに来たのだから。だからウソだ。


 わたしがここに来たのは何かを得るためではなく、あそこから逃げるためだ。あそこがあそこでないなら、なぜわたしはここにいるのか?だからウソだ。だって、わたしがここに来たのはあれからにげるためだ。あれとは何?ええと とにかくウソだ。


 彼は冗談を言っている。わたしを混乱させようとしている。わたしを笑わそうとしているんだ。笑ってあげなきゃ。わたしは愛想笑いを浮かべて振り返ろうとした。振り返れなかった。身体が硬直する。震えが止まらない。認めたくない。彼を見るのがこわい。


 ―相楽さん


 背中から声が。もうやめて。

 窓が鳴っている。うるさい。


 ―君、も同じことを言っていたよ。


 昨日。昨日。


 瀬名くんとは今日会ったのが初めてで。

 今日は何曜日?今日って?昨日って?


 わたしは、今日を、昨日を、

 


 後ろを振り返らないまま、わたしは美術室を飛び出した。


 。白い霧の中を、転がるように走る。瀬名くんの声が聞こえた気がした。


 さっきまで薄まっていたはずの霧はむしろずっと濃くなっていた。ほとんど何も見えない中を、何度も転びながら走る。わたしの両側にそびえる建物の影は真っ白に染まった空気に隠されていつもよりもずっとずっと巨大に見え、わたしをどこにも行かせまいと首をもたげて睨みつけているようで、いくら走り続けても正しい場所にたどり着けない気がした。


 階段を駆け上り、わたしは教室のドアを叩きつけるように開ける。間に合った!なあんだ。やっぱりみんないるじゃない。


 だってほら、


 目のない目 口のない口

 ぽっかりと穴の開いた、誰が誰かも分からない顔。


 みんなが、わたしを見ていた。

 みんなが、わたしの方を向いていた。

 わたしを見ている顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔


 目の前の、背を向けていた女子。

 首だけがくるりと回って、わたしに向いた。

 穴の開いた顔。


 あああああ


 わたし自身の絶叫が、わたしの身体を突き動かす。恐怖が虫みたいに身体中の神経をはい回って、足がもつれそうになる。教室を飛び出し廊下を走る。廊下に立っているひとたちが、わたしを見ている。


 目のない目 口のない口

 ぽっかりと穴の開いた、誰が誰かも分からない顔。


 わたしが駆け抜けるたびに、あ、あ、と調子はずれの合唱のように、みんなが空洞の口から変な音を出している。笑っているんだ、わたしを。わたしは校舎を再び飛び出した。


 白い霧の中を わたしは走る

 白い霧の中を わたしは走る

 何も見えない。だれか!


 ばたん ばたん ばたん


 何かが聞こえる。窓の音だ。なんでもいい。

 音のする方へ走る。


 霧の向こうに建物が見える。美術室。

 逃げ出して、逃げ込んで、逃げ出した場所。また逃げ込む。


 窓は不規則に鳴り続けている。


 美術室に飛び込み、教室のドアを閉める。涙が、嗚咽が止まらない。ドアに頭を押し付けたまま、ずり落ちるように座り込んだ。心臓が張り裂けそうで、肺が焼け付くように痛む。限界だ。


 ばたんばたんばたん


 叩きつけるような窓の開閉音が、耳鳴りのように鼓膜を打ち続けている。まるで窓を開けたい人と窓を閉じたい人がそれぞれ窓の縁を持って、交互に窓を叩きつけて争っているようだった。耳をふさぐ。


 この教室の雨戸は、だ。

 ばたんばたん鳴るはずがない。

 ばたんばたん鳴るはずがないんだ。


 どこの音だ。知っているくせに。知りたくない。


 ばたんばたんばたん


 うるさい!


 自分でもびっくりするくらいの金切り声を上げながら、わたしは顔を跳ね上げる。


 顔、顔、顔


 教室中を埋め尽くすように、顔が立っていた。


 目のない目 口のない口

 三つの空洞が、顔にへばりついて

 みんなみんなが、わたしを見ている。


 教室の中心、あの画布キャンバス


 絵の中の窓が。


 絵の中の窓が、雨戸が、狂ったように開閉している。


 わたしは震えながら、力の入らない足をり出して前に進む。そうしなければならない。わたしは画布の中央、切り取ったような黒から目が離せない。窓の中の、何も見通せない闇が、あるいはそこに潜む何かが呼吸するたび、窓がばちんばちんと開閉する。今や疑いようもなく画布キャンバスそのものが脈動し、そのたびに美術室という空間が膨張したり縮んだりしていた。


 ばたん ばたん ばたん

 あ、あ、あ


 うるさい

 うるさいよ


 絵の中の窓。

 絵の中の窓に、わたしの顔が映った。


 目のない目 口のない口

 ぽっかりと穴の開いた、誰が誰かも分からない顔。


 なんだ、わたしも最初からのか


 風が吹いている。

 絵の中の窓に向かって、風が吹いている。吸い込まれる。


 わたしを見ている顔たちが、わたしを捕える。引き摺られるように、わたしは絵の前に立った。


 窓の中の真っ黒が、わたしの視界を塗りつぶす。


 これでいいのだ、わたしは孤独だ

 これでいいのだ、わたしは幽霊だ

 これでいいのだ、わたしを塗りつぶして。


 窓の向こうへ。

 窓の向こうへ。


 もう「だれか」なんて考えなくていいところへ。

 もう「わたし」なんて考えなくていいところへ。


 さようなら。




「やっと追いついた。君、足速いね。まるで君の周りだけ空間が縮んでるみたいに」

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